第211話 橋を渡る者
十月下旬。秋の深まりを感じさせる冷たい風が、旧ラスカ王国を分断する大河、アラスエ川の川面を波立たせていた。
その西岸を、見渡す限りの軍勢が埋め尽くしている。イの国を更地にし、ズタリア王朝を無血で飲み込み、旧ラスカ王国の王都ミランドラを陥落させたアルノーの軍勢、総勢二十四万である。
彼らは、工務庁長官サミールの手によって突貫工事で架けられた巨大な石造りの大橋の手前に、布陣を完了させていた。
アルノーは、自陣の小高い丘に本陣の天幕を張らせ、純白の手袋をはめた手で望遠鏡を構えた。レンズの向こう側、アラスエ川の東岸には、かつての上官であるジャック大将が率いる十三万の軍勢が、大橋を封鎖するように強固な防衛陣を敷いている。
「相変わらず、面白みのない亀のような陣形ですね。あのむさ苦しい男の考えることは、手に取るようにわかります」
アルノーは望遠鏡をゆっくりと下ろし、端正な顔立ちに冷ややかな笑みを浮かべた。彼の瞳には、二十四万対十三万という数の優位に驕る様子もなく、敵をどう効率的にすり潰すかという計算だけが働いている。
「閣下、全軍の配置が完了いたしました」
傍らに控える副官のエディ少佐が、恭しく報告する。アルノーは、軍服に付いた見えない埃を軽く払い落としながら、涼しげな声で命じた。
「ご苦労様です。では、ジャックを打ち破りましょうか。エディ少佐、例の策を」
「……承知いたしました」
エディは一瞬だけ顔を強張らせたが、すぐに踵を返して指揮所へと向かった。
◆◇◆◇
アラスエ川東岸。クライナイン王国軍の本陣が置かれた小高い丘の上で、ジャック大将は、豊かな顎鬚を撫でながら対岸を睨みつけていた。
「申し上げます! アルノー軍、動きました! 中央の大橋に向かって、先陣が突入してきます!」
伝令の切羽詰まった声が響く。ジャックは即座に立ち上がり、眼下の大橋へと鋭い視線を向けた。
遠目にも、大橋の西側から黒い塊が押し寄せてくるのが見える。ジャックは望遠鏡を構え、その集団の動きを注視した。だが、レンズ越しに映ったその光景に、歴戦の将である彼の顔に明らかな戸惑いが浮かんだ。
「なんだ、あの動きは……?」
橋を渡ってくる集団は、軍隊としての体を全く成していなかった。密集陣形を組むわけでもなく、ただ前へ前へと押し出されるように、無秩序な塊となって進んでくる。武器を掲げる者もおらず、足並みはバラバラだ。
さらに目を凝らしたジャックは、我が目を疑った。
彼らが身に纏っているのは、軍服や甲冑ではない。泥に汚れた粗末な布の服。怯えきった表情で、背後から急り立てられるように橋を渡らされているのは、老人や女子供を含む平民たちだった。その数、およそ五千。
「統制が取れていない、いや……あれは兵士ではない!」
ジャックの怒りに満ちた声が、本陣に響き渡った。アルノーの狂気は、ついに無抵抗の民を、「肉の盾」として戦場に投じるという一線を越えたのだ。
◆◇◆◇
大橋のすぐ手前、クライナイン王国軍の最前線で防衛の指揮を執るジルダ少将は、迫り来る群衆の姿に愕然としていた。
「撃つな! ただの住民だ!」
最前線に配置された銃撃兵たちから、悲痛な叫び声が上がる。
武器を持たず、泣き叫びながら押し出されてくる平民たちに向けて、無慈悲に引き金を引くことなどできるはずがなかった。兵士たちがマスケット銃を下ろし、動揺に包まれたその瞬間こそが、アルノーの仕掛けた狡猾な罠の真骨頂であった。
「なっ……!?」
ジルダの視界の端で、住民たちの群れの中に紛れ込んでいた粗末な外套の男たちが、突如としてその布を脱ぎ捨てた。現れたのは、ズタリア王朝の正規兵たちだ。彼らは手にした強弓を素早く構え、銃を下ろして無防備になっていたクライナイン軍の最前列に向けて、至近距離から一斉に矢を放った。
「ぎゃあっ!」
「敵だ! 住民の中に敵の弓兵が紛れ込んでいるぞ!」
空気を裂く無数の矢が、最前列の兵士たちの首や顔面を正確に射抜く。対騎兵戦で鍛え上げられたズタリアの弓兵の精度は、恐るべきものだった。
さらに、橋の上で住民たちの背後に押し寄せていたズタリア弓兵の主力部隊が、前方の住民ごとクライナイン軍を射抜くように、無差別の矢の雨を降らせ始めたのだ。
矢は、泣き叫ぶ旧ラスカの平民たちの背中を容赦なく貫き、そのまま突き抜けてクライナインの兵士たちをも殺傷していく。血飛沫が舞い、悲鳴と怒号が入り混じる凄惨な光景が広がった。
「構わん、撃ち返せ! 陣形を崩すな!」
ジルダは声を枯らして叫び、剣を振りかざして必死に軍の崩壊を防ごうとした。だが、目の前で肉の盾にされている平民を撃つことへの躊躇いと、紛れ込んだ弓兵からの正確な狙撃によって、最前線は完全に乱戦状態へと陥っていた。
ズタリアの兵士たちは防御陣を乗り越え、各所で白兵戦が始まっていた。
「少将閣下! 敵の新手が……アルノー軍の正規部隊が、橋を渡ってきております!」
部下からの絶望的な報告を聞き、ジルダが橋の向こうへ目を向けると、積み重なる住民と兵士の死体を冷酷に踏み越えながら、鈍く光る銃剣を構えたアルノー軍の精鋭たちが、ひたひたと、圧倒的な圧力をもってこちらへ迫ってきているのが見えた。
「くそっ……! あの悪魔め……!」
ジルダは、血に濡れた剣を握り直し、迫り来る絶望の波に立ち向かうべく、奥歯を強く噛み締めた。
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