第191話 オセロ
ゲオルクとアルノーが初対面してから一週間後。まだ冬の冷たい風が肌を刺す中、王都クーロンヌ・ダルジャンの城壁には、異様な巨大建築物がそびえ立っていた。高さは七メートルを優に超え、頑強な木材で組まれた格子状の枠組みが、鈍色の空に向かって突き出している。
ミレーヌ・グラッセは、寒風にプラチナブロンドの髪を揺らしながら、その巨大な構造物を静かに見上げていた。彼女の背後には、宰相のレベッカ、大将のジャック、工務庁長官のサミール、技術開発庁長官のレーモン、そして財務庁長官のカインが控えている。王国の中枢を担う幹部たちが一堂に会しているのは、これから行われる未知の実験を見届けるためだった。
(ようやく、ここまで形になったわね)
毛皮の外套を羽織ったミレーヌは静かに腕を組み、薄氷を思わせる瞳を細めた。
この巨大な装置を発案したのは、昨年の十月。大同盟を打ち破り、カッツー王国を滅ぼして広大な領土を手に入れたミレーヌにとって、最大の懸念は「情報の伝達速度」だった。前世のような電気も、インターネットも存在しないこの異世界において、辺境で起きた反乱や敵の侵攻を王都が把握するには、早馬や伝書鳩に頼るしかない。だが、それらは天候に左右され、何より遅すぎた。
どうすれば瞬時に情報を伝達できるか。思考を巡らせた末に彼女が思いついたのは、視覚的なリレー通信だった。十キロメートル程度の間隔で高い塔を建て、旗の色や位置を望遠鏡で確認して次々と伝達していけば、馬よりも遥かに速く情報が届くはずだ。
その漠然としたアイデアを技術開発庁のレーモンに投げたところ、彼はわずか三週間で、ミレーヌの想像を上回る精巧な模型を完成させてきたのだ。
それが、目の前にある「オセロ型通信」とミレーヌが名付けた装置である。格子状に組まれた木枠の中には、一辺一・五メートルもある正方形の木の板が、縦三列、横三列の計九枚組み込まれている。それぞれの板は中心を軸にして回転する仕組みになっており、全て黒色に塗りつぶされていた。
普段、板は水平に保たれており、遠くからは枠組みしか見えない。しかし、下部にあるレバーを操作すると板が九十度回転し、巨大な黒い面が正面を向くのだ。
九枚の板のうち、どれを黒く見せ、どれを見せないか。その組み合わせは、二の九乗、すなわち五百十二通りにも及んだ。
ミレーヌは即座にこの装置の実用性を確信した。各通信施設に観測手と操作手を配置し、望遠鏡で前の塔の形を確認して同じ形を作っていけば、バケツリレー方式でどこまでも情報を伝達できる。
彼女はすぐさま、レベッカとカインに五百通り以上の組み合わせに対応する暗号表の作成を命じた。一文字の伝達はもちろん、「敵襲」「内乱発生」「飢饉」といった緊急事態を示す特定の配列も決めるよう指示した。
そしてサミールには、旧貴族たちが街道沿いに設置していた関所や砦の跡地を活用し、王都から百キロメートル離れた都市まで、この通信施設を等間隔で建設するよう厳命したのである。
「さて、理論通りに動くかどうか。見せてもらうわよ」
ミレーヌが自信に満ちた声で告げる傍らで、ジャックが顎鬚を撫でながら訝しげな視線を巨大な木枠に向けていた。
「ミレーヌ様。確かに理屈はわかりますが、本当にこんな木の板で、百キロも先の街に情報が伝わるのでしょうか?」
「ジャック、その疑問の答えはすぐわかるから楽しみにしていなさい」
ミレーヌは、半信半疑の顔を隠そうともしない武人に、余裕の笑みを向ける。その絶対的な自信を見て、ジャックは小さく息を吐き、それ以上の反論を飲み込んだ。
「では、サミール。始めてちょうだい」
「は! それで、何を送りますか?」
「そうね……市松模様でいいわ」
「承知しました! 通信実験を開始する!」
サミールの野太い号令が飛ぶと、塔の下で待機していた部下たちが、複雑に連なる複数のレバーを力強く引き下ろした。ガシャン、ガシャンという重厚な木と鉄の軋む音が、冬の王都の空に響き渡る
見上げれば、巨大な九枚の板のうちの数枚が九十度回転し、空を背景にして、まるで黒い市松模様のような幾何学的な図形を形作った。
「よし、固定完了!」
「観測手、次の塔の動きを注視しろ!」
サミールが指示を飛ばす。塔の上部に設けられた見張り台で、高性能な望遠鏡を覗き込んでいた観測手が、張り詰めた声で叫んだ。
「十キロ先、第一中継塔、応答を確認! ……本塔と全く同じ配列を展開しました!」
その報告を聞き、ミレーヌの口角が微かに吊り上がる。
王都の丘から放たれた黒い図形が、十キロ先へと届き、そこで再び再構築され、さらに次の十キロ先へと伝播していく。ミレーヌの放った情報が、国家の新たな神経を通り、広大な領土を駆け巡り始めていた。
◆◇◆◇
その後、ミレーヌは王宮の執務室へと戻った。
静謐な空間には、いつものようにユリのポプリの香りが満ちている。彼女は黒檀の机につき、アールグレイを嗜みながら、ジャック、レベッカ、カインと今後の軍備や財政についての打ち合わせを淡々と進めていた。
そこへ、興奮冷めやらぬ様子のサミールとレーモンが、慌ただしい足音とともに執務室へ入ってきた。
「失礼いたします、陛下! たった今、終点都市から伝書鳩が到着いたしました!」
サミールの手には、小さく丸められた紙片が握られていた。カインがそれを受け取り、緊張した面持ちで紙片を広げ、書かれた内容を読み上げる。
「……終点都市からの返信です。受領した配列図は……こちらが発信した市松模様と完全に一致しております!」
その報告に、室内の空気が一瞬で熱を帯びた。
伝書鳩の飛行速度は、おおよそ時速六十キロメートルである。百キロ離れた都市から鳩が飛んでくるのに、二時間弱かかるのは物理的に当然の時間だ。実験開始からちょうど二時間後に鳩が到着したという事実は、ミレーヌたちが放った情報が、百キロ先の施設へ「ほぼ瞬時」に伝達され、向こうの担当者がすぐに確認の鳩を放ったという揺るぎない証拠であった。
「馬鹿な……。早馬を乗り継いでも丸一日はかかる距離だぞ」
ジャックが、信じられないものを見るような目で、カインの手にある紙片を見つめた。
ミレーヌは、ティーカップを静かに置き、感情の抜け落ちた蒼い瞳で一同を見渡した。
「いけるわね」
その短い一言に、絶対的な確信が込められていた。
情報の伝達速度において、クライナイン王国は他国を完全に置き去りにしたのだ。敵の侵攻を誰よりも早く察知し、軍を動かす。このアドバンテージは、十万の兵にも勝る強大な武器となる。
「サミール」
「はっ!」
「このオセロ型通信網を、ただちに全土の主要都市、および国境の要塞へと拡張しなさい。設置場所については任せるが、既存の建物などをできる限り利用しなさい。あと、予算はカインに手配させるから、最優先で進めること。」
「承知いたしました! すぐに取り掛かります!」
サミールが力強く頭を下げる中、予算と人員の工面を丸投げされたカインは、人知れず胃の辺りを押さえて顔面を蒼白にしていた。
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