第189話 大陸地図
年明け早々。王都クーロンヌ・ダルジャンは、静かな雪化粧に包まれていた。暖炉の火が微かに爆ぜる執務室で、ミレーヌ・グラッセは特注された巨大な大陸地図を見下ろしている。昨年末までに旧大同盟の五ヶ国を併呑し、クライナイン王国の領土は飛躍的に拡大した。だが、彼女の最終目的である「愚かな世界の破壊と再構築」のためにあと五カ国を傘下に収める必要がある。
薄氷を思わせる瞳が、地図の北方を静かになぞる。
「ギルディン都市連邦……」
旧フェラスレツ大公国や旧サデーナ騎士団領、そしてズタリア王朝の北に位置し、東側の砂漠地帯でルメイバ部族連合と国境を接する国だ。百程度の都市国家が連合し、各都市に執行責任者が存在する。最高元首は評議会議長だが、主な政策は各都市の多数決で決まるという、極めて非効率な合議制を敷いている。
国土面積と経済力は、ミレーヌが即位した当初のクライナイン王国の二倍以上を誇る大国。しかし、軍事力はそれに比例しておらず、防衛的側面が強いため他国への侵略的な思想はあまりないという。
視線を下へ移す。旧ヴィスタ帝国の東に位置するズタリア王朝。
国王が統治するこの国は、東のルメイバ部族連合からの侵略に絶えず晒されている。そのため、国境線には長大な防護壁を延々と構築していた。北のギルディン都市連邦とは主要な街道で繋がっており、対騎兵戦の歴史が長いため、弓の技術が独自に発達している厄介な防衛国家だ。
その脅威の元凶たるルメイバ部族連合。
大族長を戴く遊牧民族であり、機動力に優れた強力な騎馬兵を有している。常に周辺国を脅かし、度々侵攻を繰り返す戦闘集団である。
さらに東には、大陸の五分の三を支配する強大な覇権国家、メーラ天帝国。
皇帝を元首とするこの国は、九百年続いた九ヶ国の戦乱を六年前に統一したばかりだ。広大な国境線のうち、西側でイの国と接し、北西でルメイバ部族連合と接している。山脈の間に開いた回廊から押し寄せるルメイバの騎馬兵に対し、堅牢な防壁を設けて迎撃している状態だ。現在は荒廃した国土の立て直しと、中央集権国家としての体制整備に注力しており、外へ向けた動きは鈍い。
ミレーヌの細く白い指先が、大陸の中央、ぽっかりと空いた特異な空白地帯で止まった。
メーラ天帝国の西であり、ズタリア王朝の南。そして、今はクライナインの領土となった旧ラスカ王国の東に位置する国。
「イの国……」
その時、控えめなノックの音が静寂を破った。
「入りなさい」
扉が開き、専属メイドのリサが恭しく一礼する。
「レベッカ様と、ジルド様がお越しになりました」
「通してちょうだい」
執務室に足を踏み入れたのは、金髪をきっちりと結い上げた宰相のレベッカと、人材登用局長に就任した元ラスカ王国宰相のジルド・スピリトだった。ジルドは、血も涙もない圧倒的な手腕で国を塗り替えた新女王に対し、深い畏敬の念を抱いて直立不動の姿勢をとる。
「お呼びでしょうか、陛下」
レベッカが感情を排した平坦な声で問いかける。
「そう。ジルドに聞きたいことがあったの。レベッカも聞いた方がいいと思うから、二人ともそこに座りなさい」
ミレーヌは優雅な所作でソファーを促した。二人が腰を下ろすのを見届け、ミレーヌも対面の席につく。
「イの国のことを聞きたいの。ジルド、あなたは隣国の宰相だったのだから、よく知っているでしょう?」
ジルドは少しだけ表情を引き締め、慎重に言葉を選んだ。常に冷静な彼にしては珍しい反応だった。
「隣国とは申しましても、正直なところ正式な国交はなく、極めて得体の知れない国でございまして……」
「構わないわ。知っていることをすべて話しなさい」
刃のように研ぎ澄まされた視線に貫かれ、ジルドはゆっくりと説明を始めた。
イの国は、平和主義を掲げる女王サキャルを信奉する国民によって形成されている。最大の異常性は、国家として軍隊を一切保有していない点にあった。
「では、なぜ周囲の大国に飲み込まれずに存在し続けているの?」
「過去、他民族の国家が幾度となく武力で征服した事例がありますが、不思議なことに、イの国を征服した国家は、例外なく十年も経たずに内乱などで滅亡しているのです。そのため、周辺諸国からは『呪われた土地』として恐れられております」
「呪われた……土地」
ミレーヌの鼻先で、微かな冷笑が漏れた。極限の合理主義者である彼女にとって、非科学的なオカルトなど取るに足らない戯言にすぎない。呪いであろうと祟りであろうと、自らの覇道を阻む理由にはならなかった。
「イの国は東西を結ぶ交易の要衝でもあります。彼らは交易税を一切徴収しておりません。しかし、その『呪われた土地』を通る商人たちは、恐れから自主的に多額の献金を行っています。献金せずに通過した商人は、なぜかその後、ことごとく破産するか、不治の病にかかり命を落とすと言い伝えられております」
ジルドはさらに声を潜め、最近の事例を付け加えた。
「つい最近も、献金を渋って国境を通過した大商人が、旅の途中で突然謎の病に倒れ、命を落としたという報告が上がっております。商人の間では祟りではないかと一時期噂になりました。」
説明を聞き終えたミレーヌは目を閉じ、右手の人差し指で机を数回、コツ、コツと叩いた。静かな音が止んだ瞬間、彼女はゆっくりと目を開いた。見下ろすようなその眼差しに、知的好奇心と、新たなゲーム盤へ向かう狩人のような鋭い光が宿っている。
「祟りか……」
ミレーヌは、極上の不確定要素を見つけたかのように、艶やかで冷たい笑みを浮かべて呟いた。
「面白いわね」
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