第196話 外交交渉
二月末。冬の終わりを告げる乾いた風が吹き抜ける中、一台の豪奢な馬車がイの国の中心部へと入っていった。
車窓から外を眺めていたジーモは、その奇妙な街並みに目を細めた。そこにはクライナイン王国の王都のような、急ピッチで進む都市開発の喧騒も、労働者の活気もない。低層の木造建物が整然と並び、舗装されていない道路はチリ一つなく掃き清められている。
行き交う人々の服装は質素で、色使いも地味だ。しかし、その足取りは穏やかで、隣国を飲み込み肥大化を続けるクライナイン王国の民が抱くような『明日は今日より豊かになる』という貪欲な上昇志向は、ここには微塵も感じられなかった。
漂ってくるのは、焦げた薪の匂いと、春を待つ土の香りだけ。あまりに静かすぎて、耳の奥が痛くなるような錯覚すら覚える。
「……まるで、時が止まっているような場所ですな」
向かいの席で商業庁長官ラウールが、退屈そうに鼻を鳴らした。
「商売も盛んではない退屈な国だ。軍隊も持たず、一体どうやってこの静寂を維持しているのやら。我がクライナイン王国の威光を見せつければ、すぐにでもひれ伏すでしょうな」
ジーモは答えなかった。彼が感じていたのは、静寂というよりは「停滞」に近い違和感だ。この国には、他国が当然のように持っている『欲望』という名のエネルギーが根本から欠落しているように見えた。
◆◇◆◇
王宮と呼ばれる建物もまた、驚くほど簡素な造りだった。豪華な彫刻や金箔の装飾はなく、磨き上げられた木の床と白い壁があるだけだ。
その奥の間で、二人は随行の通訳を介し、イの国の元首、サキャル女王と対面した。
華美な装飾を一切排した純白のドレスを纏うサキャルは、穏やかな微笑みを湛えていた。その佇まいは、一国の王というよりは、俗世から切り離された隠遁者のように見えた。
「サキャル女王陛下。本日はご面会の機会をいただき、誠にありがとうございます」
ラウールが商人の愛想笑いを浮かべ、慇懃に口を開いた。通訳がワンテンポ遅れて、独特の抑揚を持つイの国の言葉で女王へ伝える。サキャルが短く返すと、再び通訳が無機質な声で告げた。
「……それで、本日はどのようなご用件で?」
ラウールは背筋を伸ばし、自信に満ちた口調で本題を切り出した。
「単刀直入に申し上げましょう。我がクライナイン王国の傘下へ入られるよう、ご提案しに参った次第です」
通訳の言葉が女王に届く。サキャルは表情を全く変えず、まるで天気を語るかのように即答した。
「それはそれは、ご遠方よりご苦労様です。ですが、お断りいたしますので、どうぞお引き取りください」
「……断る、ですと!?」
予想外の即答に、ラウールは目を剥いた。
「我がクライナイン王国が、近隣の国々を次々と併合し、今や大陸随一の強大な国家であることをご存知ないのですか! 数多の軍勢と、他国を凌駕する最新の兵器を数多く擁する我が国が、無駄な血を流させぬよう、こうしてわざわざ使者を……」
「ラウール様、ご冷静に」
熱くなるラウールを、ジーモが静かな声で制した。
ラウールの激情は、通訳の平坦な言葉に変換された瞬間に、毒気を抜かれたように女王の前で霧散していく。女王の微笑みは、最初から最後まで微塵も崩れなかった。
「すべて承知しております。そして、貴方のご提案は、お断りいたします」
「断れば、何の罪もない民が苦しみますぞ!」
ラウールが声を荒らげる。だが、女王サキャルは慈しむような眼差しで首を振った。
「我が国民は、天の意向により生きることを許されています。死ぬということは、天が不要と判断したということ。すべては、天の導きによるものです」
(……なんだ、この理屈は)
ジーモは内心で戦慄した。自国の民の死を、悲劇ではなく「天の判断」として全肯定しているのだ。論理が根本から破綻している。ラウールもまた、相手の狂気に直面し、焦りを隠せなくなっていた。
「お待ちください! 我が主、ミレーヌ陛下は寛大なお方です。傘下に下れば、一定の自治権は完全に保証しますし、貴女の女王としての地位もそのまま残ります。ただ『従う』と言うだけでいいのです! これほど恵まれた条件はありませんぞ!」
「私が従うのは、天の意向のみです。天は、クライナイン王国へ従えとはおっしゃっていません。ですから、お断りいたします」
サキャルの瞳には、純粋に天を敬う気持ちしか宿っていない。物欲も権力欲も、生存欲求すら存在しない。
「……私がこのまま帰れば、すぐに圧倒的な軍がこの地に派遣されますぞ。国が滅びてもよいと?」
ラウールが最後の一線を越えた。だが女王は、窓の外の青空を見上げ、涼やかに笑った。
「我が国は、過去にも何度も他国の侵攻を受けております。それでも、天の意向により再び興ることができました。滅ぶのも天の意向であり、再興するのも天のご意向。私たちに何の恐れがありましょうか」
静かな、だが絶対的な絶望がジーモの背筋を伝った。これ以上の交渉は、石壁に話しかけるよりも無意味だ。
◆◇◆◇
四月の下旬。王都クーロンヌ・ダルジャンへ帰還した二人は、女王の執務室でミレーヌ・グラッセと対面していた。室内には、いつものように清廉なユリのポプリの香りが漂っている。
黒檀の机の向こうに座るミレーヌは、一切の感情を排したガラス玉のような瞳で二人を見据えていた。
「……というわけでして、あの狂信的な女王は、我が国の寛大な条件を理解しようともせず、拒絶いたしました。あれはまともな交渉ができる相手ではありません。直ちに軍を派遣し、物理的に制圧すべきかと……」
ラウールが脂汗を浮かべながら必死に弁明する。任務の失敗が、己の立場をさらに危うくするという焦りが見え透いていた。しかし、ミレーヌは退屈そうに言い放った。
「わかったわ」
その一言に、ラウールは口を噤む。ミレーヌはラウールの弁明など最初から興味がないようだった。彼女の鋭い視線が、静かに控えるジーモへと向けられた。
「ジーモ。一言一句正確に、何が語られたのか報告しなさい。相手の反応も含めてね」
「はっ」
ジーモは居住まいを正し、イの国での光景、そしてサキャルとラウールの会話の内容を、記憶の限り一言一句違わず報告した。一切の主観を交えず、淡々と事実のみを述べる。すべての会話を再現し終えた後、ジーモは短く己の私見を付け加えた。
「……以上でございます。正直に申し上げまして、理屈や損得勘定が通用する相手ではございません。彼らは我々と同様に言葉は使いますが、『理』が異なります」
「天の意向か……」
ミレーヌの口から、微かな呟きが漏れた。
彼女は静かに目を閉じ、右手の人差し指で机をトン、トンと数回叩く。静寂の中、乾いた音が等間隔で響く。それは彼女の思考が、深淵へと潜っていく合図だった。
数秒の後、音が止み、ミレーヌはゆっくりと目を開けた。彼女は何も語らず、ただ無言で軽く手を払い、二人へ下がるよう合図を送った。
「失礼いたします」
ジーモは深く一礼し、肩を落とすラウールと共に執務室を去った。
扉を閉める直前、ジーモはふと見上げた。
女王は、机の書類にも、彼らにも視線を向けていなかった。彼女は立ち上がり、ただ一人、静かに窓の外を見つめていた。
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