第178話 三つの席
七月の茹だるような熱気が、クムーラーナ共和国の首都ウエスカにある評議会議事堂を重苦しく包み込んでいた。カリスト・ロドリーゴ・アティエンサ総督は、豪奢な椅子に深く腰掛け、忌々しげに額に滲んだ汗を絹のハンカチで拭った。議事堂内に漂うのは、夏の不快な湿気と、それに勝るほどの濃密な焦燥感だ。
ヴァールの平原での戦いは、共和国にとって大惨敗であった。十八万を誇った連合軍は、銀髪の女王が敷いた塹壕と銃火の前に、五万近い死傷者を出し無残に散った。しかし、カリストはまだ絶望の底にはいなかった。この国は、ウエスカ、レアル、パテルナ、シエーロ、アランペイグ、セゴラ、モトリルという七つの強固な都市からなる連合体である。帰還した敗残兵を中心に再編し、城壁の守りを固めれば、クライナイン王国から派遣されたアルノー・ルベ少将率いるわずか五千の軍勢など、いずれ撃退できると踏んでいたのだ。
だが、その甘い目論見は、アルノーが放ったたった一枚の布告によって脆くも崩れ去る。
『傭兵諸君には、現在の倍の給金をお約束します。先の戦いで我が国に弓引いた罪は一切問いません。ただし、こちらに付かない者は例外なく殺処分といたします』
金で命を売る傭兵たちに、祖国への忠誠心などという高尚なものは存在しない。ヴァールの地でクライナインの理不尽な火力を骨の髄まで味わった彼らは、死の恐怖と金貨の魅力に抗えなかった。生き残り、逃げ帰ってきた三万の傭兵たちがあっさりとアルノーの軍門に降ったのである。
そして昨日、旧バニア皇国に最も近い国境の都市モトリルが陥落したという報告がもたらされた。防衛の要を熟知していた元モトリル所属の傭兵たちが、アルノーの指揮下で古巣の弱点を正確に突き、内部から崩したのだ。呆気ない幕切れだった。
「モトリルが落ちたのは、先の戦いで最も多くの死傷者を出し、防備が手薄になっていたからに過ぎない!」
カリストは、自分の都市ウエスカの会議室に集まった残る五都市の代表たちに向けて、声を張り上げた。大理石の床に反響するその声は、己の不安をかき消すための虚勢でもあった。
「我々が一致団結して城壁を固めれば、たかだか五千の正規兵と裏切り者の烏合の衆など、恐るるに足らず! 徹底抗戦あるのみだ!」
代表たちが力強く頷きかけたその時、重厚な扉が開き、血相を変えた伝令が転がり込んできた。
「そ、総督閣下! クライナイン王国より、新たな布告が各都市にばら撒かれました!」
カリストがひったくるように受け取った羊皮紙には、流麗な筆致でこう記されていた。
『クライナイン王国に降伏した都市は、その存続を許します。都市の責任者も現在の地位にそのまま留まることをお約束しましょう。ただし、先着三都市までとさせていただきます』
その文面を読み上げたカリストは、鼻でふんと嗤い捨てた。
「クライナイン王国もたいしたことはないな。このようなあからさまな離間工作、子供騙しの布告をするなど、力攻めをする打つ手が無い証拠だろう」
彼は代表たちを見渡し、自信たっぷりに言い放つ。アランペイグ市の代表エミリオが、ふくよかな腹を揺らして同調した。
「そうですな。我々の結束を乱そうとする見え透いた罠です」
セゴラ市の代表テルセロも、鷹揚に腕を組んで頷く。
「確かに。このような戯言に乗る者などおりませんぞ」
会議室には、再び強固な連帯の空気が満ち溢れた。
◆◇◆◇
それから二週間後。強固な結束を誓い合ったはずの評議会の空気は、肌を刺すような絶望へと変わっていた。アルノーは、布告を無視して団結を誇示する共和国に対し、最も残酷で物理的な回答を突きつけたのである。
標的となったのは、セゴラ市だった。アルノーは自軍の正規兵五千を温存し、寝返った三万の傭兵団を矢面に立たせてけしかけた。倍の給金を約束された傭兵たちは、死に物狂いで城壁に群がり、昼夜を問わぬ猛攻の末、セゴラを力技で陥落させたのだ。
刃向かったセゴラの守備兵は、アルノーの命により一人残らず撫で斬りにされた。その骸の中には、ヴァールの戦いを生き延びて徹底抗戦を叫んでいたバレリオ将軍の姿もあった。
そして、代表のテルセロは惨殺され、他の都市からも見えるよう、街道沿いの木に見せしめとして吊るし上げられたのである。
「テルセロが……そのような姿に……」
報告を聞いたカリストは、執務室の椅子から崩れ落ちそうになった。胃の腑がせり上がり、口の中に苦い唾液が広がるのを感じる。アルノーという男は、交渉の余地など全くない、狂気を孕んだ怪物なのだと、カリストは今更ながらに理解した。
◆◇◆◇
セゴラ陥落から四日後。テルセロの惨殺という強烈な恐怖の植え付けは、各都市の代表たちの心を完全にへし折るのに十分すぎる効果を発揮した。
「総督! アランペイグ市が……エミリオ代表が、独断で城門を開き、アルノー軍に降伏したとの報せです!」
「なんだと!?」
カリストは血走った目で伝令を睨みつけた。あのふくよかで人の良さそうだったエミリオが、我先にと寝返ったのだ。
「あの臆病者め……」
怒りで全身が震えたが、もう手遅れだった。アランペイグという都市を無傷で手に入れたアルノーの軍勢は、確実にクムーラーナ共和国を浸食しはじめている。
◆◇◆◇
その頃、無血開城されたアランペイグ市の庁舎では、ハニーブロンドの髪を美しく整えた青年将校が、純白の手袋をはめた手で優雅に紅茶のカップを傾けていた。
「素晴らしいご判断です、エミリオ殿。貴方の地位と財産は、我がクライナイン王国が確と保証いたしましょう」
アルノーは、平伏するエミリオに涼しげな笑みを向ける。その瞳の奥には、相手を路傍の石ころのように見下す、冷酷な優越感が透けて見えていた。
「あ、ありがとうございます、アルノー様!」
額を床に擦り付けんばかりに感謝する元代表を一瞥し、アルノーは傍らに控えるエディ大尉に視線を移した。
「では、残る都市の代表たちに、新たな布告を届けてください」
アルノーは、外の血の匂いなど微塵も感じさせない端正な顔立ちのまま、静かに言い放つ。
「『残りの枠は、あと二都市です』……とね」
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