第186話 女王の褒美
ヴァールの平原で、ヴィスタ帝国が誇る無敵の軽騎兵団が、ミレーヌの放った苛烈な銃火の前に為す術もなく壊滅してから幾週が過ぎただろうか。
顔の右半分が焼けただれた女騎士は、泥と血にまみれた足を引きずりながら、ただひたすらに北東へと歩き続けていた。肺は焼け付くように熱く、口の中には常に鉄の味が広がっている。彼女を突き動かしていたのは、帝都クヴァントへ戻り、再びあの女王を討つための軍を立て直すという暗い執念だけだった。
しかし、ようやく辿り着いたクヴァントの城門を見上げた瞬間、彼女の膝からすべての力が抜け落ちた。
鈍色の空の下、帝都の城壁にはヴィスタ帝国の誇り高き鷲の紋章ではなく、クライナイン王国の旗が冷たい風にはためいていたのだ。
「……嘘だ」
彼女は乾いた土の上に崩れ落ちた。盤石だったはずの大帝国の帝都が、すでにあの女の手に落ちている。その光景が、すり減っていた彼女の精神に最後の一撃を与えた。虚ろな瞳で地面を見つめる彼女を、不審に思ったクライナイン兵が取り囲む。抵抗する気力すら残されていない彼女は、あっさりと捕縛された。
その時、通りかかった役人が彼女の火傷の痕に目を留めた。彼は何事かを兵士に告げ、彼女はすぐに皇宮へと引き立てられていった。
◆◇◆◇
数刻後、皇宮の奥深く。かつてマテウス二世が座していた玉座の間。
冷たい大理石の床に引き倒された女騎士を、ミレーヌは玉座の上から見下ろした。縛られた両腕に力を込め、こちらを睨みつけてくるその顔をじっと凝視したあと、ミレーヌは誰に話しかけるわけでもなくポツリと呟いた。
「……やはり違うわね」
マリユスからの事前の報告で『顔に火傷のある異国の女』という特徴と名前を聞いた時、ミレーヌは一つの可能性を疑っていた。かつてこの手で全てを奪い、焼身自殺した女——セリアは、実は生きていて、復讐を企てているのではないかと。
しかし、眼下に這いつくばる女の骨格や面影は、記憶にあるセリアのそれとは明らかに異なっていた。ミレーヌは少しだけ興味を失ったように視線を落とす。
「あなた、名前は?」
平坦で無機質な声が響く。女騎士は奥歯を強く噛み締め、憎悪に満ちた声で吐き捨てた。
「……エバ。エバ・ブローリだ」
その名を口にした瞬間、ミレーヌの薄氷を思わせる瞳がわずかに見開かれた。
「報告の通りね。公爵家の名を騙った偽名かと思っていたけれど……すると、本物かしら?」
「そうだ! お前が殺した父上の一人娘だ!」
エバの叫びが、広い部屋に木霊する。ブローリ公爵。野心に溢れ、ミレーヌに射殺された男。ミレーヌは、あの日の血の匂いを思い出すこともなく、退屈そうに息を吐いた。
「あの男の娘ね……」
少しだけ驚きを見せたミレーヌだったが、その表情はすぐに凪いだ海のような静けさを取り戻した。彼女は目を閉じ、右手の人差し指で肘掛けを数回、コツ、コツと叩く。静かな音が止んだ瞬間、彼女は再び目を開き、エバを真っ直ぐに射抜いた。
「いろいろ調べさせてもらったけど、あなたが今回の五カ国同盟を画策したということで間違いないかしら?」
その問いに、エバは屈辱に顔を歪ませたが、自らの知略への矜持を振り絞るように答えた。
「そうだ。計画は完璧だった。しかし、我々には運がなかった。……それだけだ」
「完璧?」
ミレーヌの口から、微かな笑い声が漏れた。それは、相手のすべてを否定するような、底冷えのする冷笑だった。
「あなたのおかげよ。本当に助かったわ。一カ国ずつ潰していくのは、他国の出方を窺い、個別に対応策を練らなければならず、酷く面倒だと思っていたの。でも、五カ国がわざわざ連合して一斉に敵対してくれたおかげで、全体の動きがとても読みやすくなったわ。本当に、褒美をあげたいくらいよ」
エバの顔から血の気が引いていく。自分がすべてを賭けた包囲網を『手間が省けた』と一蹴され、己の存在意義すら踏みにじられたと悟ったのだろう。エバの顔から血の気が引き、血走った目でミレーヌを睨みつけてきた。
「私を、どうするつもりだ」
「もう殺す価値もないから、どこへでも行きなさい」
ミレーヌは感情の抜け落ちた蒼い瞳で、あっさりと釈放を告げた。自分はもはや盤上の駒ですらない『無害なゴミ』なのだと突きつけられたエバは、狂乱したように縄を解こうともがきながら絶叫した。
「殺せ!」
エバは縄を解こうともがきながら絶叫した。復讐を生きる糧にしてきた彼女にとって、この惨めな生の継続は耐え難い地獄だ。しかし、ミレーヌは冷ややかに言い放った。
「殺さないことが、私からの褒美よ」
「私を殺せ! ミレーヌ!」
抗議の叫びを上げるエバを完全に無視し、ミレーヌはフィデールへ向けて視線を動かした。
「今すぐ追い出して。手出し無用よ」
「はっ!」
フィデールの命により、近衛兵たちがエバの両脇を抱え、床を引きずるようにして部屋の外へと連れ出していく。最後まで響いていた彼女の絶叫も、重厚な扉が閉まると同時に完全に遮断された。静寂が戻った玉座の間で、フィデールが怪訝そうな顔でミレーヌに問いかけた。
「よろしいのでしょうか? あのような復讐心を抱く者を野に放てば、再び牙を剥くやもしれません」
ミレーヌはスッと目を細めた。
「彼女には、自分がどうあがいても勝てないと理解できる程度の知能はある。二度と歯向かうことはないわ」
ミレーヌは感情の読めない横顔で言い切った。その姿を見つめながら、フィデールは柄にもなく主君の真意を推し量ろうとしていた。
(わざわざ生かして帰すなど、陛下らしくない。……もしかして、ご自身が手に掛けたブローリ公爵の娘だから、せめてもの情けをかけたのだろうか?)
だが、フィデールはすぐにその考えを打ち消した。冷徹を極めるこの女王に限って、そんな感傷的な理由で敵を逃がすはずがないのだ。
ならば、先ほどの『五カ国をまとめた手間が省けた』という言葉通りの、純粋な褒美なのか。それとも、底知れぬ別の意図があるのか。愚直な武人である彼の脳みそでは、どれだけ考えても正解は出ない。
「……御心のままに」
思考を放棄したフィデールは深く頭を垂れ、ただそれだけを口にした。
ミレーヌの予測通り、自身の圧倒的な無力を骨の髄まで思い知らされたエバ・ブローリが再び歴史の表舞台に姿を現すことは二度となかった。
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