第212話 鉄壁
アラスエ川の西岸は、凄惨な血の匂いとむせ返るような硝煙に包まれていた。肉の盾とされた旧ラスカ王国の住民たち、そして彼らに紛れ込んでいたズタリア弓兵の奇襲により、ジルダ少将が指揮する防衛ラインは完全に統制を失い、泥沼の乱戦と化していた。
その混乱に乗じ、アルノー直属の部隊が、大橋を踏み鳴らして怒涛の如く雪崩れ込んでくる。
本陣の小高い丘からその惨状を見下ろすジャックは、険しい表情を浮かべていた。
「閣下! 前線が崩壊しかけています!」
副官のヒューゴ少佐が血相を変えて叫ぶ。無理もない。味方が蹂躙されていく様を目の当たりにすれば、平常心など保てるはずがない。
しかし、ジャックの眼差しは、極めて冷静で澄み切っていた。
「落ち着け。あの大橋の幅を見ろ。一度に大軍が通れる広さではない」
「ですが、このままではジルダ少将の部隊が……!」
「援軍は送らん。今、浮き足立った部隊に兵を注ぎ込めば、敵の思惑通りに無秩序な乱戦に巻き込まれるだけだ。それこそが、アルノーの望む展開だ」
ジャックは、戦場を一つの盤面として冷徹に俯瞰しながら言った。
「今戦っている地点の後方に、素早く『第二の防衛陣』を再構築しろ」
「なっ……前線の部隊を見捨てるのですか!」
「そうだ。新たな陣を構築した後は、やみくもに銃撃するな。近づいてきた敵兵のみを正確に狙って撃て。……多少の誤射は構わん。全軍の崩壊を防ぐことが最優先だ」
ジャックの揺るぎない声に、ヒューゴは息を呑み、即座に伝令を走らせた。冷酷だが、これ以外にアルノーの卑劣な手段を防ぐ手立てはない。ジャックは自ら前線近くへ馬を進め、第二防衛陣の構築を陣頭指揮し始めた。
◆◇◆◇
一方、最前線で血みどろの死闘を繰り広げていたジルダ少将は、後方でジャックが援軍を送らず、新たな防衛陣を築き始めているのを視界の端に捉えた。
(……なるほど。大将は我々を切り捨てることで、軍全体の崩壊を防ぐおつもりか)
ジルダの顔に絶望の色はなく、上官の冷徹な戦術を理解した軍人としての鋭い笑みが浮かんだ。
「総員、聞け! 後方へは退くな! 左の敵を突破して一旦離脱する」
もしこのまま後方へ撤退すれば、アルノー軍の勢いに押された自軍が、構築中の第二防衛陣に雪崩れ込み、陣形を内部から破壊してしまう。ジルダはそれを防ぐため、あえて血路を左へ開き、敵軍の圧力を逸らす機転を見せた。
激しい白兵戦の中、ジルダの部隊は泥と血に塗れながらも、必死に左翼へと身を躱していった。
◆◇◆◇
ジャックが指示した第二防衛陣が強固な形になりつつある中、新たな伝令が本陣に駆け込んできた。
「申し上げます! 本陣より北へ五キロ離れた浅瀬の渡河ポイントに、アルノー軍の別働隊が現れました! 川を渡るものと思われます」
その報告に、周囲の幕僚たちがざわめいた。
「側面攻撃か……」
ジャックは、アルノーの狡猾な多段構えの策を正確に把握した。正面の大橋で乱戦を引き起こし、全軍の目を引きつけた隙に、渡河した別働隊で手薄な側面を突く。
「慌てるな。想定の範囲内だ。一番近い左翼のニコロ少将の軍を直ちに向かわせろ。渡河中の足場が悪い敵に対し、岸から一斉射撃を浴びせ、一兵たりともこちら岸へ上陸させるな」
「はっ!」
ジャックの淀みない指示により、ニコロ少将の軍が迅速に北へと向かう。アルノーの放った別働隊は、川の半ばで待ち構えていたジャックの軍から苛烈な銃弾の雨を浴び、思うように渡河することが出来なかった。
◆◇◆◇
アラスエ川の大橋の対岸で、余裕の笑みを浮かべながら遠望していたアルノーであったが、時間の経過とともにその表情は徐々に険しさを増していった。
三時間後、崩壊するはずのクライナイン王国軍が、後方で完璧な「第二防衛陣」を構築し戦線を保っていたのだ。しかも、前線で混乱していたはずのジルダの部隊は左へ転進し、乱戦の波及を見事に防いでいる。
さらに、北へ向かわせたマカーリオ少将の別働隊からも、渡河を阻止され損害を出しているとの報告が届いた。
アルノーの計算式に、わずかなノイズが走る。
(前線の味方を見捨てて陣を再構築したというのですか? それに、私の別働隊の動きまで読んで予備兵力を当ててくるとは……)
無表情な銃撃兵たちが一糸乱れぬ動きで放つ正確な射撃により、橋を渡りきったズタリア王朝の軍が次々と薙ぎ倒されていく。
「閣下、いかがなさいますか……このまま攻撃を続けますか?」
副官のエディ少佐が焦燥に駆られた声を上げた。
アルノーは静かに目を閉じ、瞬時に損益を計算した。
「一旦後退させなさい。これ以上の攻撃は、自軍を無駄にすり減らすだけです。極めて非効率。全軍、橋の対岸まで後退しなさい」
アルノーの判断は、感情を挟まない冷徹なものだった。絶対の勝利を確信していた奇襲が防がれた以上、ここで無理に血を流す必要はない。
かくして、アラスエ川の激闘は、両軍が川を挟んで再び睨み合う形で幕を閉じた。クライナイン王国軍の死傷者は四千。対するアルノー軍の死傷者は五千。
数字の上では痛み分けとも言える結果だったが、非武装の住民を利用した敵の奇策を完璧に凌ぎ切ったジャックの防衛戦は、アルノーに冷水を浴びせるには十分すぎるものだった。
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