第181話 手紙を書く男
八月に入り、立ち上る陽炎の向こうに続く街道を、ジャック・レルネ大将率いる四万のクライナイン王国軍が土埃を巻き上げて進軍していた。兵士たちの軍服には濃い汗の染みが広がり、夏の重苦しい空気をさらに息苦しいものにしている。
かつて、この大公国は二十四万もの大軍を動員し、サデーナ騎士団領と共に旧バニア皇国の首都カインエを包囲した強国である。まともにぶつかれば、いかに新型銃を装備したクライナイン軍といえども、これほど容易く進軍できる相手ではなかったはずだ。
しかし、現実の進軍は、拍子抜けするほど平穏なものだった。行く手を阻む敵兵の姿はなく、道沿いの村や街はどこもかしこも白旗を掲げ、武装を解除して王国軍を迎え入れていた。
ジャックは、額の汗を粗い布で拭いながら、忌々しげに豊かな顎髭を撫でた。武人である彼にとって、流血を伴わずに敵地を制圧できるのは、軍を率いる将としてこれ以上ない理想的な展開である。しかし、その「無血侵攻」をもたらしている最大の要因が、ジャックの精神をひどく疲弊させていた。
その日の午後。接収したばかりの街の領主の館に本陣を敷いたジャックは、足取り重く、割り当てられた執務室の扉を開けた。室内には、むっとするようなインクの匂いと、羊皮紙が擦れる乾いた音が充満している。
「……もう、十分です。休まれたらいかがでしょうか?」
ジャックは、部屋の中央の机に向かって必死に羽ペンを走らせている男に、あきれ果てた声で語りかけた。かつては豪奢な衣装に身を包み、大軍の頂点にふんぞり返っていたフェラスレツ大公国の元首、ヨゼフ二世である。逃亡の末にリナに捕らえられた彼は、今や見る影もなくやつれ、汗だくになりながら机にしがみついていた。
「いえいえ! この手紙ですでに百二十通目ですが、あと百通は書かないと……!」
ジャックが引きつった顔で応じると、ヨゼフ二世は顔を上げ、汗だくの顔にへらへらとした卑屈な愛想笑いを浮かべた。彼は、書き上がったばかりの羊皮紙を、まるで貴重な宝物を見せびらかすように誇らしげに掲げた。
「ジャック将軍、見てくだされ! 次の街の守備隊長に宛てた降伏勧告です! 『クライナイン軍に逆らう者は一族郎党皆殺しにする。即座に城門を開き、極上のワインと肉を用意してジャック将軍をお迎えせよ』……どうです、完璧でしょう! これを見れば、彼らも喜んで白旗を上げるはずですぞ!」
「……ああ。大変助かります」
ジャックは、絞り出すように短く答えるのが精一杯だった。自国の兵士に対し、敵国への媚びへつらいを強要する一国のトップ。そのあまりにも無惨な姿に、ジャックは内心で深々とため息をついた。
(敵国のトップが、嬉々として熱心に我が軍の進軍ルートを整備しているとはな……)
ヨゼフ二世は、カインエの包囲網戦において、クライナイン王国軍の強さや底知れぬ強さを嫌と言うほど思い知らされたさらに、己の生殺与奪が、ミレーヌの機嫌次第であるという事実が、彼から大公としてのプライドを完全に消し去っていたのだ。
「女王陛下にもぜひお伝えください! 私がいかにクライナイン王国に尽くしているか、いかに従順で役に立つ男であるかを!」
ヨゼフ二世は目を血走らせ、狂気じみた熱情を込めて新しい羊皮紙に手を伸ばす。インク壺にペンを突っ込み、再び自国の街へ向けた脅迫状をしたため始めた。あの感情の抜け落ちた蒼い瞳の支配者の怒りを買えば、死よりも恐ろしい結末が待っている。その恐怖だけが、彼を動かす唯一の原動力となっていた。
(……勘弁してくれ。誇り高き敵と正々堂々と剣を交え、撃破する方が、よほど気が楽だぞ)
ジャックは再びこめかみを押さえた。彼がこれまでの人生で培ってきた武人としての常識は、ミレーヌという存在によって悉く覆されている。彼は、この前代未聞の滑稽な「無血侵攻」が、一刻も早く終わることをひたすらに祈った。
◆◇◆◇
ジャックの痛切な願いが天に届いたのか、ヨゼフ二世の乱発した降伏勧告の手紙は、フェラスレツ大公国全土で絶大な効果を発揮した。かつては大公を敬まっていた将兵たちも、君主自らが敵にへりくだり、逆らえば皆殺しにすると脅してくる現状に、完全に戦意を喪失した。要衝となる砦や都市は、クライナイン軍の姿を見るや否や、次々と城門を開け放ち、恭順の意を示した。
結果として、四万の軍勢は一滴の血も流すことなく、大公国の首都をはじめとする主要拠点の制圧を短期間で完了させてしまったのである。
制圧が完了した首都の広場で、ジャックは右翼を任せていたダヴィド少将を呼び出した。旧公爵家時代から堅実な指揮で知られるダヴィドは、汗ばんだ軍服の襟を正し、ジャックの前に直立不動で立った。
「ダヴィド少将。お前に、一万の兵を預け、このフェラスレツ大公国の治安維持と戦後処理を任せる。暴動や不穏な動きがあれば、容赦なく鎮圧しろ」
「はっ! 承知いたしました。しかし大将、この広い大公国を一万の兵で維持できるでしょうか。敵の残党が蜂起する可能性も……」
ダヴィドが慎重な顔つきで懸念を口にすると、ジャックは苦笑交じりに首を横に振った。
「その心配は無用だろう。あのヨゼフ二世が自ら国を売り渡したのだ。君主に見捨てられた民や兵に、我々に反旗を翻すだけの気力は残っていない。それに、ミレーヌ様が後から文官たちを送り込んで、統治の基盤をすぐさま作り上げるはずだ。お前は、文官どもが仕事しやすいように、この地の治安をきっちり維持しろ」
「承知いたしました!」
ダヴィドの力強い返答に頷くと、ジャックは視線をはるか西の空へと向けた。残る標的は、サデーナ騎士団領である。かつてフェラスレツ大公国から独立を勝ち取り、狂信的なまでに武を尊ぶあの国は、大公国のように手紙一枚で膝を屈するような相手ではないだろう。
「残る三万の兵は、これよりサデーナ騎士団領の攻略へと向かう。三日間の休息を取らせた後、直ちに進発する」
ジャックの号令が飛ぶ。夏の終わりの風が、フェラスレツ大公国の旗を地に落とし、代わりにクライナイン王国の旗を天高くはためかせていた。ジャックは愛馬に跨り、次なる戦場へと向けて、手綱を強く握りしめた。
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