第185話 終焉
ヴィスタ帝国の喉元に、ミレーヌ・グラッセの白く細い指先がかけられた。
帝都クヴァントへと続く数本の街道が交わる要衝都市ゾルタイム。そこをクライナイン軍が制圧してから一か月。進軍はなぜか止まった。
その庁舎の一室。ミレーヌは窓外に広がる秋の空を眺めながら、右手の人差し指でコツコツと机を叩いていた。
「お待たせしました、陛下」
軽快な足取りで現れたのは、商業庁長官ラウールだ。戦火の絶えない前線だというのに、彼の身なりは整い、その表情には大きな商談を成功させた後のような卑俗な活気が漲っている。
「例の件、どうなっているかしら?」
「はっ。抜かりございません。帝都周辺の主要な商会、穀物問屋、さらには地下の流通ルートに至るまで、全ての手配を完了しております」
「そう。じゃあ、最終段階を進めて」
「かしこまりました」
ラウールが深く一礼して退室する。ミレーヌは碧い瞳を細め、少しだけ微笑を浮かべた。
◇◆◇◆
一方、クヴァントの皇宮内は、沸騰する釜のような混乱に陥っていた。
「三万? たった三万の小娘の軍勢に、我が帝国が怯えるというのか!」
皇帝マテウス二世の怒声が玉座の間に響く。
「残った兵を率い、朕、自ら出陣する! 雪辱を果たす時は今だ!」
「陛下、なりませぬ!」
家臣たちが一斉に床に伏した。
「お忘れですか。十五万を超える兵を擁したラスカ王国が、いかに無残に散ったかを。新型銃器を揃えたクライナイン軍に、残存兵力での野戦など自殺行為にございます!」
「籠城を。帝都の堅牢な城壁に頼るほか、道はございませぬ!」
家臣たちの必死の形相に、マテウスは力なく玉座へ沈み込むしかなかった。
だが、その籠城こそがミレーヌの描いた地獄の入り口だった。
一ヶ月ほど前から続いていた不自然な物価高騰は、やがて完全な「物資の消滅」へと変わった。昨日まで買えたパンが、今日はいくらお金を積んでも手に入らない。
そもそも、先の大戦における二十三万の大動員で、帝都の備蓄はすでに底を突きかけていた。そこへ八万近い敗残兵が雪崩れ込んだのだ。ミレーヌが水面下で流通ルートを買い占め、外部からの物資を完全に遮断した巨大都市が飢餓に陥るのは、火を見るより明らかだった。
飢えは、いとも容易く軍の統制を崩壊させた。
昨日まで国を守るはずだった兵士たちが、血走った目で暴徒と化し、民家や商店から僅かな食糧を奪い始めたのである。
略奪と暴力が横行する地獄絵図の中で、絶望した住民たちが生きるために選んだ道は、帝都からの脱出だった。
「ゾルタイムに行けば、敵の女王が食糧を分け与えてくれる」
誰が流したともしれないその噂が、人々の脱出をさらに加速させた。夜闇に紛れ、住民だけでなく、飢えと恐れに耐えかねた兵士すらも次々と城壁を越え、我先にと逃げ出していく。
◇◆◇◆
一方、ミレーヌが駐留するゾルタイムでは、圧倒的な物量による『難民の受け入れ』が行われていた。
クライナイン王国軍の陣地周辺に設けられた巨大なキャンプ地。そこでは、逃げ出してきた暴徒同然の兵士たちもスムーズに武装解除され、買い占められていた莫大な物資が解放されていた。逃げ延びた住民や降伏した兵たちに、温かいスープとふっくらとしたパンが次々と配られていく。
「……美味しい」
泥にまみれた子供が、配給のパンを頬張って涙を流す。
自国の皇帝に見捨てられ、飢えの地獄を見た民衆にとって、それは神の慈悲に等しかった。ミレーヌは帝都を直接包囲すらしていない。ただ要衝に留まり、物流を止め、自ら歩み出てきた者に食糧を与えていただけだ。
自国の皇帝が民を飢えさせ、敵対する女王が民を救う。
その事実は、剣よりも鋭く帝国の根幹を断ち切った。
◇◆◇◆
さらに二週間後。
クライナイン王国軍は、死の静寂に包まれたクヴァントへ悠然と足を踏み入れた。
かつて威容を誇った帝都の正門は、逃げ出した暴徒たちによって無残に開け放たれたまま放置され、見張りの兵は一人としていなかった。
戦う気力を持つ兵も、自立して歩ける住民も、すべて城壁の外へ逃げ去っている。広大な帝都に残されていたのは、逃げる体力すら失い道端でうずくまる餓死寸前の者たちと、無数の死体だけであった。
もぬけの殻となった皇宮。玉座の間に、一人虚ろに座り込むマテウスの前にミレーヌたちは立った。
「……殺せ。貴様の気が済むようにな」
震える声で命乞いに等しい虚勢を張る男を、ミレーヌは心底退屈そうに見下ろした。
「殺す? そんな面倒な事はしないわ」
カラン、と。
ミレーヌは腰の短剣を抜き、その足元へ無造作に投げ捨てた。
「それで、自害なさい」
「な、貴様……朕に自ら死ねというのか!」
「ええ」
皇帝は投げ捨てられた短剣を睨みつけ、肺の奥から搾り出すような声で笑った。
「……く、くく。朕に、貴様の言いなりになって死ねと? 断る……断るぞ、ミレーヌ! 朕は死なぬ。貴様の思い通りには……決して……!」
憎悪に濁ったその瞳は、もはや現実を見てはいなかった。ミレーヌは、そんな男の言葉に耳を貸すことすら時間の無駄だと判断し、「連れて行きなさい」と短く命じて背を向けた。
マテウス二世は皇宮の一室に閉じ込められた。そこにあるのは寝台と、床に転がった一振りの短剣だけだ。水も食料も、一切与えられない。
◇◆◇◆
一週間後。皇宮の執務室にいるミレーヌの元へ、クロヴィス少将が報告に訪れた。
「陛下。マテウス二世、先ほど死亡を確認いたしました。短剣は……抜かれた形跡すらございません。死因は渇死と思われます」
報告を受けたミレーヌは、淹れたてのアールグレイを静かに口へ運び、ひどく退屈そうに目を伏せた。
「……自害もできなかったのね。醜悪な男」
感情の欠落したその呟きが、かつての大帝国の主の人生を、無価値なゴミとして完全に切り捨てた。
「それと……牢内の元宰相ヘルベルトも息を引き取りました。あちらも絶食による餓死かと。ただ、その表情は驚くほど温和だったとのことです」
「そう」
ミレーヌはそれ以上、一切の感想を口にしなかった。
右手の人差し指がソーサーの縁を何度か往復した。彼女が何を感じたのか、常に傍らに控えるクロヴィスでさえ、読み取ることはできなかった。
こうして、東大陸に覇を唱えようとしたヴィスタ帝国は、完全に滅亡した。
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