第177話 勅使
初夏の容赦ない日差しが、ひび割れた荒野をジリジリと照りつけていた。四十万の同盟軍が瓦解した泥沼の死闘から三日後。フェラスレツ大公国のヨゼフ二世は、生き残った少数の警護兵と共に、祖国を目指してあてもなく逃げ惑っていた。
「もう一歩も歩けぬ……。休ませてくれ」
ひどくひび割れた唇から、掠れた声が漏れる。胃の腑は飢えで焼け付くように痛み、革靴の中は潰れた肉刺の血で濡れていた。逃避行は地獄そのものだった。食糧を求めて立ち寄った村々には何もなく、逆に、侵攻時に略奪の限りを尽くされた村人たちの怒りの刃を向けられた。その襲撃で警護兵の半数を失い、道中では飢えと疲労に耐えかねて倒れる者が続出。彼らを無情にも置き去りにし、今や大公の周囲に残る兵はたったの五名となっていた。
「国境まで、どのくらいか?」
「歩みを止めなければ、三週間程度でしょう」
「三週間もかかるのか! どうにかせい!」
絶望に駆られた大公が声を荒げた、その時だった。
「あたしが無事に帰らせてあげるよ」
頭上の岩陰から、場違いなほど軽快な声が降ってきた。見上げると、燃えるような紅い髪を風に揺らす女が、琥珀色の瞳でこちらを見下ろしている。
「何奴!」
側近が慌てて剣を抜いた。だが、女の姿がふっと掻き消えたかと思うと、信じられないほどの速度で懐に潜り込み、強烈な当身を側近のみぞおちに叩き込んだ。
「ぐはっ……」
警護兵は白目を剥いて昏倒する。同時に、草むらから音もなく現れた十名ほどの男たちが、残る四名の兵をあっさりと拘束してしまった。頼るべき護衛がいなくなったヨゼフ二世は、震える膝をつき、地べたに這いつくばった。
「た、助けてくれ……!」
「もちろん。無事にアンタの国に戻れるようにしてあげるからさ」
女は、哀れな他国の元首を見下ろし、悪戯っぽい笑顔を送った。こうして、大公は否応なく彼女たちに付き従うこととなった。
◆◇◆◇
旧バニア皇国の首都カインエ、総督府の執務室。
「掃討もほぼ終わった。大公軍、騎士団領軍ともに、無事に本国へ帰れる者はわずかだろうな。飢えて狼藉を働く者が多いかもしれないから、逃走経路になる各地へ五千の兵を派遣しておいた」
「手際がいいわね。あとは、布告ね」
ジャックの報告を聞いたレベッカは、傍らに控える書記官のソニアへ視線を向けた。
「ソニア。食料が欲しければ我が軍に出頭して降伏するようにと、全土へ布告を出しなさい」
「承知いたしました」
ソニアが一礼して退室すると、ジャックは机上のミレーヌからの指示書を見つめ、重い感嘆の息を吐いた。
「……それにしても、まさか四十万もの大軍が、こうもあっけなく崩壊するとはな」
「ええ。本当に……初め聞いたときは半信半疑だったけれど」
「アタシが追い払ってあげるっていったじゃん」
不意に、部屋のソファーで寝そべていたリナが、顔を上げて得意げに話しかけてきた。捕らえた大公をジャックの部下に引き渡し、いつの間にか城へ戻ってきていたのだ。
「リナじゃなくて、ミレーヌ様の策が素晴らしかったからでしょ?」
レベッカが呆れたように抗議するが、リナは悪びれずに笑う。
「でも、アタシがその策を持ってきたから、こうしてうまくいったんじゃん」
「確かに、リナが落としたあの偽の密書はよく効いたな。それに合わせて情報庁が領内に暴動の噂を流したことで、奴らの疑心暗鬼は限界に達したわけだ」
「ええ。最後はリナが石を投げただけで、あとは見事に潰し合ってくれたわ」
レベッカが相槌を打つと、ジャックは指示書を指先で軽く弾いた。
「ああ。そして仕上げに、我が軍は補給部隊を襲撃したが、陛下の指示通り『食糧には一切手を触れず、不用品だけを集めて盛大に煙を上げた』」
「敵には『兵糧を失った』と錯覚させて絶望に追い込みつつ、こちらは四十万人分の食糧を無傷で手に入れた。相変わらず、無駄がなく恐ろしいほど合理的ね」
ジャックは深く頷き、息を吐いた。
「そして、極限まで疲弊するのを待ち、最後は三方から包囲して殲滅した。最初から最後まで、この盤面は完全にミレーヌ様の掌の上だったというわけだ」
執務室は、水を打ったような静寂に包まれた。未曾有の四十万の大軍を前にしながら、敵を自滅へと誘導し、確実に仕留める。その常軌を逸した智謀に、歴戦の将であるジャックでさえ、改めて自らの主君への深い畏怖を刻み込まれていた。
沈黙を破るように、リナがソファーからむくりと起き上がり、胸元からいくつかの紙を出し、ひらひらと振った。
「ちなみに、今回の策が失敗した時のために、あと三つ作戦案を貰ったんだよ。どれも、えげつなくて面倒くさそうだったけど」
「……まだ別の策が用意されていたというのか」
絶句するジャックとレベッカをよそに、リナはキョロキョロと部屋を見渡した。
「上座ってどこかな?」
「こっちだけど……」
レベッカが怪訝な顔で部屋の奥の席を示すと、リナはスタスタと歩み寄り、その上座に堂々と立った。そして、空気を裂くような大声で叫んだ。
「ちょ、勅命である! 双方控えろ!」
「勅命? 何をバカな事を言ってるの?」
レベッカが咎めるが、リナはかつてなく真剣な表情を作った。
「本当だよ。ミレーヌにそう言えって言われたんだ。だから控えろよ!」
ただならぬ雰囲気に、ジャックとレベッカは互いに顔を見合わせ、静かにその場に跪いた。リナは胸元から一枚の紙きれを取り出し、咳払いをして読み上げる。
「ジャック、四万の兵をもってフェラスレツ大公国及びサデーナ騎士団領を攻略せよ。攻略順序は大公国から、方法はすべて一任する。なお、大公を捕らえた場合はそれをうまく使うように。レベッカは……」
そこで言葉が止まった。リナは眉をひそめ、紙を何度も裏返して見つめる。
「……特に何も書いてない」
唖然として顔を上げた二人に、リナは首を傾げて言った。
「これであってるかな?」
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