第206話 反逆の初手
八月末。イの国の王都であったはずの焦土には、未だに焦げた臭いが漂い、黒い煤が立ち込めていた。
アルノー・ルベは、自身の軍服に微かな灰が落ちるのさえ嫌悪するように、純白の手袋をはめた手で優雅に肩口を払った。女王ミレーヌ・グラッセからの理不尽な召還命令を拒絶し、明確な反旗を翻したアルノーの心には、微塵の迷いも後悔も存在しない。己の完璧な頭脳と武功を正当に評価せず、ジャックやレベッカなどの言に惑わされるような愚かな女に見切りをつける、絶好の機会であったとすら思っていた。あの銀髪の小娘に代わり、この私が新たな支配者として君臨する。それが、この世界の最も正しい最適解なのだ。
アルノーがまず着手したのは、足元の盤石化であった。現在、彼が指揮する九万の軍勢は、元クムーラーナ共和国の傭兵や、サデーナ騎士団領の降伏兵からなる混成部隊である。彼らを強固に惹きつけるのは、高尚な忠誠心などではない。極めて単純で分かりやすい「欲望」だ。アルノーは全軍に対し、破格のボーナスを支給することを公表した。さらに、熱狂する将兵たちの前で、平然とこう宣言したのである。
「あの悪逆非道な暴君、ミレーヌ・グラッセの首を私に献上した者には、金貨五万枚を下賜しましょう」
この発表は、軍全体に劇的な熱狂をもたらした。金貨五万枚といえば、一介の兵士が何十回生まれ変わっても使い切れないほどの莫大な富である。五十万の人間を焼き殺した直後の、倫理観が麻痺した異様な精神状態にあった兵士たちは、巨大な富への強欲に目を血走らせ、アルノーを讃える歓喜の雄叫びを天高く上げた。
◆◇◆◇
兵士たちの野獣のような熱狂が響く本陣の天幕内で、アルノーは執務机の上の大陸地図を静かに見下ろしていた。傍らには、彼に同調し、事の成就の暁には宰相の地位を約束された副官、エディ・ベケが控えている。
「閣下、兵たちの士気は最高潮に達しております」
「当然です。彼らのような下等な輩は、高邁な理屈よりも目の前の餌で動かすのが最も効率的ですからね。忠誠心などという不確かなものより、金への執着の方がよほど計算が立ちます」
アルノーは、兵士を単なる消耗品としか見ていない冷徹な声で言い捨てた。だが、己の軍勢の士気を高めるだけでは、この戦いを制することはできない。ジャックの主力軍と女王の直轄軍を同時に相手にする以上、味方は多いに越したことはないのだ。
「直ちに、東のルメイバ部族連合へ使者を派遣しなさい」
「ルメイバ部族連合……ですか。かの遊牧民族を我々の味方に引き入れると?」
「ええ。我が一軍でミレーヌとジャックの二軍など相手するのは簡単ですが、どうせなら奴らを利用して圧倒するのが最適解です。楽して勝つのが強者の兵法ですよ」
エディはわずかに眉をひそめ、軍政を担う者としての慎重な問いを投げかけた。
「彼らを動かすための報酬は、いかがいたしましょうか? 部族を動かすとなれば、それなりの対価が必要になりますが」
「成功の暁には、ズタリア王朝の領土を丸ごと彼らに与えましょう」
その途方もない条件に、エディは目を丸くした。ズタリア王朝は、クライナイン王国にいち早く隷属し、現在ミレーヌの軍が駐留している東側諸国の一つだ。
「いまだ我々の手中にない領土ですが……それに、一国の領土を丸ごととは少々大盤振る舞いになりませんか?」
「構いません。これから我々が攻め落とします。それに、あの国はもともと、東のルメイバ部族連合からの侵攻を恐れ、城壁のような防護線を延々と築いてました。遊牧民族の彼らにとって、喉から手が出るほど欲しい悲願の土地でしょう。餌としてぶら下げるには最適ですよ」
アルノーは優雅に微笑み、言葉を続ける。
「あの圧倒的な機動力を持つ強力な騎馬軍団を我が手駒として動かせるのなら、僻地の領土一つなど安い買い物です」
エディは納得したように深く頷き、地図のさらに東、大陸の五分の三を支配する巨大な空白地帯へと視線を移した。
「では、東の超大国、メーラ天帝国にも使者を送りますか? 彼らの圧倒的な軍事力も得られれば、ミレーヌの首など容易く獲れますが」
だが、アルノーの涼しい瞳がスッと細められ、静かに首を横に振った。
「いいえ。天帝国には使者を派遣しません」
「なぜでしょうか?」
「力が強すぎるからです」
アルノーは、汚れのない純白の手袋でメーラ天帝国の広大な領土を軽く叩いた。
「援軍という名目で大軍を招き入れれば、彼らは我々を助けるふりをして、そのまま我々の背後から襲いかかり、この大陸の西側をすべて飲み込む可能性があります。相手は、数年前に国内を統一したばかりですが、その国力は絶大です。部族連合のように、目先の利益を提示するだけでノコノコと出向いてくるほど、単純な相手ではありませんよ」
巨大な力を制御できなければ、自らが食い破られる。アルノーの狂気を孕んだ野心の中にも、地政学的なリスクを冷徹に量る計算式は確かに存在していた。圧倒的な強者の介入は、自身の支配領域を脅かす不確定要素でしかないのだ。
「……なるほど、おっしゃる通りです。では、ルメイバ部族連合への使者のみ、至急手配いたします」
「ええ、頼みましたよ」
エディが恭しく一礼すると、アルノーは満足げに姿勢を正し、次なる一手の指示を下した。
「さあ、次の手も打ちましょうか。各部隊の将官クラスを集めなさい」
「はっ!」
足早にテントを出ていく副官の背中を見送りながら、アルノーの口角が冷酷な弧を描いて吊り上がる。あの銀髪の暴君を殺し、世界の頂点に立つための完璧な反逆のシナリオが、これから幕を開けようとしていた。
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