第154話 報告書
重く沈んだ鉛色の雲が、王都クーロンヌ・ダルジャンを覆う冬の午後。王宮の執務室で、ミレーヌは淹れたての紅茶を口に運び、ふと美しい眉をひそめた。
視線の先には、玉座の傍らに直立不動で控える近衛将軍、フィデールの姿がある。彼が今日身にまとっている鎧は、普段の無骨な鉄のものとは異なり、鈍い銀色の光沢とやけに重厚な圧迫感を放っていた。
「その鎧、どうしたの?」
ミレーヌが冷ややかな声で問うと、フィデールは姿勢を正し、誇らしげに胸を張った。
「はっ! ホマン室長が新たに開発した『鋼』とかいう素材で作られた試作品でございます! ミレーヌ様を守るためには、このフィデール。何があっても倒れるわけにはいきません! 室長は私の熱意を感じ取っていただき、新たな鎧を……」
ミレーヌが左手を上げてフィデールの発言を遮る。そして、優雅に立ち上がると、カツ、カツ、とヒールの音を響かせてフィデールの目前まで歩み寄った。氷のように冷たく美しい顔を、彼の胸元の高さまで近づけて鎧の造りを観察し始める。
フワリと、甘いユリの香りが直接鼻腔をくすぐった。主君の吐息がかかりそうなほどの至近距離に、フィデールの心臓は早鐘のように激しく打ち始める。
ミレーヌは彼の緊張などお構いなしに、白く細い指先で新しい鋼の表面をツゥーと撫で、装甲の継ぎ目を確かめるように、コン、コン、と軽く叩いた。
指先が鎧に触れるたび、フィデールはタコのように真っ赤に染まった。息をするのすら忘れ、直立不動の巨大な肉体が、歓喜で微かにプルプルと震えている。
そんな近衛将軍の気持ちなど全く理解せずに、ミレーヌは語りかけた。
「こんな分厚い鎧、よく着てられるわね」
「いえいえ、滅相もございません! 前の鎧よりも遥かに薄くて硬いのです! 重さもたったの二十キロほどしかございませんので、まるで羽のように軽く感じます!」
満面の笑みで豪語するフィデールに、ミレーヌは小さくため息をついた。自分のような普通の人間にとって、二十キロの金属を身に纏って動くなど苦行でしかない。
「あなた……相変わらず、脳の造りまで筋肉みたいに凄いわね」
「身に余るお褒めの言葉、ありがとうございます!」
「褒めてないわよ」
ミレーヌが、完全に恍惚の人となって昇天しかけている近衛将軍を放置して、自席にもどった、まさにその時だった。重厚な扉が控えめにノックされ、情報庁長官のマリユスが入室してきた。
元商人である彼は、普段は飄々とした態度を崩さない男だが、今日の彼はどこか様子が違った。その顔には、隠しきれない濃い疲労と焦りの色が浮かんでいる。
「どうしたの? いつもとトーンが違うじゃない」
「……申し訳ございません、陛下」
マリユスは深く頭を下げ、重苦しい声で切り出した。
「ヴィスタ帝国の件ですが……帝都クヴァントの警戒が尋常ではありません。現に……すでに五名の密偵が、消息を絶ちました。これ以上深く潜れば、ヴィスタ帝国の諜報網が壊滅します。」
ミレーヌのアイスブルーの瞳が、僅かに細められた。
「先日、クヴァントの大通りにある商館に、各国の要人が極秘裏に集まったことまでは掴みましたが……密談の内容までは、どうしても探り切れませんでした。リナならば問題なく潜入できるかと思いますが……」
「わざわざリナを向かわせる必要はない。無理に探らなくてもいいわ」
ミレーヌは、感情を排した声で即答した。
「よろしいのでしょうか?」
「ええ。相手が何を企んでいるか、だいたい予想はついたから。それより、例の異邦人の女の件はどうなったの?」
ミレーヌが尋ねると、マリユスは懐から分厚い報告書を取り出した。
「はい、そちらは断片的な情報ですが、ある程度まとまりました。こちらが、その報告書でございます」
ミレーヌは報告書を受け取ると、静かに目を落とした。数枚の羊皮紙に書かれた文字を、すべてを見透かすような蒼い瞳が高速でなぞっていく。
室内には、暖炉の薪が爆ぜる音と、紙を捲る乾いた音だけが響いていた。息を呑んで見守るマリユスの前で、やがて全てを読み終えたミレーヌが、ゆっくりと顔を上げる。
「ありがとう。よく分かったわ」
「その報告書は、完璧ではありませんが……」
「これで十分よ」
ミレーヌは、悪魔のような笑みをマリユスに投げかけた。
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