059 血脈に広がる毒 ⑦
「……う、ぐう……っ」
地下深域に佇む静寂な石室の中で、ガウルの押し殺した低い呻き声が、濡れた石畳に吸い込まれていくように重く響いていた。
「最高だぜ、おっさん。 久しぶりにこんなに遊び甲斐のあるガタイに出会えたってもんだ」
ガウルの鮮血で黒ずみ、べっとりと塗れた革鞭を無造作に地面へ放り投げると、男は心底満足しきった下衆な笑みを浮かべ、ガウルの頬をペチペチと軽薄に叩く。
長時間の責め苦によって男の嗜虐心を満足させられたガウルの広大な背中は、自らの血で赤黒く染め上げられていた。背筋を伝い、着古した頑丈なズボンを濡らして流れ落ちた血が、石畳の隙間にじわりじわりと重い血溜まりを広げている。
「ヒヒっ、全身汗と血まみれできったねえ。匂いもますます親父くせえぞ、おっさん」
男はガウルの顎を乱暴に掴み上げ、再び不快そうに顔を顰めながら首筋に鼻を近づけた。匂いを確かめるように深く息を吸うと、吐き捨てるように侮蔑の言葉を浴びせかける。
「貴様……」
「ほお? こんだけ痛めつけてやったってのに、まだそんな目ができるたあ元気がいいじゃねえか」
男の言葉通り、ガウルの瞳から戦士の光は微塵も失われていなかった。全身から血を絞られながらも、身体から脱力してぐったりと屈服する様子など欠片もない。
元より、二十年という途方もない歳月を、死と隣り合わせの流れの傭兵として生き抜いてきた男なのだ。身体に大きな傷こそ無いものの、修羅場や苛烈な拷問の経験など一度や二度ではなかった。
そして何よりも、この薄汚い男に歳を揶揄され続けたことによって、ガウルの胸中にはすでにマグマのような激しい怒りの炎が絶え間なく煮えたぎっていたのだった。
「ほら見ろよ。お前が良い声で鳴いてる間に、たっぷり搾り取った血が小瓶に満杯だ」
男の手で無理やり顔を向けさせられた視線の先――そこには、刺し込まれた魔術線を通じて精製された、ガウルの濃密な血で満たされた硝子瓶が二つ置かれていた。
我ながら、ここまで血を抜かれて気を失わないとは、つくづく頑丈な身体に生まれたものだ。ガウルは暗い情熱を滾らせながら、胸の内で己のタフさにどこか感心していた。
「買い付けた時には、こんな無駄な筋肉ダルマをどう使ってやろうか悩んだもんだが……ここ最近じゃあ一番の上物だったぜ。こんだけ楽しませてくれたんだ、褒美をやらなきゃな」
「何を……っ、あ、ぐう……っ!」
男が蛇のように不快な手つきでガウルの喉元を撫で回したかと思うと、おもむろに、鞭打ちによって未だ鮮血の噴き出す真っ赤な背中へ、乱暴にバシンと手を叩きつけた。
直後、男の手のひらが微かに淡い光を放ち、ガウルの痛めつけられた背中の裂傷が、じくじくと不快な音を立てながらゆっくりと塞がり始めていく。
「どうだ? 傷が塞がっていく感触はよ? これから何日もたっぷり痛めつけて楽しむんだ、簡単にくたばられてちゃ困るからな。それに、常に叩き甲斐のある元気な身体でいてもらわなきゃ困る」
「ぐ……うあぁっ……!」
傷口を捏ね繰り回すような男の手に、ガウルの口から不覚にも苦悶の呻きが漏れ出た。
傷が無理やり癒えていく不快感も耐え難い。普段からアルスの精妙で温かな治癒術を受け慣れているガウルにとって、使い手が違えばこれほどまでに不快で粗悪なものに成り果てるのかと、苛立ちを深めずにはいられなかった。
(……そろそろ、引き際だな)
肉体が激痛に反応して呻き声を上げてしまうのとは裏腹に、ガウルの思考は氷水のように冷たく冴え渡っていた。
天井の拘束具から吊るされた腕に意識を向け、残された筋力を確認する。鎖の強度も、本気を出せば逃れるのに問題はなさそうだった。これ以上無駄に血を流され、この下衆な男の戯れに体力を奪われ続ければ、文字通り鎖に繋がれたまま死に絶える犬になりかねない。囮としての時間稼ぎも、二人がここへ辿り着くには十分すぎるほど果たしたはずだ。
「よおし、こんなもんだな! 綺麗に元通りだ。くたばるまでたっぷり可愛がってやるぜ、おっさん。勿論、血も限界まで貰ってやる。……最後に何か遺言はあるか? 喋る元気があるうちに聞いてやってもいいぞ」
「……ここには……お前以外に、誰か……いるのか?」
「いや、今は俺しかいねえよ。心配しなくても、遊んでくれる仲間は後から腐るほどやってくるさ。まあ俺としては、テメエの背中を鞭打つ快感は独り占めしたいところだがな」
