第197話 志願
柔らかな春の陽光が磨き上げられた王宮の会議室の床を照らす中、室内には重苦しい沈黙が漂っていた。アルノー・ルベ中将の鼻腔を、隣に座る商業庁長官ラウールから漂う、焦燥の汗と不快な香水が入り混じった脂ぎった匂いが刺激する。アルノーは内心でひどく顔を顰めながらも、表面上は完璧に整った涼しい顔を崩さなかった。
「――以上が、イの国における交渉の顛末でございます」
ラウールが、額に滲んだ脂汗を絹のハンカチで拭いながら報告を締めくくった。彼の声には、任務を失敗したことへの弁解が色濃く滲んでいる。平和主義を掲げ、軍隊すら持たないイの国の女王サキャル。彼女は、クライナイン王国からの寛大な降伏勧告を、「天の意向」という理解不能の理由により、跳ね除けたという。報告を聞き終えたアルノーは、即座に状況を計算し始める。
(交渉はやはり決裂しましたか。あの商人では無理、いや誰が言っても無理でしょう。重要なのは、交渉が決裂し、武力による制圧が決定づけられたという事実のみですよ)
上座に目を向けると、プラチナブロンドの髪を美しく結い上げた女王ミレーヌ・グラッセが、凍てつくような蒼い瞳で長机を見渡していた。
「イの国を攻略するわ」
ミレーヌの平坦な声が、会議室の空気をピンと張り詰めさせた。
「あの土地は大陸の中央に位置し、東西を結ぶ交通の要所よ。我が国が完全に掌握しなければ、大陸制覇は望めない」
(全くもってその通りです。あのような非効率的な者どもの集まりが、重要な土地を占拠していること自体が、世界の誤りと言えますから)
アルノーは、大局を俯瞰するような眼差しで語る主君の言葉に、内心で深く同意した。しかし、続くミレーヌの一言が、彼の冷徹な計算式を微かに狂わせる。
「ただし、相手には軍隊が存在しない。あの狭い土地に大軍を派遣して、兵站を無駄に浪費する必要はないわ。一軍の九万ではなく、半軍である四万程度を向かわせる」
その言葉を聞いた瞬間、アルノーの涼しい瞳の奥に、僅かな焦燥が走った。現在、クライナイン王国の軍は大きく四つに再編されており、ミレーヌ直轄軍のほか、ジャック、ゲオルク、そしてアルノーの三人がそれぞれ九万の軍団を預かっている。もしミレーヌの言う通り半軍の四万が派遣されるとなれば、指揮権は軍団長クラスではなく、クロヴィスやルカといった少将クラスの凡庸な輩に委ねられる可能性が極めて高い。
(それでは困ります。私が大将への昇進を決定づけるための、絶好の大功を上げる機会が失われてしまうではないですか)
出世への野心と、己の完璧な軍略を誇示したいという渇望が、アルノーの胸の内で静かな熱を帯びて渦巻いた。他者の血と命を踏み台にしてでも、自分はさらに上へと登り詰めなければならない。アルノーは、一糸の乱れもない動作で静かに右手を挙げた。
「よろしいでしょうか、陛下」
アルノーが立ち上がると、ミレーヌの底知れぬ深淵のような視線が彼へと向けられた。
「相手は軍を持っていないとはいえ、得体の知れない狂信者の集団です。彼らが狂気に任せてどのような予測不可能な抵抗を見せるか、全くわかりません。ここは、出し惜しみをせず半軍ではなく一軍を派遣すべきであると愚考いたします」
「理由は?」
ミレーヌが短く問う。アルノーは、誰の耳にも理路整然と響くような、慇懃無礼なまでの滑らかな口調で自らのロジックを展開した。
「ここは一軍九万という圧倒的な威容をもって、相手に無抵抗のまま一息に制圧される現実を突きつけるべきです。わずかな反逆の意志すら抱かせず、絶望という名の平和を与える。それこそが、最も無駄な血と時間を浪費しない、完璧な平定を目指す唯一の道かと存じます」
暴力の総量を最大化することで、結果的に被害を最小に抑え込む。この冷徹な合理性こそが、他でもない我が主君の最も好む理屈のはずだ、とアルノーは自負していた。
「……それで?」
その促すような言葉に、アルノーは勝利を確信した。
「できますれば、私がイの国を攻略いたしたく存じます。我が九万の軍勢をもって、あの『呪われた土地』を我が国の支配下にしてみせましょう。どうか、ご許可いただきたくお願い申し上げます」
アルノーの申し出に、ミレーヌは静かに目を閉じ、沈黙した。主君が脳内でいかなる損得の天秤を揺らしているのか、アルノーは己の勝利を確信しながらその答えを待った。
やがて、ミレーヌがゆっくりと目を開く。
「いいわ。許可する。ただし、遠征中は必ず定期的に連絡するように」
「もちろんでございます」
アルノーは恭しく、完璧な角度で頭を下げた。
椅子へと静かに腰を下ろしながら、アルノーの口角がほんの僅かに、誰にも気づかれないほど微かに吊り上がる。胸の奥底で渦巻く野望が、確かな手応えとなって彼を満たしていた。
(これで、大将への道筋は確実につきました。あとは、あの汗臭いジャックや、野蛮なゲオルクと同格になってからが本当の勝負です。一年……いえ、半年以内に、彼らを蹴落とし、このクライナイン王国の軍権を完全に私の手中に収めてみせましょう)
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