第208話 ミランドラ攻略戦
九月の乾いた風が、旧ラスカ王国の王都ミランドラの高い城壁を吹き抜けていく。駐留軍の指揮を任されているユーグ少将は、胸壁から身を乗り出し、地平線の彼方に立ち上る土埃を険しい顔で見つめていた。
「敵軍、およそ二万。一直線にこのミランドラへ向かってきております」
傍らの副官が、望遠鏡を下ろして報告する。アルノー・ルベの反逆。その報せは、すでにこの地にも届いていた。そして今、アルノーの配下であるマカーリオ少将が率いる別働隊が、この王都を落とすべく迫っているのだ。対するユーグの駐留軍は二万。
「慌てるな。我々にはこの堅牢な城壁と、十分な弾薬がある。籠城して敵を出血させ、ジャック大将の本軍の救援を待つのが最善の策だ」
ユーグは、しわ一つない軍服の襟を正し、自らを落ち着かせるように言った。彼は、無謀な野戦など微塵も考えていない。城に立てこもり 敵を撃退しつつ、本国からの指示を待つ。それが指揮官としての正しい務めであった。
◆◇◆◇
同じ頃、ミランドラから数十キロ離れた荒野にそびえ立つ、巨大なオセロ型通信の中継塔。本来ならば、観測手と操作手が常駐し、国の情報伝達網として情報をリレーする施設に、数人の黒い影が音もなく忍び寄っていた。
「……よし、片付いたぜ」
血濡れた短剣を草で拭いながら、一人の兵士が低く呟いた。施設を管理していた通信兵たちは、すでに物言わぬ骸となって床に転がっている。彼らは、マカーリオ少将から密命を受けたアルノー軍の別働隊であった。兵士の一人が、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、そこに記された暗号配列を確認する。そして、重厚な木と鉄のレバーを操作し始めた。
ガシャン、ガシャンと鈍い音を立てて、巨大な黒い板が回転する。黒い市松模様の偽情報が、次の塔へとリレーされていく。
◆◇◆◇
「ユーグ少将閣下! 緊急のオセロ通信を受信いたしました!」
ミランドラの城壁に、通信兵が血相を変えて駆け上がってきた。ユーグは素早く解読紙をひったくり、その文面に目を落とす。直後、彼の目が驚愕に見開かれた。
「『直ちにミランドラを放棄し、全軍をもってジャック大将の軍に合流せよ』……だと?」
ユーグは信じられない思いで、その短い文面を何度も読み返した。敵が目の前まで迫っているこの状況で、強固な城を捨てて撤退しろというのか。野戦となれば、撤退時の行軍は最も無防備になる。軍事的な常識から考えれば、あまりにも不自然な命令だった。
「閣下、いかがなさいましょうか。今城を出れば、敵に背を向けることになりますが」
「……女王陛下の、あるいはジャック大将の御決定だ。我々に逆らう権限はない」
ユーグは苦渋の決断を下した。あの絶対的なミレーヌ女王の命令に逆らえば、王都へ帰っても粛清される。現場の自分には見えていない、より大きな戦略があるはずだと思い込むしかなかったのだ。
「全軍に伝達! ミランドラを放棄する。速やかに指定された合流地点へ向かうぞ!」
ユーグの号令により、駐留軍は慌ただしく撤退の準備を始めた。数刻後、ミランドラの強固な城門が内側から開かれ、二万の駐留軍が東へと向かって足早に行軍を開始した。
だが、それは破滅への行進に他ならなかった。
秋の陽が傾き始めた頃、撤退を続けるユーグの部隊は、両脇を鬱蒼とした森に挟まれた、見通しの悪い街道へと差し掛かっていた。背後から敵が追ってくるかもしれないという焦燥感が、兵士たちの疲労を加速させている。
「急げ! 日が落ちる前にこの森を抜けるぞ!」
馬上でユーグが声を張り上げた、まさにその瞬間だった。静寂を切り裂くような凄まじい轟音が、街道の左右の森から一斉に鳴り響いた。
「なっ……!」
ユーグが周囲を見渡すよりも早く、無数の鉛玉が空気を引き裂き、行軍中の兵士たちを容赦なく貫いた。血飛沫が舞い上がり、悲鳴と怒号が入り混じる。
「敵襲! 伏兵だ!」
森の中から姿を現したのは、一万に及ぶアルノー軍の銃撃兵たちだった。彼らは完全に身を潜め、ユーグの軍がこの狭い街道を通過する絶好のタイミングを待ち構えていたのだ。混乱の中でユーグが剣を抜き、応戦の指示を出そうとした時、最後尾からも絶望的な悲鳴が上がった。
「後方より敵の大軍! 本隊、二万が猛追してきます!」
背後からは二万の追撃。左右からは一万の伏兵による苛烈な十字砲火。完全に計算し尽くされた包囲網の中で、駐留軍は身動き一つ取れず、ただの肉の的と化していた。マスケット銃の轟音が鳴り響くたびに、部下たちは次々と血だまりに沈んでいく。
「総員、円陣を組め! 突破口を開くのだ!」
ユーグは喉が裂けるほど叫んだ。しかし、統制を失った兵士たちにその声は届かない。彼自身の胸にも、鈍く冷たい衝撃が走った。ユーグの視界は一瞬で反転し、彼は自分が絶命したことすら悟らぬまま、馬の背から硬い土の上へと崩れ落ちた。
◆◇◆◇
翌日の昼下がり。主を失い、不気味なほど静まり返った王都ミランドラの城門を、マカーリオ少将は馬に揺られながら悠々とくぐり抜けた。抵抗する者は一人もおらず、彼の軍勢は一滴の血も流すことなく、この強固な都市を占領したのである。
「笑いが止まらねえな」
元傭兵団長の荒くれ者は、見事な石造りの城壁を見上げながら、腹の底から愉快そうに笑い声を上げた。強固な城を力で落とすのではなく、国の情報伝達網を乗っ取り、偽の命令で敵を自ら死地へと歩かせる。クライナイン王国の情報網の信頼性を逆手に取った、あまりにも狡猾な策だった。
「アルノー閣下ってのは、本物の化け物だな。あの銀髪の女王のやり口を、さらにえげつなくしたようなお方だ」
マカーリオは、背筋を這い上がるような薄ら寒さを誤魔化すように、太い首をごきりと鳴らした。軍事的な常識など通用しない、冷徹な計算と情報操作。圧倒的な知略を見せつける新たな主君の恐ろしさに薄気味悪さを覚えながらも、マカーリオの野卑な笑い声は、もぬけの殻となったミランドラの空に響き渡っていた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
今後の励みになりますので、感想・ブックマーク・評価などで応援いただけますと幸いです。




