第167話 願い
初夏の強い日差しが、ヴィスタ帝国との国境地帯に広がる荒野を容赦なく照りつけていた。五月。緑が深まる心地よい季節とは裏腹に、突如、土埃が舞い上がる。その土埃から現れたのは数多の騎兵を率いた男--ゲオルク・グラック大将だった。
その騎兵の一人が素早く騎馬から飛び降り、地面に刻まれた痕跡を調べ始める。慌ただしく向きを変えた軍靴の痕跡を確認すると、彼は顔を上げて馬上から見下ろすゲオルクに報告した。
「団長、確かに帝国軍がいた痕跡はありますが、すでに国境の奥深くへ撤退した模様です」
その報告を聞き、ゲオルクは忌々しげに手綱を引いて鼻を鳴らした。
「また空振りか。足の速い連中だ」
ゲオルクは、すぐさま部隊にガレルッオ要塞都市への撤収を指示した。
ミレーヌの命を受け、新兵七千を含む二万七千の軍勢を率いる彼は、対ヴィスタ帝国の最前線であるガレルッオ要塞都市に本陣を構えていた。しかし、戦線は彼が最も忌み嫌う、奇妙な膠着状態に陥っていた。
ヴィスタ帝国軍は、二万程度の兵を国境越しに侵攻させてくる。だが、ゲオルクが精鋭の騎馬隊を率いて砂塵を巻き上げながら迎撃に出向くと、彼らは交戦を避け、潮が引くように即座に撤退してしまうのだ。
そして、一息つく間もなく異なるポイントから別の部隊が侵攻し、迎撃に向かえばまた退く。この影を追うような不毛なやり取りを、五月に入ってからすでに七回も繰り返していた。
要塞都市の執務室に戻ったゲオルクが、無精髭を擦りながら椅子にどかりと腰を下ろす。傍らに控えていたレジスが、冷えた水の入ったグラスを差し出した。
「団長、これで七回目ですよ。全く埒が明かないですね。帝国は本気で侵攻するつもりなのでしょうか?」
レジスの声には、徒労感と苛立ちが滲んでいた。彼も既に四回程出撃している。ゲオルクは水を喉を鳴らして飲み干すと、鋭い眼光を机上に広げられた広大な地図に向けた。
「情報庁からの報告はどうなってる?」
「密偵からの急報によれば、撤退した敵部隊は、国境に近い帝国の街で待機しているとのことです。その待機拠点は全部で十箇所。それぞれに二万弱の兵が分散して駐留しているようです。……いっそ、こちらから攻め込んで一つずつ潰していきますか?」
レジスの提案は、極めて自然な発想だった。細かく分散した敵を各個撃破するのは、戦術の定石である。しかし、ゲオルクは即座に首を横に振った。
「いや、攻め込めばその拠点の部隊はさらに奥へと撤退するだろう。そして……」
「そして?」
「俺たちが深追いした隙を突いて、他の拠点から一斉に侵攻してくるのさ。俺が敵将なら間違いなくそうする」
ゲオルクの淀みない戦術的推測に、レジスは息を呑んだ。
「……狡猾ですね。まるで俺たちの足をこの地に縫い留めるための、いやがらせでしょうか?」
「そのとおりだな」
「では拠点を潰していけば……」
「いや、こちらの兵力が足りない。せめて今の倍あれば、半数は防衛し、残りで拠点を叩いていけるのだが」
ゲオルクは腕を組み、天井を見上げた。
総兵力二十三万を誇るはずのヴィスタ帝国が、なぜ十個もの部隊を細かく編成し、わざわざ時差侵攻という面倒な真似をしているのか。ゲオルク軍を疲弊させ、ガレルッオに釘付けにする意図はなんだ。
(俺をここに釘付けにする意図……。単純に時間を稼げば、サデーナ騎士団領やフェラスレツ大公国といった他の国に美味しいところを取られるだけだが……あのマテウス二世は、面倒な同盟を主導しておきながら、この程度の牽制の成果で満足するような男じゃない)
点と点が、ゲオルクの脳内で不気味な線を結び始める。その目的はただ一つ。ゲオルクは、ハッと目を見開いた。
「やばいな。帝国の本当の狙いは、嬢ちゃんか……」
ゲオルクの唐突な言葉に、レジスが怪訝な顔をした。
「陛下を……ですか? しかし、大軍を動かさずにどうやって陛下を……あっ、まさか、アレを使うのですね」
「奴ら最近まったく使ってなかったから忘れてたが、絶対にそうだ」
「……助けに行きますか?」
事態の深刻さに青ざめたレジスが、声を潜めて問う。
「いや、今動くと、この戦線は完全に崩壊する」
ゲオルクは、机上の地図を力強く叩いた。