「……そうか。それだけ聞ければ……十分だ」
ガウルは低く吐き捨てると、奥歯が砕けんばかりに食いしばり、全身の筋肉を鋼のように強張らせた。そして両腕へ、持てる全腕力を一気に叩き込む。
腕を貫いていた魔術線が耐えがたい激痛となって肉を削いだが、ガウルはそんな痛覚など知ったことかとばかりに、限界を超えた筋力を爆発させた。
重戦士を拘束していた極太の鉄鎖が、悲鳴のようなけたたましい硬音を響かせ、まるで腐った縄を千切るかのようにあっけなく粉々に破断した。飛び散った鎖の破片が、硬い石畳の上へ雨のように降り注ぐ。
「な……っ!あ、ありえねえだろテメエ!! 一体……っ」
狼狽する男が叫び終えるより早く、拘束から解き放たれた重戦士は、その丸太のような剛腕を豪快に振り抜き、男の顔面を真っ向から打ち抜いた。
砲弾のように吹き飛んだ男は石室の頑丈な壁面へ激突し、骨の砕ける音とともに一瞬で意識を手放して崩れ落ちた。その衝撃で木製の棚が瓦解し、男の体の上に空のガラス瓶がガラガラと虚しく降り注ぐ。
「……次は拘束具にも、もっと金をかけることだな。もう聴こえてないだろうが」
気絶した男を見下ろし、ガウルは「ふぅ……」と長く重い息を吐き出した。
拳を叩き込んだ瞬間、胸の内で煮えたぎっていたマグマのような怒りは幾分か晴れたものの、あまりにも手応えのない相手だったことに、どこか不完全燃焼な思いも残った。
「……こんな下衆の戯れ言など、気にしても仕方がないな。……まずは、こいつを引き抜くか」
ガウルは転がっていたナイフを拾い上げようと一歩踏み出すが、微かに膝が揺れた。どうやら囮としての演技に粘りすぎ、少々血を流しすぎてしまったらしい。
己の無謀さに苦笑を漏らしながら、両腕を痛々しく貫く魔術線の根本をナイフで断ち切ると、残った線を素手で固く掴み取る。
一瞬、魔導の線を直接素手で触ってよかったものかと、己の無頓着さに身を硬くしたが、幸いにして魔道具の動力から遮断された線はただの鉄線と化していた。こんな初歩的な判断すら鈍るほど血を流してしまったか、と深く自戒する。
「……う、ぐ……っ。んん……っ!!」
低く絞り出すような呻き声を漏らしながら、ガウルは腕の肉を裂いて魔力線を力任せに引き抜いた。
かつて数多の戦場を渡り歩いたガウルだったが、戦いの高揚感が引き去った後の「怪我の処置」だけはどうにも苦手だった。突き刺さった弓矢を抜く際も、痛みに声を我慢できぬ自分を、昔から情けないと感じていたものだ。
「これで、いい……。流石に、少々堪えたな」
抜き取った二本の鉄線を床へ投げ捨て、ガウルは大きく肩で息を吐きながら、冷たい壁にそっと背を預けた。
背中が壁に触れた瞬間、ズキリとした嫌な痛みが全身へと走る。あの男の法術は、傷口を塞ぐだけで内部の損耗を癒やさぬ粗悪極まりない代物だったらしい。
ガウルはしばらくそのまま胸を上下させ、乱れた呼吸と体調を落ち着かせることに専念した。
(……あいつらは、上手くいっただろうか……)
頼もしい二人の顔が脳裏に浮かぶ。
その時、地下道の遠く奥深い方角から、微かに空間を揺らすような『爆発音』が響いて届いた気がした。なんだ、やはり心配するまでもなかったな。ガウルは満足そうに、その無骨な口角を上げるのだった。
◇
「何者だ」
ジグが放った豪快な爆炎が地面を荒々しく焦がし、爆風とともに黒煙が立ち込める中、うろたえる魔術師たちの中心で、リーダー格と思われる男一人だけが動じることなく低い声を上げた。
「お前らに名乗るような大層な名前は持ってねえよ。逆に、色々問い詰めたいのはこっちなんだ。ここでコソコソやってる不気味な儀式は、一体誰の指図だ?」
晴れゆく煙の暗がりの中から、堂々とした足取りで姿を現しながらジグが言った。
彼が叩き込んだ爆炎の衝撃によって地面の石畳は大きく削り取られ、刻まれていた悪趣味な魔方陣は完全に効力を失っていた。この閉ざされた空間に集積されていた異常なエーテルが一気に解放されたためか、うだるような熱気は徐々に解消されつつある。
炎の残光に照らされた地面を見やれば、やはりジグの予測通りだった。
魔王の血と呼ばれていたあの禍々しい黒い液体が、魔方陣の中心に不気味な水たまりを作って広がっている。そしてその傍らには、犠牲者から抜いた血が入っていたであろう硝子瓶の破片も転がっていた。
以前推測を立てた通り――魔王の血と人間の生血を混ぜ合わせ、そこに大気中のエーテルを限界まで注ぎ込み、死霊術の理で凝固させるという賢者の石の製法で間違いないらしい。
