猫がいる家 4
真夜中、私はリビングのソファの上で目を覚ました。冷たい空気に身体がぶるりと震える。
どうしてソファで寝ていたのかとちらりと見れば、向かいのソファには美作が横になっていた。間に挟んで置いてあるテーブルの上には宅配ピザの空き箱が二つ並べておいたあった。さらにはワインであったり、ビールの空き缶であったりが転がっている。
どうやら、美作に言われるままにピザが頼まれて、それに合わせて酒盛りが始まったらしい。
アルコールが残った頭でそんな事を考えながら、空き箱を眺める。
猫についてはある程度の納得が出来た。最初に見た猫と、二度目に見た猫が違うのは当然でそれについては納得が出来た。何とも通気性が良く、防犯性と気密性に乏しい家だ。もしかすると、極寒の冬が来たら、京都の底冷えの冬が来たならば、ここの家の中は外とそう変わらないのではないかという不安であった。
事実として、リビングのソファの上で寝ていると少し冷える。が、このまま、眠ってしまうことにした。風邪をひくほどに寒いとは思えなかったのと、わざわざベッドまで移動して眠るのもまどろっこしいと感じたからだ。
目を瞑ると家の中の静寂が感じられる。
物音ひとつしない、閑静な住宅地の静けさだけを感じる。
キュッ……ズルッ……
そんな音が聞こえて、私は目を閉じたままに、意識が醒めた。
不釣り合いな音。
少なくとも私の家でそんな音が鳴るようなものはない。となると、可能性としてあるのは二つだ。何かしらが入り込んできた。もっと言うと、例えば猫だ。引きずるようなほどに太った猫が入ってきた。もう一つの可能性は、完全な勘違いだ。寝ぼけた人が聞き間違えたのさ、という具合である。
きっと後者に違いない。
そう思い、私は深く息を吐き出して眠りに落ちようとした。
ズル……ッチャ……
どうやら、後者ではないらしい。
間違いなく、確実に耳で聞こえた。脳で聴こえた。
私は目を瞑ったままに、努めて冷静を保った。聞き間違いでないのであれば、前者の猫であろう。体を引きずるほどに太った猫が入り込んできたのであろう。フローリングの床に爪が触れた音がしたのが、間違いない証拠でもある。
そう思い込むように、強く目を瞑ったままである。
音はリビングの外、廊下から聞えて来たような気がする。
眼を開けて一度でも、その太った猫を見てしまえばいいものの、どこか見る事ができない。
綺麗すぎる家、キャットドア、キャットウォーク、天井裏、猫の餌。
全てに無理矢理と理由をつけて納得はしてみたものの、納得しきれていない部分が私の意識の中にあるのであった。だからこそ、私は意識が妙に醒めてしまうのであった。あれやこれやと頭の中で不安が、意識を覚醒へともっていく。
それにともなって
キュッ……ズルッ……キュッ……ッチャ……
と、音はどんどんと近づいてく。
いつしか、その音はリビングへと入り込んできている様子であった。
眼を開ければすべてが解決する。
そんな気持ちが胸の中に湧き上がる。
しかし、眼を開けて、そこにいるのが、猫、でなかったのならば。
その現実を直視しなくてはいけないという恐怖が、私の目をぐっと硬く閉じさせた。
音が、私の頭のすぐ上を通りすぎる。
キュッ……ズルッ……キュッ……ッチャ……ズルュッ……
大きい。
目を瞑っていてもわかる。かなりの大きさである。家猫の大きさではない。例えていうならば、ライオンのそれだ。大きすぎる。リビングの空気がその大きさによって動くのを感じる。が、驚いたのは臭いが何もしない事だ。
確かにそこにいるはずであるのに臭いがしない。
自然に見えるように呼吸を整え、起きているのが、意識があるのがわからないように努める。
ズル……ペチャ……クチャ……ズルリ……
音がちょうどテーブルの辺りで止まり、そんな風に音を立て始めた。
テーブルの上に残ったピザを食べているのだ、とすぐにピンとくる。
ならば、集中はそちらに向いているはずで、薄らと目を開けてみてもいいだろう。
そう自らを勇気づけて、うすらと目を開ける。
言葉を失った。
そこにいたのは、猫ではない。
人のような何か。
白髪が腰どころか足の辺りまで伸びており、それが床に擦れて音を立てていたのであろう。手足の指も同じく伸びきっており、それがフローリングにふれてカチャカチャと音を立てているのだ。そして、犬食いとでもいうように、顔をピザの残りへと近づけて、手を使わずに顔だけで食べていた。
私は反射的に目を閉じた。
見た者が信じられないというのが正解だ。だから、目を閉じたのだ。しかし、耳に聞こえてくる。音はまだ、そこに居るのが間違いないというのを雄弁に伝えてくる。
一体、あの生き物は何なんだ。
頭の中で動物の図鑑を思い出してパラパラとめくるがこれといった生物が、思い浮かばない。強いていうならば、まさしく、動物園でもっともよく見る生き物、ヒトくらいなものである。だが、ヒトがどこから入り込んだというのか。
ふと、気が付くと咀嚼音が止んでいた。
息遣いがする。
間違いなくそこにいるのだ。
こちらへと顔を向けている。間違いない。今、私の顔を覗き込んでいる。髪の毛が私の顔に触れて、鼻息が私の眉に、頬に吹きかけられる。ピザの匂いがする。さらに言うと、ビールやワインの混ざったような臭いもする。眉を自然と顰めてしまうが、眠り込んでいると思い込んでくれと願った。
鼻息が遠のく。
私は薄めを開けて、気配が何をしているのかを目で追った。
それは、美作にも同じように顔を覗き込んでいるのだ。ソファの上に覆いかぶさるように、鼻息がかかるように顔を近づけて、それこそ、長い白髪に隠れて見えていないが、鼻先が美作の顔に触れてしまうのではないかと思うほどに近づけているのだ。
悲鳴を堪える。
そう簡単な事ではない。
しかし、そうしなければ、この得体の知れない何かに耐えなければならない。
と、その時、美作が寝返り打った。
「うぅ……」
ソファの上で寝ているというのもあり、美作がソファからリビングの床へと落ちる。
その瞬間、それはばっと飛び上がると、リビングの壁に設けられたキャットウォークにしがみついた。そして、目にもとまらぬ速さで、キャットウォークを伝い、壁にあるキャットドアへと滑り込んでいく。
ありえない。
キャットドアの大きさは、とても人が入れる大きさではないのだ。
しかし、それは器用に押し込むように、液体か何かのようにキャットドアの向こうへと消えていった。
しばらくの静寂、キャットドアが揺れる音だけが聞こえる。
私は体をのそりと起こすと、深く息を吸い込んだ。
間違いない。
猫は確かに野良猫は入り込んでいたのだ。だが、特に粗相をしなかったのは、壁を傷つけたりしなかったのは、アレがいるからだ。この家は、アレの縄張りなのだ。領域なのだ。だから、長居はせずに爪とぎや何やらは出来ずに一時しか過ごしていないのだ。
全てが明らかになって、安心し、息を吐き出す。
キィ……
キャットドアが開いた音がした。
反射的に振り向くと、暗闇の中、キャットドアの暗闇の中。
目がこちらを向いていた。