第192話 ズタリア王朝からの使者
オセロ型通信の実験から四日後の午後。王都クーロンヌ・ダルジャンの王宮の謁見の間には、ピンと張り詰めた空気が満ちていた。窓ガラスを微かに揺らす冬の終わりの風音が響く中、ミレーヌは眼前に跪く男を静かに見下ろしている。傍らには、宰相であるレベッカが、感情を排した無機質な表情で控えていた。
「面を上げなさい」
ミレーヌの短く冷ややかな声に、男はゆっくりと顔を上げる。ズタリア王朝の使者として遣わされた、ジーモ伯爵。年齢は二十代後半といったところか。その目には、大国の主に対する畏れと、祖国の命運を背負う者特有の強い意志が入り混じっていた。
「わがズタリア王朝は、クライナイン王国に隷属いたしたく、お願いに上がった次第です」
ジーモは、淀みない口調でそう切り出した。
「なぜ?」
ミレーヌは、体温を感じさせない視線を彼へ向ける。
「クライナイン王国には、到底敵いません。侵攻される前に、強者に従うのが小国の生き方でございます」
「本心かしら?」
ミレーヌの問いに、ジーモは微かに目を伏せ、慎重に言葉を選ぶ。
「……西側諸国は、長らく絶妙なバランスを保ち合ってきました。しかし、それが崩れた現状、一国の矜持など何の役にも立ちません。我が国は東のルメイバ部族連合の侵攻にも度々悩まされております。誇りを抱いて滅びるより、主権を捨ててでも民の命を長らえさせるのが、最善の道かと」
「ふーん」
ミレーヌは、無表情のまま短く相槌を打つ。
「それは、王の考え? それとも貴方の考えかしら?」
ミレーヌが刃のように研ぎ澄まされた視線で射抜くと、ジーモは一瞬だけ口ごもったが、すぐに背筋を伸ばして答えた。
「王は、常々『民を守りたい』とおっしゃっております。臣として、主君のその尊い意向を叶えるための最善の策を講じるのは、当然の務めにございます」
「臣ね……。隷属して、何を私にしてくれるの?」
(私がどういう人間か、よく研究している。無駄なプライドもなく、理路整然と事実だけを述べる。……小国の使い走りにしておくには惜しい、極めて優秀な『実務家』ね)
ミレーヌは盤上の駒を見下ろすように、静かに笑みを浮かべた。
「我が国は、ミレーヌ女王陛下のいかなる命令にも従います」
「いかなる命令にも? 仮に、私が『王に死ね』と言っても従うのかしら?」
ミレーヌの極端な問いに、ジーモは内心の動揺を隠すように言葉を紡いだ。
「陛下は、何の理由もなく、そのような無益な命令を下されるお方とは思えませんが……」
(ふふ、随分と私のことを研究しているようね)
「他には?」
「人質として、我が国の皇太子を差し出します。それと、国家収入の二割を、毎年の上納金として献上いたします」
「至れり尽くせりじゃない」
「ミレーヌ陛下に納得していただけなければ、我が国は確実に滅亡しますので。差し出せるものは、全て差し出す覚悟でございます」
ミレーヌは、目の前の使者の手腕を内心で高く評価した。ただ怯えて命乞いをするだけの凡庸な使者ではない。絶望的な力関係の中で、主君の願いである民の命を長らえさせるため、感情や矜持に流されず、極めて的確でタフな交渉をやってのけたのだ。
(これほどの胆力と交渉術を持った外交官……小国の使者で終わらせるには惜しいわね)
「こちらからも一つ条件を出すわ」
「……何でございましょうか?」
「貴方が私の配下になること。これが絶対条件よ」
その瞬間、ジーモの目が大きく見開かれた。さすがの彼も、自国の命運を決める交渉の場で、自身が引き抜きの条件にされるとは予測していなかったのだろう。
だが、彼に断る選択肢はない。ここで首を横に振れば、ズタリア王朝の命運は尽きる。謁見の間が重い静寂に包まれる中、やがてジーモは顔を上げ、ミレーヌに懇願するような、しかし確固たる視線を向けた。
「では、代わりにお願いがございます」
「お願い?」
「我が国に、クライナイン王国の軍を駐留していただきたく存じます」
ミレーヌは静かに目を閉じ、右手の人差し指で玉座の肘掛けを数回、コツ、コツと叩いた。静かな音が響き、止まる。彼女の脳内で、瞬時に計算が行われた。
(隷属を受け入れたのに、わざわざ軍隊を要求する? ……ああ、なるほど。貢物を吸い上げられるだけ吸い上げられて見捨てられないように、『確実な安全保障の担保』として軍の駐留を欲しているのね。自分の身柄を売り渡す代わりに、自国をルメイバ部族連合から守る物理的な盾を引き出したというわけか)
ミレーヌはゆっくりと目を開けた。
(思っていた以上に、したたかな男。軍を駐留させるコストは安くないけれど、この男の頭脳を私の直属にできるなら、むしろ安い買い物だわ)
「いいわ。許可する。レベッカ、この者を貴女に預けるわ」
「承知しました」
レベッカが感情を排した声で即答する。ミレーヌの決断に、ジーモは安堵したように微かに息を吐き、再び深く一礼した。
◆◇◆◇
翌月、約束通りズタリア王朝から人質として弱冠十歳の皇太子イレネオが王都へ送られてきた。同時に、ミレーヌは防衛と監視を兼ねて、一万の軍をズタリア領内へと派遣した。
ジーモ伯爵は自国を離れ、ミレーヌの命令通りレベッカの直属として、クライナイン王国の宰相府で書記官として働くこととなった。一方、人質として送られてきたイレネオには王宮の豪奢な一室が与えられた。当然、監視のための警護はつくものの、行動の自由は制限されず、手厚く保護されることとなったのである。
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