第172話 初対面
死臭と硝煙の匂いが重く垂れ込めるヴァールの平原。予期せぬ奇襲と予期せぬ援軍が交錯し、混沌を極めた死闘の果てにようやく静寂を取り戻したミレーヌの本陣には、勝利の熱狂よりも、底冷えするような緊張感が漂っていた。
そこへ、周囲の泥や血の惨状とは無縁の、染み一つない美しい軍服を纏った金髪の青年将校が、静かな足取りで歩み寄ってくる。
「見事な手際だったわ。……で、貴方は誰?」
ミレーヌは、感情の抜け落ちた蒼い瞳で、盤上の駒を見下ろすような眼差しで問うた。
「アルノー・ルベと申します」
青年は恭しく、しかしどこか相手を見下すような慇懃無礼な態度で一礼した。
「どうしてここにいるの?」
アルノーは涼しい顔のまま、ミレーヌを助けた経緯を淀みなく説明した。情報操作を用いて反乱を迅速に鎮圧したこと。そして、カインエが四十万の同盟軍に完全に包囲されているため帰還は不可能と判断し、軍を反転させてこの戦場へ駆けつけたこと。それらすべてを、まるで明日の天気を語るかのような平坦な声で告げる。
本来は、任務が終われば次の指令を待つべきである。命令違反まではいかないが、明らかな独断専行。しかも利己的な香りが漂うも、ミレーヌは内心、使えそうな駒であると思った。だが、表面上は一切の感情を排し、体温を感じさせない視線で短く応じた。
「そう」
その直後だった。足を引きずるようにして、一人の伝令が本陣に駆け込んできた。
「申し上げます!」
顔の半分を血濡れの布で覆ったその兵士が、ミレーヌの御前へと進み出ようとする。
「いいわよ」
ミレーヌが報告を促した瞬間、アルノーが音もなく腰の剣を抜き放ち、その伝令に剣先を向けた。
「貴方は誰ですか?」
「伝令です」
「なら、なぜ陛下へ向かうその一歩に、わずかな殺気が混じっているのですか」
その言葉と同時に首筋へ向けて冷酷な斬撃を見舞った。刃は間一髪で躱されたが、アルノーは表情一つ変えずに剣を正眼に構え直す。
(……あの顔。以前、私の馬車を襲撃してきた帝国の暗殺者ね)
ミレーヌは即座に記憶を照合した。ヴィスタ帝国が裏の歴史で飼い慣らしてきた特務部隊、暗殺者のフレルクである。
「チッ……見破られたか。まあいい、少しだけ手間が増えるだけですし」
フレルクが両手に隠し持っていた奇妙な形状の刃を構え、薄気味悪い笑みを浮かべる。
「それはどうでしょうか?」
アルノーは純白の手袋をはめ直すこともなく、優雅な足運びでフレルクと対峙した。冷徹な将校と暗殺者。二人の間で火花が散り、息をもつかせぬ一騎打ちが始まる。
フレルクの正体が露見したのとほぼ同時だった。本陣の外周を固めていた近衛兵たちの列が、まるで大砲の弾でも直撃したかのように凄まじい勢いで吹き飛ばされる。重い地響きとともに突進してきたのは、丸太のような太い腕を持つ巌のような大男、ルーターだ。彼は邪魔な兵士たちを素手で投げ捨てながら、一直線にミレーヌの首を狙って猛進してくる。
「ミレーヌ様に近づくなど、万死に値する!」
フィデールが怒号とともに大剣を抜き放ち、ルーターの前に立ちはだかった。ルーターは無言のまま、その規格外の巨体から放たれる剛剣を大上段から振り下ろす。力で勝るのルーターに近衛将軍が押しつぶされるかと誰もが思った。しかし、真っ向からその重撃を受け止めたフィデールの腕力が、大男の腕を逆に強引に押し返していく。
「うおおおお!」
フィデールの狂信的な気迫に押され、ルーターの無表情な顔に初めて驚愕の色が浮かんだ。巨大な刃と刃が激しく削り合い、もう一つの死闘が幕を開ける。
アルノーとフレルク、フィデールとルーター。二組の凄絶な戦闘が繰り広げられる中、ミレーヌの前には十人のロイヤルガードが集結していた。工務庁長官サミールに急造させた『鋼』の試作鎧を身に纏った近衛兵たちが、二人の暗殺者たちを阻む鉄壁としてミレーヌの「前方」を強固に護り固める。
(あの時、街道で私の馬車を襲ってきたのは三人。優男と大男が前方にいるなら、残る一人は……)
思考が結論に達した瞬間、「背後」に殺気を感じたミレーヌは迷うことなく、振り返りながら自らの腰に提げた細剣を抜き放つ。
いつの間にか、クライナイン王国の一般兵の軍服を纏って死角に潜り込んでいた女――特務部隊のアダリーがそこにいた。
「もらったわよ、女王様!」
妖艶な笑みとともに、毒蛇のような二本の短剣が死角からミレーヌの心臓へと突き出される。ミレーヌは、毎朝フィデールとの訓練で身体に叩き込んだ動きで、間一髪でその致命の刃を躱した。だが、昨日の雨でぬかるんだ土に足を取られ、体勢を大きく崩して地面に倒れ込んでしまう。
「終わりね!」
見下ろすアダリーが、勝利を確信した残酷な笑みを浮かべ、両手の短剣を高く振り上げた。
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