第173話 非常識な命令
視界の端から急迫する二本の短剣。ぬかるんだ土に足を取られ、体勢を完全に崩したミレーヌの脳内で、死の確率が極限まで跳ね上がった。
「終わりね!」
アダリーが刃を振り下ろす。己の技量では回避不可能と悟ったミレーヌは、死を受け入れるように思わず目を閉じた。しかし、肉を裂く痛みが訪れるよりも早く、空気を切り裂く風切り音と、重い肉塊が地面に叩きつけられる鈍い音が響いた。
ミレーヌが静かに目を開けると、先ほどまで眼前にいた妖艶な暗殺者の姿はなく、代わりに燃えるような紅い髪が揺れていた。見慣れた琥珀色の瞳が、気だるげにこちらを見下ろしている。義賊のリナ・オハナだった。
「……リナ、なぜここにいるの?」
ミレーヌは立ち上がりながら尋ねた。
するとリナは、頭を掻きながらばつが悪そうな顔を作った。
「いやさ、言いつけを忘れちゃってね」
「言いつけって、手順は全部紙にしたためて渡したじゃない」
ミレーヌが呆れたようにため息をついた、その時だった。リナの背後で、アダリーが、呻き声を上げながら気力を振り絞って立ち上がろうとした。
しかし、リナは、何気ない動作で強烈な後ろ蹴りを放つ。踵が正確にアダリーの顔面を捉え、暗殺者の女は白目を剥き、今度こそ完全に昏倒した。
リナは蹴った足を気にすることもなくミレーヌに向き直った。
「最後の口上を忘れちゃったから、もう一回教えてくれない?」
緊迫した戦場に全くそぐわない、緊張感の欠落した友人の言い訳に、ミレーヌは頭痛をこらえるように額を押さえた。だが、彼女の常識外れの介入がなければ、今頃自分の心臓は止まっていたのも事実だ。
ミレーヌたちが呆れた会話を交わしている十数メートル先では、フィデールと巨漢のルーターによる凄絶な死闘が佳境を迎えていた。互いの大剣と剛剣が激突するたび、火花が散り、空気が震える。彼はルーターの振り下ろした剛剣を大剣で真っ向から受け止めると、尋常ではない筋力で押し返し始めた。
無表情だったルーターの顔に、明確な驚愕の色が浮かぶ。巨漢の腕の筋繊維が悲鳴を上げ、鋼の刃が軋む。
「うおおおおおっ!!」
フィデールは力でルーターの剛剣を完全に弾き飛ばすと、そのままの勢いで大剣を横薙ぎに一閃した。甲冑ごと巨漢の胴体を両断する、圧倒的な破壊力。ルーターの上半身が宙を舞い、大量の血飛沫とともに重い音を立てて地に落ちた。
仲間が立て続けに沈んだことを悟り、優男のフレルクは薄気味悪い笑みを完全に消し去った。
(劣勢を悟り、退く気ね……)
ミレーヌが冷徹に観察する前で、フレルクは対峙しているアルノーを突破口と定めたようだった。目の前の男を瞬殺し、戦場から離脱するつもりなのだろう。
フレルクは姿勢を低く沈め、両手の変則的な刃を構えてアルノーの懐へ滑り込むように突進した。暗殺者特有の、音もなく急所を穿つ必殺の刺突。
しかし、アルノーは純白の手袋をはめた手で剣を握ったまま、表情一つ変えない。彼は、迫り来るフレルクの刃を最小限の動きで弾き落とした。
「焦りは命取りですよ。それに、私の手袋を血で汚さないでいただきたい」
涼しげな声が響いた直後、アルノーの刃が下から跳ね上がるように閃いた。フレルクの首元が深々と薙ぎ払われ、鮮血が風に舞う。暗殺者は驚愕に見開かれた目のまま、アルノーの靴を汚す手前で力なく崩れ落ちた。
三人の暗殺者が沈黙したことを確認し、感情を排した氷のような視線で、目の前の男を品定めするようにアルノーへと向き直った。
「ご苦労。ところで、貴方の今の階級は?」
「大佐です」
アルノーは剣の血糊を優雅に払い落としながら、慇懃無礼に一礼した。
「そう。では、少将に昇進させてあげるわ」
「……身に余る光栄です。ありがとうございます」
アルノーは昇進にも表情を崩さず、静かに頭を下げた。だが、ミレーヌは、彼の涼しい瞳の奥にもっと高い望みがあることを、はっきりと感じ取っていた。
「さっそくだけど、新たな任務を与えるわ」
「何なりと」
「貴方がここまで率いてきた五千の兵をもって、西のクムーラーナ共和国を攻略しなさい」
たった五千の兵で、先ほどまで十八万の軍勢を率いていた国家を攻略するという常識を逸した命令。だが、アルノーは一切の動揺を見せず、即答した。
「承知いたしました。ただし、三つほどお願いがございます」
「何?」
「一つは、攻略に際しての兵站の完全な確保。もう一つは、今後、降伏した兵士を私の指揮下に組み入れることのご許可。最後に、我が国に降伏した指導者の地位の保全です」
アルノーの要求を聞いたミレーヌは、二つ目までは問題ないと考えた。しかし三つ目が問題であった。使えるかどうかわからない者を高位のまま置いておくことは彼女の美学に反する。
「三つ目だけど、二年間だけ。あとは私が決めるわ」
「もちろんでございます。陛下」
(この男……狡猾な駒かもしれない)
二年後、仮に、ミレーヌに処罰された指導者を見れば、自分を非難する可能性がある。だが、降伏した指導者を許したアルノーの名声は揺るぎもしない。アルノーの意図は把握したミレーヌであったが、駒が不足している現状において致し方ないと割り切った。
「物資の手配はラウールに伝達しておく」
「感謝いたします。して、陛下はいずこへ?」
「ヴィスタ帝国に挨拶に行くわ」
ミレーヌの言葉に、アルノーはわずかに小首を傾げた。
「挨拶ですか?」
「そうよ。五か国同盟の盟主なら、女王である私が相手してあげないとね」
ミレーヌの冬の夜空のような青い瞳が、はるか北東、ヴィスタ帝国の帝都クヴァントの方角を射抜いた。その眼差しは、一切の体温を排除するかのように鋭かった。
レーヌは軍服の裾を翻し、待機していた漆黒の愛馬に跨った。彼女は全軍に向け、感情の抜け落ちた蒼い瞳で静かに、しかし絶対的な威圧感を持って宣告する。
「全軍、出発」
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