第202話 命令
八月に入り、灼熱の太陽が、王都クーロンヌ・ダルジャンの石畳を白く焼き焦がしている。
だが、王宮の奥深くにある女王の執務室だけは、まるで真冬の極北のような絶対零度の冷気に支配されていた。
情報庁長官マリユス・ピエールから提出された一枚の羊皮紙を、ミレーヌ・グラッセは無言で見つめている。常に完璧に整えられている彼女のアイスブルーの瞳が、ほんのわずかに、だが確実に揺らいでいた。
(……五十万以上の人民を、王都ごと焼き殺し、根絶やしにしただと?)
報告書に記されたアルノー・ルベ中将の凶行は、ミレーヌの理解の範疇を完全に超えていた。
確かに、ミレーヌの両手は血に塗られている。だが、それは彼女が目指す新しいシステムを構築するために、敵対する勢力などを排除をしてきた結果に過ぎない。しかし、五十万という数は、ただの数字ではない。国家の基盤となる労働力であり、富を生み出す生産力であり、将来の徴税対象である。それを、自国の将が何の生産性もない灰に変えたのだ。
(何を考えているのか……)
ミレーヌは微かに眉間を寄せ、小さく息を吐き出した。怒りよりも先に、為政者としての冷徹な自己批判が脳内を駆け巡る。
(いや、あの男を重用し、一軍の将に任命したのは他でもない私だ。細かい指示を出すことはアルノーが萎縮し逆効果になると思ったが、完全に私の判断ミスだ。よって、今回の失敗は、すべて私の責任に帰結する)
起こってしまったことは後戻りできない。同じ過ちを繰り返さないためにも、なぜこのような判断をしたのかを確認する必要がある。
(そもそも、アルノーがなぜこのような致命的な失敗をしたのか。再発防止の観点から、直接本人から話を聞かないと)
ミレーヌは、感情を排した平坦な声で、室内に控えていたレベッカへと指示を飛ばした。
「ジャックを呼びなさい」
ほどなくして、軍の総司令官であるジャック・レルネ大将が重厚な扉を開けて姿を現した。
「お呼びでしょうか、陛下」
「ええ。軍の総司令官である貴方の名で、直ちにアルノーを召還しなさい」
ミレーヌの言葉は短く、有無を言わせぬ響きを持っていた。ジャックは深く首を垂れる。
「はっ。至急、手配いたします」
◆◇◆◇
数日後。すべてが灰と化し、黒い煤の不快な臭いが立ち込めるイの国の中枢跡地。
アルノーは設営された本陣の天幕で、汚れなき純白の手袋をはめ直し、不快な煤の臭いに微かに顔を顰めていた。
「閣下。本国のジャック大将より、至急の命令書が届いております」
副官のエディ少佐が、緊張した面持ちで筒を差し出す。アルノーは涼しい顔でそれを受け取り、文面に目を通した。次の瞬間、彼の端正な顔に、三日月のような歪な笑みが張り付いた。
「……なるほど。王都へ帰還せよ、ですか」
「ジャック大将からの、直接の召還命令ですね」
「ええ。あの亀のように守るしか能のないジャックめ。私がこれ以上、華々しい戦功を立てるのがひどく妬ましいらしい。自分の地位が脅かされると焦っているのでしょう」
アルノーは、鼻で笑いながら羊皮紙を無造作に机へ放り投げた。
(狂信者を効率的に処理した芸術的な手腕は、前時代的なジャックには理解できまい。その恐れが今回の妨害か……)
「何とお返事いたしますか?」
「適当な理由をつけて断りなさい。『現在、残党狩りの対応で忙しく、陣を離れるわけにはいかない』とでも」
「……しかし、総司令官からの直接の命令を拒否するのは」
「かまいません。私の主君はミレーヌ陛下ただ一人。嫉妬に狂った上官の命令など、聞く耳を持つ必要はありませんよ」
アルノーは、自らの正当性を微塵も疑うことなく、暗い野心を孕んだ瞳で外の焦土を見つめていた。
◆◇◆◇
「……アルノーが、召還を拒否いたしました」
再び王宮の執務室。ジャックの苦渋に満ちた報告が、重苦しい沈黙の中に響き渡った。 ミレーヌは、書類へ向けていた視線をゆっくりと上げた。
「なぜ?」
「はっ。『現在、残党狩りの対応で忙しく、陣を離れるわけにはいかない』とのことで……」
バァン!!
突如、ミレーヌが黒檀の机を拳で激しく叩いた。
その巨大な音に、常に冷静沈着なジャックの肩がビクッと跳ねる。
「残党狩りだと……っ!」
普段は氷のように冷徹な女王の顔が、この時ばかりは怒りで歪んでいた。その場にいた全員が、呼吸すら忘れるほどの圧倒的な感情の爆発だった。
「非武装国家の国民を根絶やしにしておいて、一体どんな反抗手段を持った『残党』がいるというの!」
ミレーヌの張り上げた声が、壁に反射して鋭く木霊する。
あまりの剣幕に、ジャックは深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
数秒の重い沈黙。ミレーヌは深く息を吸い込み、強制的に自らの激情を冷却した。
「……いや、ジャックが謝る必要はないわ」
平坦な声色を取り戻したミレーヌに、傍らに控えていたレベッカが一歩前へ進み出た。
「陛下。この件に関連して、気になる投書が届きました」
「投書?」
「はい。匿名ではありますが、『アルノー中将に明らかな叛意あり』との告発文です」
レベッカの言葉に、ミレーヌはスッと目を細めた。軍を持たない国を灰燼に帰し、総司令官の召還命令を虚偽の理由で拒否。さらに、匿名からの謀反の告発。
(……増長した駒。私が見誤ったのか……)
ミレーヌの脳内で、あらゆる可能性が交錯する。あの男の精神構造が、私の計算式を完全に逸脱したとでもいうのか。
(いや、憶測だけで駒を捨てるのは早計よ。本人の弁を直接聞かないことには、正確に判断はできないわ)
ミレーヌは、盤上の不規則な動きを見せる駒の真意を確かめるために、決断を下した。
「レベッカ」
「はっ」
「私の名前で、アルノーの召還状を作成して送付して。あわせて、軍の指揮権は直ちに次席に委譲するようにと記すのよ」
ミレーヌの底冷えのする蒼い瞳が、鋭く光を放つ。
「承知しました」
レベッカが淀みなく応じ、手配のために踵を返して退室しようとした。その背中に向けて、ミレーヌが声をかける。
「使者は派遣せず、今回は伝書鳩と早馬で届けなさい。時間が勿体ないわ」
「御意に」
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