第180話 王と配下
土埃と硝煙、そして焦げた血の匂いが入り混じる不快な風が吹き抜ける中、ゲオルク・グラック大将は愛馬の手綱を引きながら、ミレーヌ・グラッセの本陣へと足を踏み入れた。
コルネール将軍率いる帝国本軍を粉砕した戦場は、すでに凄惨な掃討戦を終え、奇妙な静寂に包まれていた。豪奢な天幕の中で、ミレーヌは外の惨状などどこ吹く風といった様子で、氷のように冷たく美しい顔立ちに一切の感情を浮かべることなく各地の戦況が書かれた報告書を読みふけっていた。
「集結し遅れるだろう帝国軍の部隊を、急襲して撃破せよとのお達しには参ったよ」
ゲオルクは無精髭を撫でながら、気安く声をかけた。時差侵攻の罠を逆手に取り、分散した敵の援軍を各個撃破するというミレーヌの作戦は、戦術としては極めて理にかなっていたが、実行する側の疲労は尋常ではない。
「簡単だったでしょ?」
書類から目を離したミレーヌは、平坦な声で返した。
「まあな。これから本軍は帝都に向かうのか?」
「そうよ。帝国は私が滅ぼすから、貴方はリアルの救援に向かって。今頃、西の国境で困ってるだろうから」
まるで今日の夕飯の献立でも決めるかのような軽い口調で言い放つミレーヌの指示に、ゲオルクはわずかに眉をひそめた。リアル・グラック辺境伯は、ゲオルクの従兄にあたる。現在、ラスカ王国の大軍と対峙し、厳しい防衛戦を強いられているはずだった。
「方法は?」
「リアルの窮地を救えるならなんでもいいわ」
感情の抜け落ちた蒼い瞳が、ようやくゲオルクを捕らえた。それは「お前ならできるだろう」という信頼の証でもあるが、同時に結果のみを求める絶対者の圧力でもあった。
「また、丸投げかよ」
ゲオルクがわざとらしく肩をすくめると、ミレーヌは微かに口角を吊り上げた。
「その方がいいでしょ?」
「違いない」
ゲオルクは豪胆な笑みをこぼした。細かく指示されるより、戦場を自由に駆け回れる方が彼の性に合っている。この若き女王の底知れぬ余裕に呆れながらも、彼女が描く盤面が必ず勝利に行き着くことを、ゲオルクはもはや疑っていなかった。
「じゃあな。行ってくるぜ」
ゲオルクは天幕を後にすると、待機させていたレジスやアーレンに出征準備を命じた。彼が今回率いるのは、新兵を含む二万七千の兵力。その中には、機動力に優れる四千の騎馬兵も含まれている。
「全軍、出陣!」
ゲオルクの野太い号令が夏の空気を震わせ、二万七千の軍勢が、新たな戦場へと砂塵を巻き上げて進発した。
◆◇◆◇
同じ頃、ヴィスタ帝国の帝都クヴァントは、真夏であるにもかかわらず、まるで極寒の冬に閉ざされたかのような重苦しい空気に支配されていた。皇宮の広大な謁見の間。皇帝マテウス二世は、玉座に力なく崩れ落ちるように座り込み、血走った目で眼下の報告者たちを睨みつけている。
「……負けただと?」
皇帝の掠れた声が、静まり返った大広間に虚しく響いた。二十万を超える大軍を動員し、必勝を期して出兵したはずだった。しかし、クヴァントに逃げ帰ってきたのは、わずか八万の敗残兵。しかも、無敵を誇った一万の軽騎兵団は完全に壊滅し、あの女騎士の行方も知れないという。
帝国宰相ヘルベルト・マルテンシュタインは、玉座の前に静かに片膝をついていた。彼の冷徹な頭脳は、すでにもたらされた情報から現在の絶望的な状況を正確に弾き出していた。
「陛下、どうか現実を直視なさってください」
ヘルベルトは、感情を押し殺した平坦な声で進言した。
「王都での暗殺は失敗し、我が軍の二十万が、半数以下になって逃げ帰ってきたのです。しかも、クムーラーナ共和国、サデーナ騎士団領、フェラスレツ大公国の侵攻を全て打ち破ったとのこと……敵は、我々の理解が及ぶ『人間』ではありません。帝国の血脈を残すため、今は速やかに他国へ亡命し、再起を図るべきです!」
それは、帝国随一の頭脳が導き出した、最も合理的で唯一の生存ルートだった。しかし、恐怖と屈辱に我を忘れたマテウス二世には、忠臣の言葉すら刃に聞こえた。
「黙れ! まだこの帝都には八万の兵がいるのだぞ! これからという時に逃げろとは、貴様、余を裏切る気か!」
「陛下、どうかご冷静に……」
「そもそも、貴様があの得体の知れない女騎士などを引き入れ、余計な策を持ってきたのが悪いのだ!」
皇帝の理不尽な責任転嫁に、ヘルベルトは静かに目を伏せた。もはや、玉座に座るこの男に、かつて内乱を制した知将の面影はない。恐怖に食い破られ、ただの怯える獣に成り下がっていた。
「陛下、お怒りはごもっともですが……」
「この者を即刻殺せ! 余の目の前から引きずり出せ!」
激昂した皇帝の命令に、近衛兵たちが躊躇いがちにヘルベルトを取り囲んだ。
しかし、周囲の重臣たちが慌てて皇帝を諌め、なんとかその場での処刑だけは免れた。結果として、帝国宰相ヘルベルトはすべての権限を剥奪され、地下の冷たい牢獄へと投獄されることとなった。
◆◇◆◇
数日後。カビと湿った土の匂いが立ち込める薄暗い地下牢。鉄格子の向こうから、かつてヘルベルトに恩義を受けた役人が、声を潜めて現在の状況を伝えてきた。
「……陛下は徹底抗戦を叫び、籠城を決断されました。さらに、五カ国同盟に参加していない遠国のギルディン都市連邦や、西側隣国のズタリア王朝に援軍を求める使者を派遣されたとのことです」
その報告を聞いたヘルベルトは、冷たい床の上で静かに姿勢を正したまま、小さく息を吐いた。すでにミレーヌの圧倒的な力と残虐さは、大陸中に知れ渡っている。この状況下で、縁もゆかりもない遠方の国々が、わざわざ火中の栗を拾いに援軍を出すはずがない。使者の派遣など、ただの無意味なものに過ぎなかった。
「そうか」
ヘルベルトの口から出たのは、それだけだった。彼は、皇帝の決断に対して特に言葉を発しようとしなかった。ただ、暗い牢獄の天井を見つめていた。
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