第187話 幕間(去る女)
目を覚ました女は、ゆっくりと周りを見渡した。視界に飛び込んできたのは、土と枯れ草で覆われた粗末な屋根と、土の匂いが染み付いた壁。
「……ここは、どこ?」
ひび割れた唇から、掠れた声が漏れる。なぜ自分がこんな所に寝かされているのか、すぐには記憶が繋がらなかった。
王都を離れ、地位も名誉も失い、ただ泥水をすするような逃亡生活。
(……そうよ。私は空腹と寒さで、ついに道端に倒れ伏して……)
ギィ、と古びた木の扉が軋む音がして、女はビクッと身を強張らせた。
入ってきたのは、見慣れぬ衣服を纏った老人と老婆だった。彼らは女が目を覚ましていることに気づくと、顔をほころばせて何かを話しかけてきた。
しかし、その言葉は全く理解できない。今まで生きてきて一度も聞いたことのない、奇妙な響きの言語だった。警戒する女に対し、老夫婦は敵意がないことを示すように、身振り手振りで何かを伝えようとしてくる。やがて老婆が、湯気を立てる木製の椀を女の口元へ運んできた。
中に入っていたのは、白いスープのようなものだった。しかし、よく見ると正体不明の小さな粒が無数に沈んでいる。
得体の知れない食べ物。だが、極限の空腹には抗えなかった。女は警戒心を捨て、その白いスープを口に含んだ。
「……!」
味付けは薄いが、温かく、じんわりと胃の腑に染み渡る。久しぶりのまともな食事だった。女は獣のように椀に食らいつき、あっという間に平らげてしまった。
もっと。もっと食べたい。
女が空の椀を突き出すと、二人は困惑したように顔を見合わせた。そして、首を横に振り、女を寝かしつけるような仕草をする。
仕方がない、休むか。
女は不満に思ったが、抗議する体力もなく、再び深い眠りに落ちていった。
数日が経ち、女は自分がなぜお代わりを止められたのかを理解した。
極限まで飢餓状態にあった胃袋に、いきなり大量の食べ物を詰め込めば負担がかかり、命に関わる。あの老夫婦は、それを知っていて暴食を止めてくれたのだ。
それからというもの、二人は献身的に女の世話を焼いた。体力の回復に伴って、出される食事の量や種類も少しずつ増えていった。どれも、かつて西の国で生きてきた彼女が見たことも食べたこともないような物ばかりだった。
それにしても——と、女は粗末な寝台の上で鼻を鳴らして嗤った。
この二人は、何の対価も求めず、なぜ見ず知らずの私を助けたのだろうか? 見捨ててしまえばよかったものを。それなのにお人好しにも程がある。吐き気がするほどの愚かさだ。自分が介抱しているのが、かつて一国を支配した至高の女だとも知らずに。
かつての彼女なら、自分の美貌や素性が利用されるのではと警戒したかもしれない。
しかし、今の彼女の心にあるのは、奇妙なほどの『飢え』だった。
あの日、あの銀髪の悪魔によってすべてを奪われ、文字通りの地獄を見た。
だが、屈辱と泥にまみれ、何もかもを失ったというのに、彼女の奥底で燃える強欲の炎は消えるどころか、よりどす黒く肥大化していた。
(私は、こんなところで終わる女じゃない。奪われたのなら、また奪い返せばいいだけのこと。この未知の異国……ここにいる無知な連中を喰い物にして、もう一度、天の頂に登り詰めてやる)
女は、あかぎれだらけの自分の手を見つめながら、暗く歪んだ笑みを浮かべた。運命に身を委ねるつもりなど毛頭ない。この未知の国すらも、己の底知れぬ飢えを満たすための、新たな餌場に過ぎないのだ。
◇◆◇◆
数日後の夜。
女は、自分が貰い受けるのが当然の権利」とばかりに、僅かな食糧と粗末な外套だけを盗み出し、闇に紛れて小屋を後にした。
老婆の作る温かいスープなど、彼女の異常な渇きを癒すことはできない。
彼女が欲しているのは、万人がひれ伏す絶対的な権力と、あの銀髪の女を絶望の底に突き落とす瞬間の甘美な味だけだ。そのためなら、この異国の王でも将軍でも、なんだって利用し尽くしてやる。
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