もしゲオルクがミレーヌを救うために王都へ軍を反転させれば、帝国は待ってましたとばかりに十の拠点から二十万の兵を雪崩れ込ませるだろう。そうなれば、クライナイン王国の東側領土は蹂躙され、終わりだ。彼にできるのは、このガレルッオ要塞で帝国の本軍を睨みつけ、一歩も退かずに釘付けにし続けることだけだった。
「では、どうします?」
レジスの問いかけに、ゲオルクは西の方角を見ながら言った。
「願うしかないな」
「願う?」
「そう、嬢ちゃんに幸運が備わっていることにな」
第168話 槍の矛先
初夏の陽光が、ヴィスタ帝国の荘厳な皇宮に降り注いでいる。皇帝マテウス二世は、謁見の間の玉座で不敵な笑みを浮かべていた。
磨き上げられた大理石の床に片膝をついているのは、帝国の機動力を象徴する騎馬軍団の長、リュディガー将軍である。歴戦の猛者らしい筋骨隆々とした体躯からは、隠しきれない戦意が立ち昇っていた。
マテウス二世は、肘掛けに顎を乗せたまま将軍たちを見下ろした。彼の瞳には、かつて自分をコケにした憎き女王を、ついに追い詰めたという確信が宿っていた。
「リュディガー。頼んだぞ」
「はっ!」
皇帝の命を受け、リュディガー将軍は顔を上げ、自信に満ちた精悍な笑みを浮かべた。
「我らが誇る一万の軽騎兵ならば、敵が誇る新型銃とやらが火を噴くより早く、圧倒的な速度で本陣を蹂躙してみせます。敵に装填の隙など与えません。必ずや、あの忌まわしき銀髪の魔女の首、陛下のもとへと持ち帰りましょう!」
銃の最大の弱点である「装填時間の長さ」を機動力で突く。それは、平原において最強と謳われる帝国軽騎兵ならではの、明確な戦術的勝算に基づいた言葉だった。
「うむ。任せたぞ。帝国の威信、存分に見せつけてこい」
皇帝が満足げに頷いたその傍らで、音もなく首を垂れている黒い影があった。帝国の軍服を纏い、顔の右半分を黒いレースのヴェールで覆い隠した女騎士である。風が微かに彼女のヴェールを揺らすと、焼けただれた凄惨な火傷の痕が覗き、同時に強い薬草の匂いが鼻を突く。彼女は、クライナイン王国の地理を熟知しているとして、自らリュディガー将軍の騎馬軍団への帯同を願い出ていた。
軽騎兵団の方針は、彼女が宰相ヘルベルトに示した策どおりであった。つまり、軽騎兵団がクライナイン王国に侵攻することをミレーヌが知れば、籠城するしか手はない。しかし、王都には、女騎士の手の者が多数潜伏しており、騎馬軍団が到着した絶好のタイミングで、東西南北すべての城門を内部から開け放つ手はずであった。
(すべては、計算通り……)
女騎士の左の瞳が、ヴェールの奥で剣呑な光を帯びる。彼女の胸の奥底では、決して消えることのない業火が、どす黒い怨念となって渦巻いていた。
(クライナイン王国で手ごわいのはジャックとゲオルクの二人のみ。しかし、あの女の周りにはいない。もう守る者など誰もいない)
女騎士は、無意識のうちに拳を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走るが、彼女の心を満たす狂気的な歓喜の前には些細なことだった。
(この手で、必ずあの女の首を獲る。私のすべてを奪い、焼き尽くしたあの銀髪の悪魔に、地獄の苦しみを与えてやる。絶対にだ)
「出陣するぞ」
リュディガー将軍の力強い声に促され、女騎士は静かに立ち上がった。音を立てずに部屋を後にする彼女の背中は、もはや一人の武人ではなく、復讐という妄念に取り憑かれた亡者のようであった。
◆◇◆◇
その日の午後。
ヴィスタ帝国の広大な練兵場から、地鳴りのような馬蹄の音が湧き起こった。
巻き上がる土埃の中、帝国が誇る精鋭、一万の軽騎兵軍団が風のように出立していく。彼らの陣容には、軍の遠征に不可欠なはずの軍事物資や食糧を積んだ馬車が一切存在しなかった。補給を完全に捨て去り、現地調達し、ただ目標を食い破るためだけに放たれた、狂気に満ちた部隊。太陽の光を反射して煌めく無数の槍先はミレーヌの首元へと一直線に向けられていた。
両翼をもがれた氷の女王ミレーヌは、かつてない最大の危機を迎えようとしていた。
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