第210話 布陣
十月の上旬。秋の冷たい風が街道を吹き抜けていく。
乾いた土埃を巻き上げながら進軍するのは、ジャック大将が率いる十三万のクライナイン王国軍であった。彼らは、反旗を翻したアルノーの軍勢を討ち果たすべく、旧ラスカ王国の王都ミランドラを目指して西へと歩を進めている。
ズタリア王朝が降伏し、その大軍がアルノーに吸収されたという報せを受けたばかりのジャックの顔には、歴戦の将らしい隙のない緊張感が張り付いていた。隣に馬を並べる副官のヒューゴ少佐も、手元の望遠鏡で頻繁に前方の警戒を怠らない。
「閣下。このままの行軍速度を維持できれば、あと二週間ほどでミランドラに到着いたします。ユーグ少将の駐留軍と合流すれば、盤石の態勢が整うかと……」
ヒューゴが報告を終えようとした、まさにその時だった。前方から一騎の早馬が、馬の脇腹から白い泡を吹かせるほどの猛烈な速度で駆け寄ってきた。伝令の兵士は、ジャックの御前で馬から転げ落ちるようにして膝をついた。
「ご、ご報告いたします! 旧王都ミランドラが陥落! ユーグ少将率いる駐留軍は、撤退中に敵の伏兵と本隊による挟撃を受け、完全に壊滅いたしました!」
その報せに、ヒューゴが息を呑む。ジャックは険しい顔で伝令を見下ろした。
「ミランドラが落ちたか……ユーグは強固な城壁に籠って防衛を固めていたはず。なぜ、城を捨てて撤退などしたか?」
「そ、それが……生き残った兵たちの話だと、本国からの命令により、直ちにミランドラを放棄してジャック大将の軍に合流せよとの絶対命令を受信したとのことで……!」
ジャックの脳裏で、点と点が最悪の形に結びついた。
「……オセロ通信が、乗っ取られたか」
巨大な黒い板を回転させて情報を伝達する、ミレーヌ考案の画期的な通信網。アルノーは、その中継ポイントを制圧し、偽の命令を送ることで、ユーグに城の放棄を迫ったのだった。
「ヒューゴ! 直ちに陛下に連絡をしろ。アルノーが知っている現行のオセロ通信の暗号対応表を、全て変更していただくよう上申するのだ。このままでは、すべての命令が奴に筒抜けになるどころか、再び偽報で味方が踊らされるぞ!」
「はっ! 直ちに手配いたします!」
ヒューゴが青ざめた顔で駆け出していく。それを見ながら、ジャックは今後の戦局を冷徹に計算し始めた。
ユーグの駐留軍を吸収したアルノー別働隊が、ミランドラを占領した。そして、イの国を更地にしたアルノー本軍九万と、ズタリア王朝で寝返らせた十五万が合流すれば、敵の総数は優に二十四万を超えるだろう。
こちらの兵力は十三万。新型のフリントロック式銃の数ではわずかにこちらが上回っているが、ズタリアから吸収した敵軍には、対騎兵戦で鍛え上げられた優秀な弓兵が多数含まれているはずだ。
遮蔽物のない平野でまともにぶつかり合えば、間違いなく凄惨な消耗戦となる。兵力の少ないこちらが圧倒的に不利なのは、火を見るより明らかだった。
「やはり、ミレーヌ様が仰った通りするしかないか」
ジャックは全軍に目標の変更を伝えた。向かう先は、かつてラスカ王国の大軍を水底に沈めた因縁の地、大河アラスエ川である。
◆◇◆◇
ラスカ王国が滅亡しクライナイン王国の版図に組み込まれてから、物流を活性化させるため、工務庁長官のサミールが陣頭指揮を執り、アラスエ川には突貫工事で巨大な石造りの大橋が架けられていた。
アラスエ川の東岸に陣を構えたジャックの元へ、陣形配置を終えたヒューゴ少佐が戻ってきた。
