第204話 美しい笑み
八月も終わろうとしている王都クーロンヌ・ダルジャン。宰相レベッカ・リカールは、女王の執務室で日々の内政報告を行っていた。室内に漂うユリのポプリの香りは、いつもと変わらぬ静謐な時間を演出している。黒檀の机の向こうでは、プラチナブロンドの髪を美しく結い上げたミレーヌが、感情の読み取れない静かな瞳で書類にサインを走らせていた。
「——以上が、旧バニア皇国領における今月の税収報告です」
「順調ね。引き続き、物流の監視を怠らないように」
淡々としたやり取りが交わされる中、突如として重厚な扉が乱暴に開け放たれた。
「陛下! 火急のご報告がございます!」
飛び込んできたのは、情報庁長官のマリユス・ピエールだった。普段は元商人らしく飄々とした態度を崩さない男が、今は額に滝のような汗を流し、血相を変えている。
「どうしたの、マリユス。騒々しいわね」
「アルノー中将が……イの国の跡地にて、公然と謀反を起こしました!」
その言葉が響いた瞬間、常に泰然自若としている氷の女王が、珍しく表情を険しくし、勢いよく椅子から立ち上がった。
「本当ですか、マリユス長官!」
レベッカが思わず声を上げると、マリユスは引きつった顔で頷いた。
「はい。アルノーは麾下の将兵を集め、『悪逆非道なミレーヌを滅ぼす』と宣言したとのこと。彼の軍は旧クムーラーナ共和国の傭兵や、降伏したサデーナ騎士団の兵を中心とした混成部隊ですが、こぞってアルノーに忠誠を誓った模様です」
アルノーの陣営に放っていた密偵は、異変を察知した直後に半数が狩り出されて殺害されたという。生き残った者がこの急報をもたらしたのだ。
報告を聞き終えたミレーヌは、無言のままゆっくりと椅子に腰を下ろした。そして、机の上に置かれていた高価な羽ペンを手に取ると、両手で静かに、だが確かな力を込めてへし折った。
ポキッ、という乾いた音が、静まり返った執務室に異様に響き渡る。
己の計算式を根本から狂わされたことに対する、主君の静かで激しい怒りを見て、レベッカは息を呑んだ。
だが、それもほんの一瞬のことだった。
「……今すぐ、ジャックを呼んでちょうだい」
次に発せられた声は、すでに絶対零度の冷たさを取り戻していた。
◆◇◆◇
数分後、大将ジャック・レルネが足早に入室してきた。彼の武骨な顔にも、すでに事態の深刻さが伝わっているのか、厳しい緊張が走っている。
「聞いたと思うけど、アルノーが反逆したわ」
ミレーヌは、へし折ったペンを投げ捨てて、射抜くような蒼い瞳でジャックを見据えた。
「アルノーはイの国を更地にしたことで、現地での補給は不可能よ。九万もの軍を維持するため、兵站の確保を目的に必ず併呑した近隣に攻め入るはず。ジャック、貴方の軍に私の直轄軍から四万を与えるわ。すぐに出征しなさい」
「承知いたしました。して、出征にあたっての方針は?」
ジャックが冷静に問いを投げる。
「アルノーが狙うのは、手薄になっている旧ラスカ王国への侵攻で間違いないわ。あとは、北のズタリア王朝へ向かう可能性もある。貴方はアルノーの侵攻を防ぎなさい。場合によっては、旧ラスカ王国の防衛は難しいかもしれない。その時は無理に守ろうとせず、アラスエ川に強固な防衛線を構築して食い止めるのよ」
アラスエ川といえば、かつて侵攻したラスカ王国の大軍の退路を絶った場所だ。防衛線を敷くには最適な場所であると、レベッカも即座に理解した。
「レベッカ。ズタリア王朝へ『我が国から援軍を派遣する』と連絡を入れなさい」
ミレーヌの指示に、レベッカはわずかに眉をひそめた。
「承知いたしました。ですが陛下、その援軍はどこから捻出するのでしょうか?」
「そんな余力は無いわ」
ミレーヌは、あっさりと答えた。
「ズタリアは我が国に隷属したとはいえ、アルノーの脅威を前に裏切る可能性は十分にある。だからこそ、援軍に向かっているという連絡だけは入れておかないとまずいのよ」
実体のない援軍で属国を繋ぎ止める。レベッカは、その冷徹な外交戦術に深く頷いた。
すると、戦況を分析していたジャックが、思案げな顔で口を開いた。
「陛下、よろしいでしょうか? アルノーはイの国を根絶やしにしたことで、兵站の余裕はほぼありません。仮に旧ラスカ王国を手中に収めたとしても、主要武器の生産はできません。我が国との圧倒的な国力差を考えれば、無用にこちらから手を出さずとも、いずれ崩壊するのではないでしょうか?」
確かに、ジャックの指摘は、軍事的なセオリーに則った正論だった。しかし、ミレーヌは静かに瞳を細め、ゆっくりと首を振った。
「それも考えたわ。でも、あの男が、その程度の事を計算していないはずがない」
ミレーヌは机の上の広大な大陸地図を見下ろした。
「アルノーは生き残るため、必ず外部の勢力と結託するはずよ。東のルメイバ部族連合や、メーラ天帝国と軍事同盟を結ぶ可能性が高い。とくに、メーラ天帝国とは、今は絶対に事を構えたくない。それに反乱を放置すれば、征服した国でも違う反乱がおきる可能性もある」
その国名が出た瞬間、レベッカの背筋に冷たいものが走った。大陸の五分の三を支配する圧倒的な覇権国家。もし彼らがアルノーを支援し、西側へ本格的に介入してくれば、いかにクライナイン王国といえども無傷では済まない。
「しかし……」
ジャックが食い下がる。
「今のご指示では、防衛に徹するということです。それでは時間ばかりを消費し、かえって敵に外交の猶予を与えてしまうのでは?」
「ジャック、焦っては駄目よ」
ミレーヌは、波一つ立たない静かな声で将軍を宥めた。
「アルノーの率いる軍の装備は、我が方と全く同じもの。急いで野戦を挑んでも、無駄な消耗戦になるだけだわ。いずれ、時が来れば私自らが出征して必ず決着をつける。でも、今はまだその時ではない。だから、数ヶ月は強固な防衛線を敷き膠着状態にさせなさい」
「承知いたしました」
ジャックは深く一礼し、出陣の手配をするために執務室を後にした。
扉が閉まると、レベッカは静かに主君の横顔を見つめた。
(ジャックに多めに兵を与え、本国に残される直轄軍はわずか五万……。いずれご自身が出征するとおっしゃったが、どうやってアルノーを打ち破るおつもりなのだろうか)
優秀な宰相であるレベッカの頭脳をもってしても、ミレーヌの描く勝利の方程式はまったく見えてこなかった。
不安が微かに胸をよぎる。だが、レベッカが視線を向けた先で、ミレーヌの顔には先ほどの激情の片鱗は欠片も残っていなかった。窓から差し込む秋の光を浴びながら、銀髪の女王は、いつもと変わらぬ、絶対的な自信に満ちた冷たく美しい笑みを浮かべていた。




