第214話 女王の出陣
アラスエ川で両軍が土木工事を始めたころ、クライナイン王国の王都クーロンヌ・ダルジャンの王宮の執務室。黒檀の机の奥で、ミレーヌ・グラッセはジャックから届けられたアラスエ川の戦況報告書から視線を外し、小さく息をついた。
ミレーヌは静かに目を閉じ、右手の人差し指で机を静かに叩く。
乾いた音が止むと同時に、彼女は冷静に現状を分析し始めた。
アラスエ川の戦線は想定通り完全に膠着している。最大の理由は、敵も味方も全く同じ「銃」を主力装備としていることだ。これまでは圧倒的な技術力の差をもって他国を蹂躙してきたが、同じ武器を持つ者同士になれば、純粋な兵力と戦術の削り合いに陥ってしまう。
(今の戦局は……前世の歴史で言えば、南北戦争や戊辰戦争の一歩手前といったレベルかしら。銃火力が主力になっているけれど、戦場を支配する決定的な破壊力が欠けている)
青銅製のカノン砲は既に実戦投入しているが、射程や破壊力、何より耐久性に限界があった。より強力な火薬の爆発に耐えうる「鉄製」の大砲が不可欠なのだ。しかし、現状の製鉄技術では、不純物が多く混じり、発射時の圧力に耐えきれずに砲身が破裂してしまうという致命的な壁にぶつかっていた。
(鉄の精錬技術が劣っているのが本当に痛いわね……。そういえば、幕末の日本で、国産の鉄製大砲を鋳造していた歴史があったわ。確か、韮山や薩摩藩で作られていた……『反射炉』。すっかり忘れていたわ)
ミレーヌの脳裏に、かつて見た巨大な煙突の記憶が蘇る。熱をドーム状の天井で反射させ、燃料の不純物を直接混ぜずに純度の高い鉄を精錬する仕組みだったはずだ。これさえ建設できれば、製鉄のレベルは飛躍的に向上する。
(火薬の質はまだ劣るかもしれないけれど、そこはホマンに研究させれば何とかなるはず。待てよ……良質な鉄が大量生産できて、強力な圧力に耐えうる鉄のシリンダーが作れれば、蒸気機関だって開発できるかもしれないわね)
しかし、冷徹な理性がすぐに彼女を現実へと引き戻した。
(いずれにしても時間が足りないわ。今回のアルノーとの戦いには、どう足掻いても間に合わない)
盤上の駒を見下ろすような彼女の眼差しは、アルノーという身内の反逆者だけを見てはいなかった。さらに東、大陸の五分の三を支配する超大国、メーラ天帝国。彼らは圧倒的な国力を持っている。
(我が国の技術がすでに流出している可能性も考えられるわ。相手も同じ装備を持っていると前提して、戦略を一段階上に引き上げる必要があるわね。……いずれにせよ、開発は急がせなければ)
ミレーヌは、体温を感じさせない声で、扉の前に控えていた専属メイドを呼んだ。
「リサ」
「はい、陛下」
「至急、ホマンとレーモンを呼んできてちょうだい」
「かしこまりました」
リサが恭しく一礼して退室しようと扉を開けた瞬間、入れ違うようにして、工務庁長官のサミールが足早に入ってきた。彼は無骨な顔に満面の笑みを浮かべ、手に分厚い書類の束を抱えている。
「失礼いたします、陛下!」
「サミール。どうしたの?」
「午前中にお尋ねの件、報告書をお持ちしました」
サミールが誇らしげに差し出した報告書を受け取ると、ミレーヌの薄氷を思わせる瞳に、満足げな光が宿った。
◆◇◆◇
それから一週間後。
十二月を目前に控えた、底冷えのする早朝。王都クーロンヌ・ダルジャンの城門前には、ミレーヌ直轄の五万の軍勢が、一糸乱れぬ隊列を組んで整列していた。冷たい冬の空気を震わせるように、クライナイン王国の軍旗が力強くはためいている。
ミレーヌは漆黒の愛馬に跨り、大軍の先頭に立っていた。濃紺の軍服に身を包み、プラチナブロンドの髪を風に揺らす彼女の姿は、静かでありながらも圧倒的な威圧感を放っている。
見送りに来た宰相のレベッカが馬前に進み出て、深く恭しい礼をとった。
「陛下。留守の王都は、すべてお任せください。どうか、ご武運を」
「ええ、頼んだわよ、レベッカ」
ミレーヌは、凪いだ海のような瞳で短く応じた。
そして、彼女は視線を真っ直ぐに、はるか東の方角——アルノーとジャックが対峙し、血と泥にまみれているアラスエ川の戦場へと向けた。刃のように研ぎ澄まされた視線を地平線へ向け、ミレーヌは静かに、だが確固たる声で告げた。
「今年中に、決着をつけるわ」
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