第182話 救援
照りつける熱波とむせ返るような土埃の匂いが、国境地帯に敷かれたラスカ王国軍の本陣を息苦しく包み込んでいた。遠くで鳴り響く夏虫の声すら、神経を逆撫でするような苛立ちを煽る。
オノフリオ将軍は、天幕の中で忌々しげに額の汗を拭った。
キゾルド鉱山周辺の要害に立てこもるリアル・グラック辺境伯と対陣して三ヶ月。度重なる降伏勧告を拒否され続けていたが、将軍はひたすら吉報を待っていた。
「そろそろ、各国の戦勝報告が届くはずだが、帝国からの連絡はまだか」
「先月あたりから、定期的な連絡が来なくなりました。もしかしたら何かあったのかもしれません……」
副官の言葉に顔を曇らせるオノフリオの元へ、一人の使者が転がり込むように飛び込んできた。猛暑の中にもかかわらず、その顔は蒼白に染まっている。
「将軍閣下! 王都ミランドラが敵の急襲を受け、完全に包囲されております!」
「なんだと!?」
オノフリオは、思わず立ち上がった。
ラスカ王国は、今回のクライナイン王国侵攻に際して、ほぼ全軍を国境へ差し向けていた。だが、それは決して無謀な賭けではなかった。
東のヴィスタ帝国とは同盟を結んでいる。西に位置するイの国は、そもそも軍隊を持たない国家だ。さらに北西のズタリア王朝は現在、他国からの激しい侵攻を受けており、ラスカに攻め入る余力など皆無。戦略上、王都ミランドラの守りを薄くしても背後を突かれる危険性はないと、誰もが確信していたのだ。
「どこから敵が現れたというのだ! まさか、あの銀髪の小娘が本軍を率いてきたのか!?」
「い、いえ! クライナイン王国の旗を掲げた、およそ四千の騎馬隊です! 疾風のような速度で国境を抜け、突如として王都の前に現れました。率いているのは、あのゲオルク・グラックとのこと!」
使者の言葉に、オノフリオは息を呑んだ。
あの猛将が、騎馬隊のみを率いて国境を越え、一直線に王都を突いたというのか。
「王都の守備はどうなっている!」
「残っているのは、わずか数百の兵のみ。慌てて城門を固く閉ざし、籠城の構えを取っておりますが、いかんせん数が足りません。いつまで持ち堪えられるか……」
オノフリオは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
ここでミランドラが落ちれば、この大軍は帰る場所を失う。いくら辺境伯を睨みつけていても意味がない。
「全軍、直ちに反転せよ! 王都の救援に向かう! 銀山の奪取など後回しだ!」
将軍の怒号が響き渡り、ラスカ王国軍は慌ただしく陣を払い、撤退を開始した。
◆◇◆◇
砂塵を巻き上げながら、大軍が自国領の街道を急ぎ戻っていく。
夏の猛暑の中での強行軍は、兵士たちの体力を容赦なく奪い去っていった。オノフリオは馬上から、疲れ切った兵士たちの列を険しい顔で見つめていた。
「急げ! 王都の危機を救えるのは我々だけだぞ!」
彼らが、両脇を小高い丘と深い森に挟まれた盆地に差し掛かった、その時である。静寂を切り裂くように、凄まじい轟音が夏の空気を震わせた。
「な、何事だ!」
オノフリオが周囲を見渡すよりも早く、街道の両脇の丘陵から無数の火が噴き上がった。
空気を切り裂く風切り音とともに、鉛玉の雨がラスカ軍の側面に容赦なく降り注ぐ。密集して行軍していた兵士たちは、次々と血飛沫を上げて倒れ伏していく。
「敵襲だ! 迎撃態勢をとれ!」
だが、パニックに陥った軍を立て直すことは容易ではない。丘陵に姿を現したのは、クライナイン王国の軍服を纏った二万以上の銃撃兵たちだった。
「将軍、クライナイン王国の待ち伏せです!」
「見ればわかる! 数は?」
「左右にそれぞれ一万以上はいると思われます」
「合わせて二万だと!」
オノフリオの絶望をさらに深めるように、最後尾から悲鳴が上がった。
「後方から敵襲! リアル・グラック辺境伯の軍勢が猛追してきます!」
目の前からは二万以上の砲火。背後からは、地の利を活かした辺境伯の八千の軍勢。
完全に挟み撃ちにされたラスカ王国軍は、もはや軍隊としての体をなしていなかった。新型銃の圧倒的な威力の前に、十万以上の大軍が、まるで巨大な臼ですり潰されるように次々と屠られていく。
オノフリオ将軍もまた、喉が裂けるほど叫びながら剣を振り上げた瞬間、数発の銃弾を胸に受け、呆気なく馬から転げ落ちた。
かつてペトロイオの戦いで生き残った彼らの復讐劇は、巧妙に計算された挟撃によって、呆気なく幕を下ろした。
◆◇◆◇
同じ頃、ラスカ王国の王都ミランドラの城門前。
ゲオルク・グラックは、愛馬の背で気だるそうに欠伸を噛み殺していた。
彼の周囲には、四千の騎馬兵が城壁を完全に取り囲むように展開している。城壁の上からは、青ざめたヨルタン国王が、震える手で城壁の縁を掴みながら彼を見下ろしていた。
そこへ、一人の伝令が馬を駆け寄らせ、レジスに耳打ちをした。彼は静かに頷き、上官へと向き直る。
「団長。アーレンからの連絡です。侵攻軍を撃破したとのことです」
「さすがアーレン。手際がいいな」
ゲオルクは無精髭を撫でながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「城内に使者を送れ。ラスカ王国の軍は壊滅し、援軍は来ない。明日までに降伏するなら命は保証する。降伏しないならば、本隊到着後に総攻撃をかける、と」
◆◇◆◇
その無慈悲な宣告は、王都に残された者たちの心を完全にへし折った。
救援が来ないという絶望的な真実を前に、ヨルタン国王は膝から崩れ落ちる。
「おのれ、ミレーヌめ......! 余は、またしてもあの小娘の罠に……!」
狂乱し、力なく床を叩く国王の肩に、ジルド宰相が静かに手を置いた。
「陛下……もはやこれまでです。臣の愚かな懸念が、最悪の形で現実となってしまいました。王家の血と民の命を繋ぐため、どうか、ご決断を」
長年国を支えてきた忠臣からの、静かで重い進言。それに抗う気力など、今のヨルタンにはどこにも残されていなかった。
翌日の早朝。重々しい音を立てて王都ミランドラの城門が内側から開かれ、白旗が力なく風に揺れた。
ラスカ王国は、ゲオルクの軍門に降伏し、地図上から完全に消滅した。
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