「ううむ……。問答無用でいきなり爆破させてますぜ、あの人……」
「すみません、ヴァルターさん。ジグにとってはいつもの事なんです」
遅れて追いついてきたヴァルターが、物陰から呆れたように呟く。
そしてジグの思い切りが良すぎる破天荒な行動を「いつものこと」として何事もなく受け入れてしまうアルスに対しても、ヴァルターはどこか底知れぬ凄みを感じざるを得なかった。
「なるほど……貴様ら、あの男に雇われてきた始末屋か」
「あの男? どいつの事を言ってるのか、さっぱり分からねえな」
「クヒヒ……そうか! やはりあの男、全ての手柄と成果を独り占めするつもりでいたか。魔術師でもないくせに、我らを差し置いて一目置かれているだけでも気に入らんというのに」
男は勝手に一人で合点がいったかのように、口元を歪めて不気味に嘲笑した。
周囲に控える黒衣の魔術師たちもまた、ジグたちへ向けて一斉に強い警戒と敵意の網を張り巡らせていく。
「……おいおい、お前たちは人の話を聞くって頭が無いのか?」
「ジグ、おそらく彼らにはもう、こちらの言葉は届いていません。狂気に呑まれ、現実を正確に認識できているかも怪しい状態です」
「だったら最初から電撃で全員気絶させりゃ良かったな。尋問なんて性に合わねえ真似をするんじゃなかった」
ジグの隣へ駆け寄りながら、アルスが短く告げた。
この魔術師たちから放射される異質な雰囲気。そして、何かに取り憑かれ魅入られたかのように狂気の光を放つ瞳。これが――禁忌たる賢者の石の魔術書に取りつかれ、正気を失った者たちの哀れな末路なのだろうかとアルスは痛切に思う。
エーテルが狂乱するこの異様な空間では、精霊たちの清らかな声もとうの昔に遮断されて聞こえなくなっていた。
「だがな……貴様らは少々遅かったようだ。今まさに、ここに賢者の石は我らの祈りと呼び声に応えて姿を現したのだからな! 選ばれるのはあの男ではない……我らなのだ!!」
「選ばれる……。なるほど、他にもいるということですね」
「本命の実験が失敗した時のために、捨て駒の予備を沢山用意してあるってやつか。ご丁寧なこったな」
「あの男が本命なものか!我らが……我こそが、かの大いなる力を引き継ぐにふさわしい選ばれし存在だ!!」
リーダー格の魔術師が叫ぶと、狂乱の面持ちのまま、足元に広がるあの漆黒の液体の中へと自らの手を躊躇なく沈め込んだ。
石畳を突き抜け、どこまでも深淵へ沈んでいくかと思われた男の手は、底の闇の中で「何か」を確かに掴み取り、そして重々しく引き上げられる。
――ズズ……ッ。
粘つきまとわりつく真っ黒な液体の中から現れたその手には、赤黒く禍々しい光を放つ歪な結晶が握られていた。
まるでたった今、この世に誕生したばかりのような生命の鼓動すら感じさせるというのに――同時に、触れる者全ての正気を狂わせるような凄惨な邪気が解き放たれる。
「……大丈夫なんすか、あれ?」
「大丈夫じゃ……ねえかもなあ。ほらよ」
ジグは短く吐き捨てると、腰から短剣を抜き、そのままヴァルターの両腕を縛っていた頑丈な縄を一閃で切り裂いた。
「っと……! い、いいんですかい?」
「ここから先はハッキリ言って戦いになっちまうからな。巻き込まれたくねえならサッサと地上へ逃げな。……結局お前がどういう身分の奴かは知らねえが、ここで見たものを悪用しようなんて絶対に思うなよ。平穏に生きていたかったらな」
「そいつは……勿論っすよ。俺ァこんな変なもんに取りつかれるなんて、真っ平ごめんでさあ」
「下がっていてください、ヴァルターさん。……来ますよ、ジグ」
縄を解かれたヴァルターだったが、すぐには逃げ出さず、その場にとどまったまま眼前の異様な光景をじっと見つめていた。
無論、帝国の特務としての任務のためでもある。……だがそれ以上に、見ず知らずの自分を気遣って逃げろと言ってくれた二人を置いて自分だけ逃げ出すのは、彼自身の流儀に反する人情というものだった。
「……っ!? お待ちを! まだそれは結晶化したばかりで安定して――」
「神の宝玉! 神の眼! その代替である我が賢者の石よ! 受け取り給え、闇を撒くものよ! 大いなる力よ、我がもとに――!!」
恐怖した仲間の魔術師の制止すら振り切り、男は赤黒い結晶を天高く掲げると、狂信の誓いとともに一切の迷いもなく素手で強く握りつぶした!
