第170話 ヴァールの戦い
それから三週間後。戦略上の要衝であるヴァールの大地にて、西から進軍してきたクムーラーナ共和国の総勢十八万の大軍は、はるか前方に布陣するクライナイン王国軍の姿を捉えた。
「ふん。あの忌々しい銀髪の魔女、てっきり王都の奥深くに引き籠もっているとばかり思っていたが、のこのこ出てきてくれたか」
バレリオ・セスコ・デフィジョ将軍は、馬上で顎を撫でながら、傲慢な笑みを浮かべた。
「敵の数は目視できる範囲で、せいぜい一万といったところか。それにしても、あの陣の前に掘られている三本の溝のようなものはなんだ?」
「恐らく、我が軍の侵攻の足を止めるための空堀かと存じます」
傍らに控える副官が答えると、デフィジョ将軍は鼻で笑い飛ばした。
「小細工など無用、数に物を言わせて圧殺する」
将軍は剣を抜き放ち、全軍に向けて高らかに宣言した。
「聞け!ミレーヌを捕らえた者には、金貨一万枚の賞金を与える! 生死は問わん!」
「はっ! 全軍、突撃せよ!」
副官の号令により、金に目が眩んだ八万の傭兵部隊が、土埃を巻き上げて怒涛の如く突撃を開始した。
◆◇◆◇
だが、共和国軍が見下したその「空堀」こそが、ミレーヌの用意した恐るべき防衛線であった。それは単なる溝ではない。銃兵が身を隠しながら射撃を行うための、この世界で初めて実戦投入された「塹壕」であった。塹壕の中には、すでに二万の銃兵が息を潜めて待機している。彼らの手には、フリントロック式マスケット銃が握られていた。
「引き付けろ……」
塹壕内で指揮を執るクロヴィス少将とニコロ少将が、迫り来る敵兵の波を冷静に見据える。敵が有効射程内に完全に入り込んだ瞬間、冷酷な号令が飛んだ。
「撃て!」
轟音とともに、塹壕の縁から一斉に火が噴き上がった。遮蔽物のない平原をひた走っていた共和国の傭兵たちは、文字通り「見えない壁」に激突したかのように次々と薙ぎ倒されていく。最前列が崩れ落ちても、後続の兵は止まれない。金に目が眩んだ彼らは、味方の死体を踏み越えて塹壕へ迫ろうとするが、ミレーヌの銃撃兵は流れるような分業制で弾込めと射撃を繰り返し、絶え間ない弾幕を張り続けた。結果として、わずか三時間で二万という膨大な数の傭兵が、無残な死体となってヴァールの大地に折り重なった。
後方の本陣からその戦況を冷徹に見下ろしていたミレーヌは、薄く口角を吊り上げた。
(傭兵部隊は壊滅的な被害を被り、あとは弱兵の民兵のみ。今がチャンスね)
「ルカ少将」
「へぃ!」
かつてアルロー傭兵団を率いていたルカ少将が、恭しく頭を下げる。
「本陣から七千の兵を割く。別働隊として敵の側面に回り込み、横腹を食い破って」
「承知しやした!」
ルカ少将が馬首を返し、七千の別働隊が砂塵を上げて陣を離れていく。本陣にはミレーヌと、フィデール率いる近衛兵など、わずか数千が残るのみとなった。
◆◇◆◇
一方、激戦が繰り広げられるヴァールの平原を、少し離れた丘の上の林から静かに見下ろす二つの影があった。一人は、ヴィスタ帝国の誇る一万の軽騎兵を率いるリュディガー将軍。そしてもう一人は、黒いレースのヴェールで右顔を覆った女騎士である。彼らは本来、守りの手薄な王都クーロンヌ・ダルジャンを奇襲する手はずだった。しかし、共和国軍がクライナイン王国へ侵攻し、ミレーヌも迎撃のため出陣したという報を受け、急遽、両者が激突すると思われるヴァールへと進路を変更していたのだ。
「急いで来た甲斐があったな」
リュディガー将軍が、精悍な笑みを浮かべて呟く。
「ええ。共和国軍が当初の計画を無視して侵攻した時はどうなるかと思いましたが……結果として、あの女を王都から、平原のど真ん中へと誘い出してくれました」
女騎士の左の瞳が、ヴェールの奥で剣呑な光を放つ。彼女の視線は、ミレーヌの本陣へと真っ直ぐに注がれていた。ルカ少将率いる別働隊が本陣を離れ、共和国軍の側面へと向かっていくのを二人は見逃さなかった。
「見ろ。敵の本陣が薄くなった。今が最大の好機だ」
リュディガー将軍が剣を抜き放ち、一万の軽騎兵たちへ向けて高く掲げた。
「全騎、突撃! 目指すは銀髪の魔女の首のみ!」
地鳴りのような馬蹄の音が、林の中から湧き起こる。帝国が誇る最精鋭の騎馬軍団が、ミレーヌの本陣の無防備な背後を突くべく、猛然と加速を開始した。
◆◇◆◇
共和国軍の側面に激突し、乱戦を繰り広げていたルカ少将は、背後から迫る異様な地響きに気づき、振り返った。立ち上る土埃の向こうから、無数の槍先を煌めかせた帝国騎馬軍団が、ミレーヌの本陣へと一直線に迫っているではないか。
「まずい!」
ルカ少将の顔から血の気が引く。今から軍を反転させても、到底間に合わない。
圧倒的な機動力を持つ一万の騎馬軍団が、手薄になった本陣を蹂躙するまで、残された時間はあとわずかだった。
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