第179話 迎撃
むせ返るような土の匂いと、兵士たちの放つ熱気が、陣営全体に重苦しく立ち込めている。帝国軍総大将コルネール将軍は、本陣の天幕の中で、ひっきりなしに額に浮かぶ汗を粗い布で拭い取った。
彼が指揮する時差侵攻の策は、これまで完璧に機能していた。厄介なゲオルク・グラックの軍勢を国境のガレルッオ要塞に釘付けにし、その間に皇帝の放った特務部隊と軽騎兵団が、手薄な王都で銀髪の女王の首を獲る。
しかし、その完璧な歯車が、今、不気味な音を立てて狂い始めていた。
「申し上げます! 西側に展開していた二つの軍が、何者かの大軍によって完全に打ち破られました!」
血相を変えて飛び込んできた伝令の報告に、コルネールは眉間を深く刻んだ。
「なんだと? ゲオルクの部隊はまだ要塞に引きこもっているはずだ。どこから大軍が現れた!」
「そ、それが……旗印は、クライナイン王国の本軍。率いているのは、女王ミレーヌ本人とのことです!」
その名を聞いた瞬間、コルネールの背筋に冷たい汗が伝った。王都にいるはずの女王が、三万もの軍勢を率いて増援として現れた。それはすなわち、彼女の首を狙って放たれた一万の軽騎兵団が、すでにこの世に存在しないことを意味している。
「軍を分けた事が、完全に仇となったか……」
コルネールはギリッと奥歯を噛み締めた。ゲオルクを釘付けにするために軍を二万程度の兵ずつの十拠点に分散させたことが、皮肉にも、本軍を率いて現れたミレーヌにとって、格好の各個撃破の的となってしまったのだ。相手が三万程度なら、分散している二万の部隊など容易く叩き潰されてしまう。
「直ちに各部隊に伝達しろ! 全軍、速やかに集合するのだ!」
その後、部隊の集結ポイントに集った彼らに、さらなる凶報が届く。
「将軍! ミレーヌの軍勢は、我が部隊には目もくれず、帝都クヴァントへ向かって一直線に進軍を開始した模様です!」
「なにっ! 帝都を直接狙うというのか!」
小競り合いなど端から眼中にない、喉元を一直線に食い破りに行く用兵。コルネールは作戦机の地図を力強く叩いた。
「合流できた部隊はいくつだ!」
「現在、本陣に集結できたのは五軍、およそ十一万にございます。残る三軍、約七万は現在こちらへ向けて急行中です」
「ならば、この十万で帝都への防衛線を敷き、ミレーヌの進軍を阻む。我々が盾となり、残る三軍が背後に到着すれば、あの三万を平原で完全に挟撃できる!」
副官が不安げに口を挟む。
「しかし将軍、軍を動かせば、ガレルッオ要塞のゲオルクが背後から打って出てきませんか!?」
「構わん。奴の軍勢が追いつく前に勝負を決める。ミレーヌさえ討ち取れば、この戦争は我々の勝利だ。三軍には、死に物狂いで急行し、背後を突けと伝えろ!」
それは、敵の王の首だけを狙う、将としての経験に裏打ちされた最も確実な戦術だった。
◆◇◆◇
一週間、帝都クヴァントへと続く街道の要衝で、コルネール率いる帝国軍十一万は、ミレーヌ率いる三万の軍勢と激突した。夏の青空を覆い隠すように、白く濃密な硝煙が立ち込める。耳をつんざくような銃声の連続が、鼓膜を容赦なく殴りつけた。
「怯むな! 我々の目的は防衛だ。陣形を崩すな!」
ミレーヌ軍の放つ銃火は、彼の想像をはるかに絶する威力だった。だが、コルネールは無為に兵を立たせていたわけではない。進軍経路に急ごしらえの土塁を築き、荷馬車をひっくり返して防壁とするなど、銃弾の威力を殺すための野戦築城を徹底させていたのだ。
(これほど分厚い備えをしてなお、防壁ごと兵が削り取られていくというのか……なんという理不尽な火力だ)
土煙を上げて容赦なく崩されていく土塁の裏で、コルネールは歯を食いしばって耐えた。十万という圧倒的な兵力と防壁を活かし、ひたすらに徹底した防衛を行う。後方から迫る六万の味方が到着さえすれば、盤面は一気にひっくり返る。その希望だけが、前線の兵士たちの心をかろうじて繋ぎ止めていた。
しかし、太陽が中天を過ぎても、味方の援軍は一向に姿を現さない。嫌な汗が、コルネールの顎を伝って落ちた。
「後続の三軍はまだか!」
彼が副官に怒鳴った直後だった。後方から、一人の伝令が泥にまみれた姿で馬から転げ落ちた。
「将軍!」
「どうした! 援軍はどうなった!」
「残る三軍は……別のクライナイン王国の軍、たぶんゲオルク・グラックの率いる部隊によって、合流前に各個撃破されました……」
その報告は、コルネールを絶望の底へと突き落とすには十分すぎた。
「……ゲオルクだと?」
ミレーヌが西から現れたことで、ゲオルクを要塞に釘付けにする意味は消滅した。自由の身となったあの猛獣は、要塞から打って出て、分散して移動中の無防備な三軍の横腹を、容赦なく食い破っていたのだ。
前門のミレーヌ、後門のゲオルク。完璧だったはずの包囲の網は、いつの間にか自分たちの首を絞める罠へとすり替わっていた。ゲオルクがこの戦場に加われば、全滅は間逃れない。
「……これまでか」
コルネールは、自らの命運がここで尽きたことを悟った。あの無感情な采配を振るう銀髪の女王の前に、逆転の目はない。だが、この十一万の兵までここで全滅させれば、帝都は完全に丸裸となる。
「総員、帝都へ向けて撤退せよ!」
コルネールの悲痛な号令が、硝煙の戦場に響き渡った。
「私が殿を務める! 一人でも多くの兵を帝都へ逃がすのだ。急げ!」
「将軍! そんな、それではあなたが!」
「もはや一刻の猶予はない。早く行くのだ!」
副官を怒鳴りつけ、コルネールは一万の手勢とともに、撤退する味方の背中を守るように陣に籠った。撤退を察知したミレーヌ軍の追撃は、冷酷なまでに迅速だった。降り注ぐ鉛玉の雨が、殿の部隊を容赦なく削り取っていく。
「帝国の誇りを見せてやれ! 一歩も退くな!」
コルネールは血を吐くように叫び、射程の劣る火縄銃を討ち続けさせた。だが、銃口から放たれた無慈悲な一発の弾丸が、彼の胸当てを容易く貫通した。
「ぐはっ……!」
口から大量の血が溢れ出し、コルネールの体は馬から泥濘へと崩れ落ちた。薄れゆく意識の中で、彼が見たのは、はるか後方で砂塵を上げて帝都クヴァントへと逃げ延びていく味方の大軍の姿だった。
(……陛下、どうか、ご無事で……)
優秀で忠実だった帝国軍総大将は、夏の熱い土に血を吸わせながら、静かにその生涯を閉じた。彼の命と引き換えに、大半の兵はクヴァントへ戻ることに成功した。しかし、それはヴィスタ帝国という巨大な国家が、いよいよ追い詰められたことを意味する、絶望の始まりに過ぎなかった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
今後の励みになりますので、感想・ブックマーク・評価などで応援いただけますと幸いです。




