第190話 嫌な匂い
一月中旬。窓ガラスを叩く凍てつくような北風の音が、執務室の中にまで容赦なく響いてくる。
王都クーロンヌ・ダルジャンの軍の総司令部の一室。暖炉の火が微かに爆ぜる音と、羽ペンが羊皮紙の上を走る乾いた音だけが、静寂を際立たせていた。
クライナイン王国軍大将、ゲオルク・グラックは、その重厚な執務机に向かってはいない。彼は部屋の隅にある革張りのソファーに長い脚を投げ出し、腕を組んで堂々と昼寝を決め込んでいた。本来、彼が処理すべき膨大な軍務の書類は、向かいの机で黙々とペンを走らせているレジスに丸投げされていた。レジスは少将という高位にありながら、文句一つ言わずに激務をこなしている。
「……ん?」
不意に、控えめなノックの音がゲオルクの耳を打った。彼が片目を開けるよりも早く、重厚な扉がゆっくりと開かれる。
「ゲオルク様ぁ~。温かいお茶をお持ちしましたわよ」
甘ったるく、鼻にかかったような女の声が室内に響いた。入ってきたのは、三十代の女性だ。彼女が身に纏っているのは、クライナイン王国の支給品である機能的な軍服のはずだが、その着こなしはどこかおかしい。豊満な胸元をなんとか生地に押し込めているものの、歩くたびに窮屈そうに揺れ、隠しきれない妖艶さを漂わせている。
元ヴィスタ帝国特務部隊の暗殺者、アダリーであった。
ゲオルクは忌々しげに顔をしかめ、ソファーから身を起こした。
「おい、俺は茶なんか頼んでないぞ!」
「あら、冷えたお体を温めるのも、副官としての重要な務めですわ。遠慮なさらずにどうぞ」
アダリーは全く悪びれる様子もなく、艶やかな笑みを浮かべてティーカップをローテーブルに置く。その甲斐甲斐しい態度は、かつて敵対した暗殺者とは到底思えない。
「だいたい、お前が俺の下について良いとは、俺は一言も言ってないぞ!」
「そんなことおっしゃらないでくださいな。だって、ミレーヌ陛下自ら、ゲオルク様の下で働くようにとありがたいお言葉を頂いたんですよ~?」
「俺には何の相談も無かったぞ!」
吠えるゲオルクに対し、机に向かっていたレジスが手を止めて苦笑交じりに口を挟んだ。
「団長、いい加減あきらめたほうがいいですよ。リナさんが『ゲオルクに預けてみたら面白いかも』と陛下に推挙したのが発端なんですから」
「そうなんです~。リナ様は、アタシの命の恩人。その恩人が、ゲオルク様の副官として陛下に推挙してくださったんですから、アタシ、粉骨砕身お仕えしますわ~」
アダリーは胸の前で両手を組み、うっとりとした表情を作った。
もちろん、今のアダリーには微塵の殺気も感じられない。あの銀髪の女王に歯向かえば命はないうえに、もし妙な真似をすれば、ゲオルクに瞬殺されることは彼女も十分に理解しているはずだ。
だからといって、かつてヴィスタ帝国軍に雇われていた頃からの顔なじみであり、かつては血で血を洗う裏社会を生き抜いた暗殺者が、少佐の階級を与えられ、借りてきた猫のように甲斐甲斐しく自分の下で仕える状況は、どうにも背中がむず痒くて仕方がない。
ゲオルクは先週、この人事をどうにかしてくれとミレーヌに直談判しに行った。しかし、玉座に座る冷徹な女王は、ティーカップを傾けながら平然と言い放ったのだ。
『貴方、レジス少将という高級将官を副官扱いしてるでしょ? それに、私の親友が推挙したのだから、むげには出来ないわ』
その言葉の裏で、すべてを見透かすようなアイスブルーの瞳が、ほんの僅かに面白がって揺らいでいたのを、ゲオルクは見逃さなかった。
(完全にリナの悪ふざけに乗ってやがったな。あの面白がってる目は隠せてなかったぞ……)
「はぁ……」
深々とため息をついたゲオルクは、居心地の悪さに耐えきれず、無精髭を乱暴に掻きながら立ち上がった。
「どちらに?」
レジスが怪訝な顔で問う。
「練兵だ。体が鈍っちまうからな」
「練兵ねぇ~。逃げるわけですか」
レジスの呆れたようなツッコミを無視して歩き出そうとすると、アダリーがパッと顔を輝かせた。
「まあ! でしたら私も、お供いたしますわ!」
「来るな! お前はレジスの書類仕事でも手伝ってろ!」
「あら、副官ですからどこまでもついていきますわよ~!」
逃げるように執務室の扉を開けて冷たい廊下へと躍り出たゲオルクの背中を、アダリーは嬉々とした足取りで追いかけていった。
◆◇◆◇
司令部の重厚な石造りの廊下を大股で歩いていると、前方から一人の軍人が颯爽と近づいてくるのが見えた。
染み一つない真っ白な軍服を着こなし、ハニーブロンドの髪を美しく整えた青年将校だ。その歩みは足音すら立てず、優雅でありながら一糸の乱れもない。
「これは、ゲオルク閣下でございますか。お初にお目にかかります。アルノーと申します」
青年は、ゲオルクの数歩手前で立ち止まり、純白の手袋をはめた手で胸を押さえ、恭しく一礼した。後ろに控える副官と思われる男も同じように一礼する。アルノーの動作は完璧な礼儀作法に則っていたが、どこか相手を底辺の虫けらのように見下しているかのような、慇懃無礼な気配が透けて見える。
「アルノー……ああ。たった五千の兵でクムーラーナ共和国を攻略したっていう少将は、お前さんか」
ゲオルクは、値踏みするように目を細めた。あの広大な都市国家連合を、味方の血をほとんど流さずに滅ぼしたという男の噂は、当然耳に入っている。
「はい、左様でございます。ですが、一つ間違いがございます」
「間違い?」
「先ほど、中将への昇進を賜りました」
アルノーは、涼しい顔のまま、まるで明日の天気を語るかのように平坦な声で告げた。その瞳には、出世の喜びも、上位者に対する畏縮も、人間らしい感情の揺らぎは一切存在しなかった。
「そいつは良かったな。せいぜい励めよ」
「かしこまりました。お言葉、胸に刻んでおきます」
アルノーは再び優雅に一礼すると、冷たい廊下を滑るように歩き去っていった。
ゲオルクは足を止め、遠ざかっていく金髪の青年の背中をじっと見つめた。数々の死線をくぐり抜けてきた傭兵としての直感が、あの男の背中に微かな、しかし確実な違和感を察知した。
あの整いすぎた表情の裏に隠された、底知れぬ冷酷さと狂気。それは、自らの主君であるミレーヌにも似ているが、決定的に何かが違う。
「……なんだか、嫌な匂いがする野郎だな」
ゲオルクは小さく呟き、胡散臭そうな顔で無精髭を撫でた。背後でアダリーが不思議そうに小首を傾げているが、ゲオルクの鋭い視線はいつまでも廊下の奥から外れなかった。
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