第215話 好機到来
十二月に入り、冷たい風が鉛色に淀んだアラスエ川の川面を撫で、凍てつくような冷気を陣営へと運んでくる。
吐く息は白く染まり、舞い落ちる細かな雪が、血と泥に塗れた荒野を薄っすらと白く覆い隠そうとしていた。
川を挟んで両岸に築かれた巨大な土塁は、まるで見苦しい泥遊びの跡のように無骨にそびえ立っている。ジャック率いるクライナイン王国軍と、アルノーの反乱軍が対陣してから、すでに二ヶ月弱の歳月が流れようとしていた。
本陣の天幕の中で、アルノーは淹れたての温かい紅茶を口に運んだ。だが、その香りが今の彼の苛立ちを和らげることはなかった。彼は微かに眉間を寄せ、純白の手袋をはめた手で、音を立てずにティーカップをソーサーへと戻した。
(不愉快ですね。あの亀のような男が、私の完璧な芸術を邪魔するとは)
彼が出陣前に副官のエディへ豪語した「二ヶ月でジャックを打ち破る」というスケジュールが、音を立てて崩れようとしている。
戦線は完全に膠着し、弾薬と食糧だけが非効率に消費されていく泥沼の消耗戦に陥っていた。
「閣下。本日も敵陣に目立った動きはありません。両軍ともに土塁の補強を続けるのみで、散発的な威嚇射撃が交わされる程度です」
副官のエディが、頬をこけさせた顔で報告を上げる。その声には、長引く対陣による明確な疲労が滲んでいた。
「わかっています。全く、頭の固い凡人の相手をするのは骨が折れますね」
アルノーは涼しい顔を取り繕いながらも、その視線は机上の戦況図を冷酷に睨みつけていた。
現状を打破するための「最終手段」は、彼の頭脳にすでに用意されている。
現在、自軍に組み込んだ旧ズタリア王朝の兵士、およそ十五万。彼らを最前列に並べ、文字通りの「肉の盾」として大橋と浅瀬へ一斉に突撃させるのだ。そして、彼らの背後には自軍の精鋭を『督戦隊』として配置する。もし敵の銃火に恐れをなして逃げ帰ろうとする者がいれば、背後から容赦なく一斉射撃を浴びせ、物理的に退路を断つ。
極限の恐怖で狂乱した十五万の暴徒を押し付ければ、いかにジャックの防衛陣といえども、必ず崩壊するはずだ。
(しかし……)
アルノーの冷徹な計算式が、ここで警鐘を鳴らす。
その策には、極めて危険な不確定要素が孕んでいた。死の恐怖に直面した十五万の人間が、パニックを起こして督戦隊である自軍へ反旗を翻した場合、どうなるか。自軍の正規兵は九万。暴走したズタリア兵が逆流してくれば、いかに精鋭といえども飲み込まれ、軍全体が完全に崩壊するリスクがある。
理を重んじるアルノーにとって、そのような不確定要素の強いギャンブルは、決して美しい戦術とはいえなかった。
実行に移すべきか否か。彼が机上の地図を睨みつけ、考えあぐねていたその時だった。
天幕の入り口が乱暴に開かれ、冷たい雪混じりの風と共に、一人の伝令が転がり込んできた。
「閣下! 火急の報せでございます!」
血相を変えた伝令の姿に、エディが鋭く咎める。
「騒々しいぞ。何事か!」
「斥候より、急報が届きました! 女王が……いや、ミレーヌ・グラッセ自らが、五万の直轄軍を率いてこちらに向かっています! 猛烈な速度で行軍を続けており、あと二、三日もすれば、このアラスエ川の戦場に到着する見込みです!」
その報告が響いた瞬間。常に泰然自若としていたアルノーの涼しい瞳が、わずかに見開かれた。
「……あの女自らが、出てきたというのですか?」
アルノーの端正な口唇から、信じられないものを見るような声が漏れる。
安全な王都に居座るミレーヌを最終決戦で葬り去る予定であったが、わざわざ自ら死地に赴いてくるとは。驚愕は、瞬く間に背筋を震わせるほどの強烈な歓喜へと変貌した。
わざわざクーロンヌ・ダルジャンへ攻め上る手間が省けたのだ。ここで彼女の首を刎ねれば、この忌々しい戦争はすべて終わり、自分が世界の頂点に立つことができる。
すると、休む間もなく、今度は別の伝令が天幕へと駆け込んできた。
「北東のズタリア方面より早馬です! 大族長トゥムル率いるルメイバ部族連合軍の騎馬軍団十五万が猛烈な速度でこちらへ進撃中! 明日には、当陣営に合流するとの手筈にございます!」
「十五万の騎馬……!」
エディが思わず感嘆の声を漏らした。
十五万という数は、ただの数字ではない。かつて超大国であるメーラ天帝国をも震え上がらせた、圧倒的な機動力と破壊力を有した騎兵団である。その強大な力が、ついに自軍に加わるのだ。
アルノーは、ゆっくりと立ち上がった。
膠着し、腐りかけていた戦線が、突如として極上の舞台へと反転した。
十五万の騎馬隊をもってすれば、敵がいかに銃撃をしようとも、必ず蹂躙できる。そして何より、最高の獲物であるミレーヌ・グラッセが、自らその首を差し出しにやって来るのだ。
「ふふふふ」
アルノーは、顔の筋肉を歪め、恍惚とした笑みを浮かべた。
(この無駄な対陣は、この私を世界の支配者とするために必要だったのですね。これで、督戦隊などという泥臭い真似をする必要はなくなりました。圧倒的な兵力で、あの銀髪の魔女の首をいただきましょう)
冬の冷たい風が吹き荒れる天幕の中で、端正な青年将校は、もはや己の狂気を隠すこともなく、腹の底から湧き上がるような高い笑い声を響かせ続けた。
世界を自らの色に染め上げる、最も残酷で美しい決戦の時が、今まさに訪れようとしていた。
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