第213話 造成工事
十一月に入り、アラスエ川を吹き抜ける風は一段と冷たさを増していた。
川面は鉛色に淀み、東岸のクライナイン王国軍陣営には、絶えず泥と汗、そして微かな血の匂いが染み付いている。
最初の激突から二週間。戦線は、ジャックの思惑通り、完全な膠着状態に陥っていた。
しかし、その二週間は決して平穏なものではなかった。
対岸に陣を構えるアルノーは、正面からの力押しが通用しないと悟るや否や、ありとあらゆる奇策を執拗に仕掛けてきたのだ。
闇夜に乗じた少数精鋭による夜襲。背後の補給部隊が襲撃されたという巧妙な虚報の流布。さらには、クライナイン軍の陣地ギリギリまで少数の部隊を接近させ、言葉巧みに兵士たちの感情を逆撫でする挑発行為。
狂気と合理性が入り混じったアルノーらしい、神経をすり減らすような揺さぶりの連続だった。ジャックは文字通り寝る間も惜しんで陣頭に立ち、それらの策を一つ一つ、冷静かつ的確に潰し続けてきた。
「本当に、底意地の悪い男だ。次から次へとよくもまあ、陰湿な策を思いつくものだ」
ジャックは、目の下に濃い隈を作った顔で、忌々しげに吐き捨てた。
アルノーの攻め手の豊富さと、それを実行する非情さには内心驚愕させられたが、ジャックの心は決して折れなかった。
結果として、最初の激突以降も、二週間の局地的な衝突でさらに両軍ともに数千の死傷者を出したものの、戦線は一歩も動いていない。ミレーヌが事前に指示した「防衛線を維持し、時を稼ぐ」という大戦略を、完璧に実現しているのだ。
「閣下、対岸に動きがあります」
傍らに控えていた副官のヒューゴ少佐が、望遠鏡から目を離して報告した。
ジャックは前線に設けられた土塁の上に立ち、冷たい風に目を細めながら対岸を見据える。
アラスエ川の西岸では、無数の兵士たちが蟻のように群がり、土嚢や背負い籠を使って大量の土砂を積み上げ始めていた。彼らの服装は、アルノーの本軍のそれではない。ズタリア王朝の兵士たちだ。鞭打たれ、酷使されている様子が遠目にもわかる。
「何をするつもりでしょうか?」
ヒューゴが怪訝な顔で問いかける。ジャックは腕を組み、冷徹な視線でその土木工事の様子を分析した。
「大方、高台を構築して、上から射撃するつもりだろう」
「高台……ですか。それは厄介ですね。こちらが土塁に身を隠していても、上から撃ち下ろされれば被害が出ます」
ヒューゴの懸念はもっともだった。射程距離の不利を、高さという物理的な優位で補おうというアルノーの目論見は明白だ。
「確かにな。降伏したズタリア兵を使い潰して高台を築かせるなど、いかにもあの男らしい冷酷なやり口だ。しかし……」
ジャックはそこで言葉を区切り、口元に微かな笑みを浮かべた。
「しかし?」
「奴も、他に有効な攻撃手段がもう無いということだ」
「というと?」
ヒューゴが首を傾げる。ジャックは、眼下に広がる広大な戦場全体を指差した。
「あのアルノーが、わざわざ時間と労力のかかる土木工事などという泥臭い手段に出てきたのだ。それはすなわち、夜襲も、虚報も、挑発も通用せず、手っ取り早く我々を崩すための『奇策のネタ』が完全に尽きたという証拠に他ならない。どんなに狡猾な頭脳を持っていても、知恵は無限に湧くわけではないからな」
「なるほど……。とはいえ、高台が完成すれば局地的な不利は免れませんが」
「ところで、渡河ポイントになりそうな浅瀬上流からの報告はどうなっている?」
ジャックは、この本陣から数十キロ離れたアラスエ川の上流にも、渡河できそうな浅瀬を警戒すべく多くの偵察兵を派遣していた。
「現在までのところ、特に異常を知らせる報告はありません。敵の別働隊が上流へ向かった形跡もないとのことです」
「よし。ならば、こちらも動くとするか」
ジャックは、相手の土木工事が陽動ではないかという疑念もあったが、上流に動きがないことを確認し、力強い声で命じた。
「前線の部隊に、対岸へ向けて嫌がらせの威嚇射撃を行わせろ。有効射程外とはいえ、鉛玉が飛んでくれば工事の足枷にはなる。その隙に、我々もさらに高い土手を作る」
「こちらも土手を作るのですか! しかし閣下、いくら距離があるとはいえ、土を積むために身を乗り出せば無防備な姿を晒します。我々が工事を始めれば、それを邪魔するために、敵も威嚇射撃を仕掛けてくるのではありませんか。万が一、流れ弾に当たる危険が……」
ヒューゴが焦ったように進言する。身を隠す土塁をさらに高く積む作業は、無防備な姿を晒す危険な作業だ。
だが、ジャックは静かに首を横に振った。
「いや、威嚇射撃はない」
「なぜ断言できるのですか?」
「アルノーには、そこまで弾を浪費する余裕が無いはずだからだ」
ジャックの確信に満ちた言葉に、ヒューゴはハッとした。
アルノーはイの国を完全に更地にしてしまったため、後方からの物資補給が絶たれている。ズタリアやミランドラで接収した物資で大軍を維持しているものの、火薬と鉛玉の生産能力に関しては、ミレーヌが総力を挙げて稼働させているクライナイン本国の工場には到底及ばないのだ。
無駄撃ちを極端に嫌うアルノーの合理性が、ここでは逆に足枷となる。
「……なるほど。弾薬の消耗戦になれば、最終的に勝つのは圧倒的な生産力を持つ我々だということですね」
「その通りだ。さあ、兵たちにスコップと土嚢を持たせろ。奴らが一つ積むなら、こちらは二つ積む」
かくして、血で血を洗う銃撃戦が繰り広げられていたアラスエ川の戦線は、奇妙な様相を呈し始めた。
川を挟んだ両岸で、数万の兵士たちが銃をスコップに持ち替え、ひたすらに土を積み上げるという、終わりの見えない巨大な土木工事合戦が幕を開けたのである。
凍てつく風が吹き抜ける中、土の匂いと兵士たちの汗が、新たな戦場の空気を作り出していた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
今後の励みになりますので、感想・ブックマーク・評価などで応援いただけますと幸いです。