――バリンッ!!
男の手の中で破砕された賢者の石から、もはや黒紫色の瘴気とも呼ぶべき濃密な不浄の気が噴出し、渦を巻いて男の全身を包み込んでいく。
瘴気の嵐の中から、男の絶叫が地下石室に響き渡る。……それが至高の歓喜によるものか、あるいは肉体を破壊される断末魔の叫びなのか、ジグたちには判断がつかなかった。おそらく、残された仲間の魔術師たちにすら。
「なるほど……こりゃあ……。姫様に報告するには、少々刺激が強すぎるお土産かもしれないっすねえ……」
魔術を構えて戦闘態勢を取るジグとアルスの背後で、ヴァルターは冷や汗を流しながらどこか感心したような声を漏らした。
瘴気が霧散したその場に現れたのは――もはや人間の原型を留めていない異形の怪物だった。
二本足で屹立し、地面に這うほどに異常に引き伸ばされた長大な双腕。そして、頭部から腰にかけて生えた、禍々しくうねる漆黒の角。
正気を捨てて力を求めた魔術師の果て――『異形の肉塊』が、赤く濡れた瞳をジグたちに向けて狂暴に咆哮した。
◇
「ん~~~! っと」
石畳の通りを行き交う人々をさりげなく監視しながら、エレナが凝り固まった肩をほぐすように両腕を伸ばして大きく伸びをした。
「動かずに同じ場所で待機し続けるのも、中々骨が折れるものよね。……はい、冷たい飲み物よ」
「わあ、ありがとうございます、ヴァレリアさん。待つのも大事なお仕事……とは分かっていても、流石にずっと突っ立ってると身体が固まっちゃって。私達も、ジグさん達の突入に同行出来たらよかったのになあ」
「ふふ、私達が一緒について行ったら、目立って仕方がないもの。彼から『合図があるまで上で待機していてくれ』と頼まれたからには、きっちり待たないとね」
ヴァレリアから硝子瓶の飲み物を受け取りながら、エレナがちょっぴり残念そうに唇を尖らせる。
宿でジグやアルスが作戦へと繰り出すのを見送った後、二人は街の北東地区へと移動していた。ジグたちが潜入したと思われる地下への入り口がある区画は、ここから目と鼻の先の距離だ。周囲に怪しまれぬよう、街の治安警護についている体裁を装いながら、先ほどからこの大通りに常駐していたのだった。
「でも、ジグさんの言う合図って一体どんなものなんでしょうね? とにかくデカい音を出す、とは言ってましたけど……」
「まあ、彼の事ですもの。大体どんな合図になるか、予想はつくわ」
エレナは手元の飲み物を一口含む。
乾いた喉を通り抜ける冷たい感触が、たまらなく心地よい。そういえば、先ほどまで肌を焼き焦がすようだったうだるような熱気が、ここへ来て僅かに和らいだように感じられた。異常気象がようやく正常に戻りつつあるのだろうか。肌を撫でる夜風も、昨日までの嫌な熱風と違ってひんやりと心地よく感じられる。
「エレナ殿、それにヴァレリア殿。こんな所におられましたか」
「レオンハルト様?」
背後から不意にかけられた重厚な声に二人が振り返ると、そこには端正な武官服をまとったレオンハルトが立っていた。
「もう代表会議は終えられたのですか?」
「ええ、無論ですとも。カシム殿は熱心にもその後の諸侯会食にも参加されておられますがね。私は少しばかり教会堂に立ち寄って祈りを捧げておこうかと思い、一足先に出てきたところでしてな」
レオンハルトは言いながら、満足そうに堂々と腕を組んだ。どうやら既に礼拝は済ませてきたらしい。実利と欲望が渦巻く連合国の諸侯にしては珍しく、信心深いタイプの人物だ。
「教会ですか……私はあまり行ったことが無いですね。なんだか敷居が高く感じてしまって」