「閣下。防衛陣を構築するのであれば、いっそのこと、あの大橋を落としてしまってはいかがでしょうか? 敵の渡河を物理的に防げば、こちらは一方的に銃撃を浴びせることができます」
軍事的な定石としては極めて真っ当な意見だった。しかし、ジャックはヒューゴの提案を聞いて、思わず声を出して笑った。
「はっはっは。大橋を爆破するだと? そんなことをしたら、あのサミールが怒りのあまり卒倒してしまうぞ。あいつがどれだけ血と汗を流してあの橋を架けたと思っている」
「……確かに。サミール長官に恨み言を言われ続けるのは御免ですね」
ヒューゴも苦笑交じりに頷いた。ジャックは笑いを収め、眼下を流れる大河を見据える。
「それに、橋を落とせば確かに防衛側には有利に働く。だが、いずれミレーヌ陛下が親征なされた際、アルノーの軍を打ち破ったあとに、橋がなければスムーズな追撃ができなくなる。陛下の覇道を妨げるような真似はできん。橋はそのまま残す」
「承知いたしました」
ジャックは腰の剣の柄に手を当て、西の空を睨みつけた。あの狡猾で狂気的な青年将校が、二十四万の巨大な波となってこの防衛線に押し寄せてくる日は、そう遠くない。
◆◇◆◇
同じ頃、旧ラスカ王国の王都ミランドラ。
静まり返った石造りの街並みに、無数の軍靴の音が不気味なほど整然と響き渡っていた。
先陣を切って入城を果たしたのは、アルノーが率いる本軍二十一万である。彼らは、ユーグの駐留軍を壊滅させたマカーリオ率いる別働隊三万と、この王都で合流を果たしていた。総勢二十四万。
アルノーは、ミランドラ城の最も豪華な執務室で、純白の手袋をはめた手で優雅に紅茶のカップを傾けていた。外の広場からは、莫大な数の兵士たちが立てる喧騒と、微かな鉄と汗の匂いが漂ってくる。
傍らに控える副官のエディが、全軍の配置完了と物資の接収状況をまとめた羊皮紙を恭しく差し出した。
「ご苦労様でした」
アルノーは報告書を机に置き、端正な顔に薄い笑みを浮かべた。だが、エディの顔には、手放しの喜悦の代わりに、軍政を担う者としての深い懸念が刻まれていた。
「閣下。兵力は順調に二十四万へと膨れ上がりました。しかし、問題は兵站です。イの国を更地にしたため、あそこからの物資調達は不可能です。ズタリア王朝や、このミランドラで接収した食糧をすべてかき集めても……この大軍の胃袋を満たせるのは、十ヶ月持つかどうかといったところですが」
エディの懸念はもっともだった。二十四万の軍隊が一日で消費する食糧の量は、常人の想像を絶する。補給線が細い現状では、長引く対陣は自滅を意味していた。 しかし、アルノーは、爬虫類のような視線をエディへ向けた。
「十ヶ月も必要ありませんよ」
「と、申しますと?」
「簡単な計算です。では、二ヶ月であの汗臭いジャックの防衛線を打ち破り、次の二ヶ月でミレーヌを殺し、最後の二ヶ月で王都、銀王冠を落としましょう。それで半年。完璧なスケジュールではありませんか」
まるで今日の夕食の献立でも決めるかのように、アルノーは涼しい顔でうそぶいた。その言葉の裏にある、狂気的なまでの自己への絶対的信頼に、エディは思わず背筋を震わせた。
「さあ、無駄な時間を過ごしている暇はありません。全軍に命じなさい。直ちに東へ進発し、アラスエ川へ向かうように、と」
アルノーは立ち上がり、軍服の襟を正した。彼の明晰な頭脳には、世界を自らの手で作り変えるという美しい青写真が、すでに狂いのない線で描かれ切っているのだった。
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