100 落ちた先
轟々と、耳が千切れそうな寒風が吹きつける。
落ちている時の体感時間は異様に引き延ばされるというのは本当らしい──ハンスは変に感心しながら、何とか空中で態勢を整え、下を見た。
真っ暗闇かと思いきや、薄らと壁面の凹凸が見える。
ハンスが落下しているのは思ったよりずっと広い空間だった。落下中に壁にぶつかる心配はなさそうだが──如何せん、深さが全く見通せない。
《おいおいおい、どーなってるんだ!?》
コートの合わせが開き、モクレンがにゅっと顔を出した。
「落下中だ」
《は!? お前そんな初歩的なミスやらかしたのか!? ってか冷静すぎだ!》
「一周回ってってやつだな」
《回るな! 何とかしろ!》
「無理だろ」
空気は冷たく、四肢の先から凍り付くように身体が強張っていく。落下の恐怖だけではないその変化は、恐らく高純度の水の魔素のせいだろう。
《悟りすぎだってオッサン! ──水球!》
「オッサ──ゴボボッ!?」
反射的に言い返そうとした次の瞬間、ハンスはドボンと水の中に落ちていた。
不思議と冷たくはない。が──
「ぶわっ!?」
水の中に居たのは一瞬。
再び空中に放り出され、ハンスは間抜けな悲鳴を上げる。
「寒っ!?」
見上げた先、頭上に一抱え以上ありそうな巨大な水球が浮かんでいるのが見えた。それが幻のように消えたと思ったら、
《水球!》
再び足元に出現した水の中に突っ込む。
(その手があったか…!)
ハンスは内心で唸った。
水球──空中に水の塊を出現させる魔法である。
初歩的な魔法ではあるが、落下中に、自分たちの真下に瞬間的に出現させるとなると、その難易度は途端に跳ね上がる。それを軽々とやってのけるのは、繊細な制御能力を持つケットシーならではだろう。
空中に出現させた水球に自分たちを受け止めさせてその速度を緩和しながら、モクレンとハンスは下へ下へと落ちて行く。
そうして、5回目の水球から抜け出た直後──
「…っ!?」
──バシャン!!
モクレンの魔法が発動するより速く、今度は完全に予想外のタイミングで、ハンスたちは水の中に落下した。
魔法の水球とは違う、凍っていないのが不思議なほどの冷たさに息が詰まる。
全身を強張らせるハンスの視界の端を、クリーム色の影が横切った。
(モクレン…!)
落下の衝撃で、コートの中から飛び出したらしい。
魔力を使い果たしたのか、それともこの冷たさに耐えられなかったのか、モクレンは完全に脱力している。
ほとんど感覚を失った手足を無理矢理動かし、ハンスはモクレンを掴んで水面へと押し上げた。
「…っは!」
ついでに自分も一瞬水面に顔を出し、何とか息を吸う。が、息を吸えている実感が全くないし、水を吸って重くなった真冬の装備と極寒の冷たさが、それ以上の身動きを許してくれない。
モクレンの頭を水面より上に出し、半ば水没した状態での立ち泳ぎで苦し紛れの息継ぎをしながら、ハンスは必死に周囲を見渡した。
(岸はどっちだ…!?)
そもそも『岸』と呼べる地形があるかどうかも怪しいが。
嫌な想像が頭に浮かんだ、瞬間──
《──騒がしいな》
重々しい念話が響き、ハンスとモクレンの身体が浮かび上がった。
「え…」
呻いている間にフワフワと移動し、硬い岩の上にすとんと着地する。
途端に水浸しのコートの重さが全身にかかり、ハンスはその場にへたり込んだ。
冷たい。寒い。だが何よりも──
(…息が…!?)
ゼッ、ゼッ、と喉が不自然な音を立てる。
吸っても吐いても空気が動いている感じがしない。
霞んだ視界の先、地面に倒れ伏すモクレンもピクピク動いてはいるが、意識を取り戻した感じはなかった。やはり、呼吸ができていないように思える。
(やばい…!)
暗くなりかけた視界に、モクレンのクリーム色の被毛だけが浮かび上がって見えた。
「モ、ク…」
《──ふむ。ケットシーと人間にはつらいか。致し方あるまい》
再度、念話が響き──
──バン!
「ぐっ!?」
胸元に強烈な衝撃を受け、ハンスはその場にもんどりうって倒れた。
鎖骨の下あたりに、氷を直接押し当てられたような冷たさと何かが侵食してくるような猛烈な痛み。
全身から脂汗が吹き出し、ハンスは反射的に丸まって息を詰める。
──数秒後、その痛みは唐突に消えた。
「…?」
思い切り眉を寄せて、ハンスは上体を起こした。
水を吸った装備は相変わらずひどく重いし、全身が濡れそぼってひどく冷たい。
だが、
「…息ができる…?」
地上で溺れているような息苦しさが嘘だったように、普通に息が吸えた。
ハンスが首を傾げていると、ゲホッと咳き込む小さな音が響く。
「モクレン!」
《…うえっ、なんだ、ポワッとすんな…?》
ひとしきり咳き込んだ後、モクレンはゆっくりと起き上がった。
ふらふらと頭を揺らした後、おもむろにハンスに近付き、全身をぶるっと震わせて──
「…っだー! 飛沫を飛ばすな!」
《なんだよ、ケットシーの条件反射だろ、文句言うな》
「お前絶対わざとだろ…!?」
でなければわざわざ近付いて来てからやる理由がない。
ハンスが睨み付けると、濡れそぼったままのモクレンはあからさまな誤魔化し笑いを浮かべた。
《まーまーまー、細かいことは気にすんなって。──ホレ!》
ブワッと風が渦巻き、モクレンとハンスを包み込む。
ハンスが目を見張っている間に、暖かな空気に包まれて髪も肌も服もあっさりと乾いていった。
「うおお…」
《まっ、俺にかかればこんなもんよ!》
全身だけでなく、ハンスとモクレンがへたり込んでいた地面まで乾いている。
胸を張ったモクレンが、明かり魔法を浮かべた。
それまで何となくシルエットが見えるかどうかという暗さだったが、ようやく周囲の状況が掴めるように──
「……うん? モクレン、お前いつからハゲたんだ?」
《ハゲっ…!?》
「胸元、ハゲてんぞ」
ハンスが指摘すると、モクレンは慌てて身体を見下ろす。
クリーム色一色だったはずのモッフモフの胸毛の中央に、人間の親指の爪くらいの大きさのへこみがあった。
それを目視したモクレンが、愕然と目を見開く。
《お、俺の自慢のモフ毛が…!! ハンス、一体何した──って…》
完全にハンスのせいだと言わんばかりの態度でハンスを振り仰ぐ途中で、モクレンの口があんぐりと開いた。
《…ハンス、なんだそれ》
「は?」
《胸元。なんか生えてんぞ》
「生え…? ──なんだこれ!?」
先刻のモクレンと同様、自身の胸元を見下ろし、ハンスは思わず叫ぶ。
モクレンが飛び出したことで、はだけたままだった胸元──鎖骨の少し下あたりに、透明感のある薄水色の結晶のようなものがめり込んでいた。
祝・100話突破!
えー、一応もう後半…ではあるのですが、まだまだ続きます。
よろしければ、お付き合いくださいませ。
 




