第169話 女王の親征
じりじりと肌を焼くような陽光の下、旧バニア皇国領の荒れた街道を地鳴りのような足音を響かせて進むのは、総勢十八万に及ぶクムーラーナ共和国軍である。風が吹き抜けるたびに、兵士たちの汗と革の入り混じったむせ返るような匂いが、土埃とともに舞い上がっていた。
その陣容は、金で雇われ戦いを生業とする屈強な傭兵が八万、そして各都市から半ば強制的に徴用された民兵が十万という構成だった。軍の全権を委ねられているのは、バレリオ・セスコ・デフィジョ将軍である。
当初の軍議において、彼らの目的は明確だった。フェラスレツ大公国やサデーナ騎士団領がすでに展開している、首都カインエの包囲網に合流することである。しかし、行軍の最中、デフィジョ将軍の元に耳寄りな情報が舞い込んだ。『クライナイン王国の王都周辺は、現在極めて守りが手薄である』というものだ。
「ジャック・レルネの主力六万がカインエに引き籠もり、ゲオルクの部隊が北の国境付近で帝国軍に釘付けにされている今、あの忌まわしい銀髪の魔女を守るものはいないのか」
デフィジョ将軍は馬上で顎を撫でながら、ニヤリと欲深い笑みを浮かべた。カインエの泥沼の包囲戦に後から加わり、他国と手柄や戦利品を分け合う義理などどこにもない。手薄な王都クーロンヌ・ダルジャンを直接叩き落としてしまえば、この戦争における最大の功労者はクムーラーナ共和国となり、莫大な富と権益を独占できるからだ。
「全軍、進路変更! 目指すは王都クーロンヌ・ダルジャンだ!」
十八万の巨大な軍勢は、獲物の喉元へと一直線に牙を剥き、進軍の速度を速めた。
◆◇◆◇
同じ頃、クライナイン王国の首都クーロンヌ・ダルジャンの城門前には、整然と並ぶ軍勢が朝日を浴びて冷たい光を放っていた。総兵力は三万以上。その全てが、マスケット銃を装備した銃兵である。クロヴィス少将、元傭兵団長のルカ少将、そして同じくニコロ少将の三人。彼らがそれぞれ一万の兵を統率し、ミレーヌを護る近衛将軍フィデールが五百の精鋭近衛兵を率いていた。
初夏の風が吹き抜け、軍馬のいななきが響く中、ミレーヌはしなやかな動作で愛馬に跨った。プラチナブロンドの髪が風に揺れ、彼女の纏う圧倒的な覇気が周囲の空気をピンと張り詰めさせる。彼女を見送るため、財務庁長官のカインと情報庁長官のマリユスをはじめとする文官たちが馬前に控えていた。
当初、籠城による防衛を良しとしていたカインは、ミレーヌが自ら出陣することに消極的に異を唱えたが、『内通者がいるかもしれない城に籠城するなど下策よ』と一喝され、女王の親征を止めることはできなかった。
ミレーヌは手綱を握る手をふと止め、薄氷を思わせる瞳でカインを見下ろした。
「リナは……、あ、そうね。もう出発したか」
「そういえば、数日前から姿が見えませんね」
涼しい顔を保ちながら、カインが恭しく答える。ミレーヌは短く頷くと、カインに鋭い目を向けた。
「カイン、宿題忘れないでね」
「も、もちろんです!」
カインが血相を変えて答えるのを無視したミレーヌは、隣に控える元商人へ視線を移した。
「マリユス、例の件、まかせたわよ」
「万事抜かりなく手配済みです」
「あと、各国の動向と敵軍の情報は逐次入れてちょうだい」
「もちろんでござます」
マリユスが深く頭を下げると、ミレーヌは再びカインへと向き直った。
「じゃあ、カイン。留守番頼んだわ」
これから三万の軍を率いて十八万の大軍を迎え撃つというのに、彼女の態度はまるで午後の散歩にでも出かけるかのように軽やかで、悲壮感など微塵もなかった。
傍らに控えるフィデールだけが、顔を紅潮させて忠誠心に打ち震えていた。
ミレーヌは、感情の抜け落ちた蒼い瞳で前方の街道を見据えた。
「全軍出発」
凛とした、しかし冷ややかなその一言が、三万の将兵を動かす絶対の号令となった。地鳴りのような足音が響き渡り、クライナイン王国軍が前進を開始する。
クムーラーナ共和国軍十八万と、ミレーヌ率いるクライナイン王国軍三万が激突する死地は、北西部の戦略的要衝、ヴァールであった。
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