第174話 強力な援軍
焼け付くような七月の陽光が、カインエの街並みを容赦なく照りつけている。分厚い石造りの総督府の執務室にも逃げ場のない熱気が侵食し、開け放たれた窓から響く夏虫の鳴き声が、室内の重苦しい空気をさらに息苦しいものにしていた。
サデーナ騎士団領とフェラスレツ大公国による、計四十万という未曾有の大軍にカインエが包囲されてから、すでに二ヶ月という時間が経過していた。敵は、クライナイン王国軍が誇る新型銃の威力を警戒し、その射程が絶対に届かない数百メートル以上も離れた安全圏に、幾重にも分厚い陣を敷いている。
総督のレベッカ・リカールは、机上に広げられた広大な包囲網の図面から顔を上げ、深い溜息を飲み込んだ。その向かいでは、大将のジャック・レルネが、忌々しげに豊かな顎髭を撫でながら、窓の外の地平線を黒く染め上げる敵陣を睨みつけている。
「二ヶ月間、一切の力攻めを行わず、兵糧攻めとは徹底しているな」
ジャックの低く重い声が、執務室の熱気に混じる。レベッカは、主君であるミレーヌのように感情を排した冷徹な視線を保とうと努めながら、静かに問いかけた。
「こちらから討って出ることは不可能なの?」
「兵力が圧倒的に足りない。敵は二カ国合わせて四十万。対する我が軍は六万。こちらから仕掛ければ、ある程度の兵を道連れにできるかもしれんが、多勢に無勢。完全に包囲され、こちらが先に全滅するのは火を見るより明らかだな」
ジャックは、武人としての客観的な事実だけを淡々と並べた。盤上の数が違いすぎるのだ。
「軍事の素人考えだけど、夜襲を仕掛けるとか……敵の油断を突く手はないのかしら?」
レベッカがなおも打開策を探るが、ジャックは静かに首を横に振った。
「奇襲が成功したところで、四十万という途方もない軍勢を相手にしてはかすり傷にもならない。それに、二度目は決して通用しない」
「現状では打つ手なしということ?」
「……今のところはな」
レベッカの声音に、僅かな苛立ちが混じる。各地からクライナイン王国に侵攻している現状において、ここに六万もの主力を留めておくのは、主君の危機に直結する。
「もしかしたら、軍をこの地に留めるのが、敵の本当の目的かも」
「レベッカもそう思ったか。恐らく、今回の同盟を画策した奴らの真の狙いはそれだろうな。……だが、厄介なことに兵糧攻め自体も極めて有効だ」
「そうかしら? 食料は一年以上蓄えてあるわ」
「いや、水だ」
その短い単語に、レベッカは微かに眉をひそめた。
「水ならば、カインエの城内には大きな川が引き込まれているし、地下水脈から汲み上げる井戸も豊富にあるわ。飲料水が枯渇する心配はないと報告を受けているけれど」
「城外の上流から、川に毒を流される可能性がある」
ジャックの指摘に、レベッカの背筋に冷たい汗が伝った。
「……四十万の軍勢を擁していながら、そこまでするかしら? 毒を流せば、この城の住民を根絶やしにすることになる。彼らの目的は領土の略奪よ。占領後に住民がいなくなっては、円滑に統治していくことは不可能になるわ」
レベッカは為政者としての合理的な視点から反論したが、ジャックは重々しく首を振った。
「通常の思考ならばその通りだ。しかし、敵はすでに二ヶ月もの間、莫大な戦費を消費しながら広大な平原に野営している。業を煮やし、いよいよ城が落ちないとなれば、最終手段として毒を用いる可能性は否定しきれない。いずれにしても、早急にこの包囲網をなんとかしなければ致命的な事態を招きかねん」
「……そうね。それに、このまま目に見える希望もなく籠城が長引けば、恐怖と飢えに耐えかねて、敵に内通する者や暴動を起こす者も城内から出るかもしれないわね」
強固な城壁も、内側からの裏切りには脆い。
歴戦の将であるジャックでさえ、四十万という大軍を前に有効な打開策を見出せずにいた。重苦しい沈黙が、熱を帯びた執務室に降り積もっていく。
その、息の詰まるような静寂を、場違いなほど軽快な声が打ち破った。
「そこで、アタシの出番ってわけよ」
唐突に背後から響いた声。レベッカとジャックは振り向いた。そこには、いつの間にか一人の女性が立っていた。燃えるような紅い髪を無造作に揺らし、琥珀色の瞳には悪戯っぽい光を宿している。彼女は、まるで自分の部屋にでもいるかのように、気だるげな姿勢で壁によりかかっていた。
リナ・オハナである。
「リナ……!? どうして、あなたがここにいるの?」
レベッカは、信じられないものを見るような目で彼女を見つめた。カインエは四十万の軍勢に完全に包囲されている。城門は固く閉ざされ、蟻の這い出る隙間もないはずだ。
「どうしてって、そこの窓から入ったんだよ」
リナは、開け放たれた窓を親指でクイッと指差した。確かに窓は開いているが、ここは上層階だ。
「そういう事を聞いているのではない。王都でミレーヌ様をお護りせず、なぜお前がここにいる? いや、それ以前に、どうやって四十万の包囲網を抜けてきた!」
ジャックが、呆れと驚きが入り混じった声で問いただした。すると、リナは肩をすくめ、琥珀色の瞳で二人を真っ直ぐに見据えた。
「なぜって? アンタらがここで眉間に皺寄せて苦労してるみたいだから、アタシがわざわざ助けに来てやったのさ」
「お前が、助けるだと?」
「うん。その四十万とかいう鬱陶しい敵、アタシが綺麗さっぱり撃退してあげるよ」
どこまでも軽く、まるで近所の厄介払いでも請け負うかのような口調で、リナはとんでもないことを言い放った。その豪語に、ミレーヌの股肱の臣である二人は、反論せずに、ただ唖然として紅髪の女を見つめることしかできなかった。
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