第200話 詠唱する民
七月の強烈な日差しが、乾いた大地を白く焼き焦がしている。吹き抜ける熱風が巻き上げる土埃を、アルノー中将は神経質に手で払った。彼が率いる四万のクライナイン王国軍が、西の国境を越え、イの国の領土へと足を踏み入れてから、すでに二ヶ月半の歳月が経過していた。
軍隊を一切持たないという前情報は真実であった。国境を守る警備隊の姿すらなく、進軍を阻む物理的な障害は皆無。拍子抜けするほどの平穏な行軍が続いている。アルノーは馬上から、果てしなく続く荒野を見渡し、美しいハニーブロンドの髪を整えた。
(軍事の常識論から言えば、まずは本国と敵国中枢を結ぶ動線上の拠点を確実に制圧し、補給線を確保した後に中枢を叩くのが最も手堅い手法です。あるいは、隣接する地域を面として徐々に塗りつぶしていく戦略もありますね)
だが、アルノーの端正な顔立ちに浮かんだのは、冷笑だった。そのような堅実なやり方は、酷く時間がかかる。時間を浪費すれば、他方面で動いているゲオルクに武功で遅れを取ることになる。彼が求めているのは、圧倒的かつ最短の蹂躙による「実績」であった。
「手始めに、前方の村を制圧します」
アルノーの涼しげな命令により、部隊は街道沿いの小規模な村を包囲した。だが、そこから上がってきた報告は、アルノーの理解をわずかに超えるものだった。副官のエディ・ベケ少佐が、馬を寄せて怪訝な顔で口を開く。
「閣下。村の住民たちですが、逃げ隠れする様子が全くありません。それどころか、武器も持たずに我が兵士たちの前に立ち塞がっております」
「立ち塞がる? 命乞いでもしているのですか?」
「いえ……彼らは一様に無表情で、我々には理解できない異国の言葉を、ただひたすらに繰り返すばかりなのです。苛立った兵士が銃床で殴り倒しても、彼らは血を流しながら立ち上がり、再び無感情な声でその不気味な詠唱を……。狂気としか思えません」
エディの報告を聞き、アルノーは微かに目を細めた。これが狂信者の群れというものか。交渉や威嚇という人間らしい駆け引きが全く通用しない生き物。
「よろしい。すべての住民を殺しなさい」
アルノーは、まるで落ち葉を掃くように淡々と命じた。
「閣下、相手は武器すら持たぬ非戦闘員ですが、よろしいのでしょうか?」
エディが思わず聞き返すのも無理はない。軍隊同士の戦いならいざ知らず、無抵抗の平民を皆殺しにするのは軍紀にも反しかねない。しかし、アルノーは慇懃無礼な笑みを浮かべた。
「かまいません。彼らを恐怖という名の見せしめとして処理すれば、あの狂信的な女王とやらも震撼し、我先に降伏の使者を送ってくるでしょう。最も効率的な手段ですよ」
指揮官の絶対的な命令により、村に銃声が響き渡った。硝煙の不快な匂いが立ち込める中、奇妙なことに悲鳴や命乞いの声は一切上がらなかった。耳に届くのは、乾いた銃声と、銃弾に肉を貫かれながらも、意味の分からない言葉を呟き続ける呪詛のような声だけだ。数刻の後、子供や老人を含む五百八十九人の村民は、一人残らず物言わぬ屍と化した。
「制圧、完了いたしました……」
青ざめた顔で報告するエディに対し、アルノーは満足げな笑みを浮かべた。
「素晴らしい。この惨憺たる有様を、サキャル女王とやらに伝えなければなりませんね」
「では、ミレーヌ陛下にもご報告いたしますか?」
「不要です。このような些事を、いちいち本国に報告する必要はありません」
アルノーは血溜まりを一瞥することもなく、村に陣を敷くよう命じた。
◆◇◆◇
だが、異変はわずか二日後に訪れた。皆殺しにしたはずの村の周囲に、どこからともなく人々が集まり始めたのだ。
初日は数百人程度であった。彼らは武装することもなく、ただ無表情のままアルノー軍の駐屯地を取り囲み、軍に向けて奇妙な言葉を呟き続けていた。二日目にはその数が千人を超え、三日目には数千という群衆へと膨れ上がった。昼夜を問わず、意味不明で単調な合唱が陣営の周りで響き続ける。
「閣下、兵士たちがひどく薄気味悪がっております。夜も眠れず、このままでは部隊の士気が著しく下がります」
エディが目の下に濃い隈を作って報告に現れた。アルノーは苛立ちを隠すように、冷たい声で指示を出す。
「愚かな。たかが非武装の平民に怯えるなど。……銃で撃って追い払いなさい。数百も肉塊に変えれば、恐怖に駆られて逃げ散るでしょう」
命令に従い、威嚇ではなく実弾による射撃が行われた。空気を切り裂く銃声と共に、最前列にいた数百人が血飛沫を上げて倒れ伏す。生臭い血の匂いが夏の熱気に乗って漂った。
だが、群衆は一歩も引かなかった。それどころか、倒れて絶命した家族や隣人を介抱することすらなく、その死体を平然と踏み越えて前進し、無感情な瞳で、あの呪文のような詠唱を続ける。
「ひぃっ……! な、なんだこいつら!」
その狂気的な光景に、銃の引き金を引いた兵士たちの方が恐怖で震え上がり、後ずさりした。死を恐れない者に対して、暴力は抑止力として機能しないのだ。
翌朝、事態はさらに最悪の形へ更新されていた。近隣の町や村から絶え間なく集結した群衆は、ついに一万近くにまで膨れ上がっていたのだ。軍勢の前に立ち塞がる、一万の無抵抗な肉の壁。
報告を聞いたアルノーは、端正な顔をわずかに歪め、舌打ちをした。計算外の非効率な事態に、彼の潔癖な神経が苛立ちを募らせる。
「全軍に命じます。目の前の群衆を、一人残らず殺しなさい」
アルノーの冷酷な言葉に、エディは絶句した。
「さ、さすがに一万近くの住民を殺すのは、まずいのではないでしょうか!? 弾薬の消耗も激しくなりますし、何より兵士たちの精神が持ちません!」
「行軍の邪魔となります。殺しなさい。これは命令ですよ」
アルノーの底冷えのする視線に射抜かれ、エディは言葉を飲み込むしかなかった。
かくして、一万の人々に対する凄惨な虐殺が開始された。銃弾が尽きれば銃剣で突き、血の海と化した大地を文字通り踏み固めて、アルノー軍は軍を進めた。
だが、それは地獄の始まりに過ぎなかった。行く先々の街道で、町で、同じ光景が繰り返されたのだ。軍事的な抵抗は一切ない。その代わり、イの国の住民全体が、まるで一つの巨大な意志を持った生き物のように、自発的にアルノー軍の障壁となって自らの命を投げ出し続ける。
ただひたすらに弾薬を消費し、無抵抗の人間を殺し続けるという非日常的な「作業」。血と臓物と、呪詛のような声に塗れた、終わりの見えない狂気の行軍。その異様な光景は、アルノー軍の兵士たちの精神を、徐々に、しかし確実に疲弊させ、内側から狂わせていくのであった。
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