「ははは。何、敷居など高くはありませんぞ。一度訪れてみると良い。そうそう、今日の司祭はいつにも増して機嫌が良く、穏やかな顔をしておられましたな。何でも、匿名で多額の寄付金が教会に納められたとかで」
「多額の寄付金……! 凄いですね。見知らぬ誰かのためにそこまで気前よく大金を出せるなんて、きっと素晴らしい人格者なんでしょうね」
実際には、それはジグがガウルを悪徳商人に売り飛ばして得た、触るのも憚られる曰く付きの金そのものなのだが。
何も知らない人々にとっては、美談以外の何物でもない。まさに『知らぬが仏』というやつであった。
「それで、レオンハルト様は、一体何故このような場所へ?」
ヴァレリアが自然な仕草で尋ねた。いくら退屈な会食から抜け出してきたとはいえ、大貴族であり有力諸侯である彼がこのような下町の裏通りにふらりと現れるのは異例だ。よく見れば、彼の背後の物陰には鍛え上げられた護衛の精鋭たちが数人、抜かりなく控えていた。
「カシム殿に協力し、この街で悪だくみを企てる不届き者を、共に一網打尽にしようという約定ですからな。微力ながら、私もお二方のもとへ直接駆け付けた次第です」
「まあ、そうだったのですか。……とは言いましても、私達は突入の合図があるまでここで待機する手筈なのですが」
「先行して地下へ潜入してくださっている方々がいるので、今はその人達からの連絡を待っているところなんです」
エレナとヴァレリアがそれぞれ説明する。
それにしても、貴族の気品と百戦錬磨の武人の覇気を兼ね備えたこの偉丈夫は、とにかく街中で目立ちすぎる。見れば、周囲を歩く一般市民たちも物珍しそうにこちらへ視線を注いでいた。ジグたちはとっくに地下へ潜入済みとはいえ、これほど目立つ援軍を連れていて大丈夫なのだろうかと、二人は少しばかり気揉みしてしまう。
「フム……流れの傭兵でありながら、危難を顧みず我らに協力を申し出てくれたという見上げた義士たちか。一度直に相見え、願わくば一手ご指南……いや、手合わせをお願いしたい所であるな」
「手合わせ、ですか……。レオンハルト様のお相手なら、恐らくガウルさんという方がちょうど良さそうですが」
「ほう、ガウル殿と」
「ええ。身の丈ほどもある無骨な大剣を片手で軽々と振り回す豪傑なんですよ。身体も岩山のように大きいですから、一度見掛けたら絶対に忘れません」
「ほうほう、それは是非とも会ってみるのが楽しみであるな! 近頃はこの首都で開かれる武闘会も近い。大陸中から名うての戦士が集まってきていて、見ていると私も若かりし頃の血が騒いでしまう」
そういえば――レオンハルトは若かりし頃、かの有名な御前武闘会で圧倒的な実力を見せつけて優勝した経歴の持ち主ではなかったか。
ヴァレリアがかつて人づてに聞いた武勇伝を頭の中で思い出そうとしていた、その時だった。
――ドゴォォォン……ッ!
遠くの地底深くから、空気を微かに震わせる鈍い爆発の振動音が、足裏の石畳を通じて伝わってきた。
音の感触からして、間違いなくこの真下の地下からだ。
通りを行き交う市民たちも「何だ今の音は?」「地震か……?」と口々にざわめき始める。
その間にも、二度目のさらに大きな地響きが足元を突き上げてきた。
「ヴァレリアさん、これって多分……!」
「ええ……。間違いなく、彼らしい派手な合図だわ」
「なるほど! 先に潜入を果たし、交戦の轟音が響いた瞬間を合図として突入せよ、というわけか! ハハハ、中々どうして、骨のある荒武者たちらしい豪快な策ではないか」
エレナとヴァレリアがジグたちのもとへ急行すべく手早く武器の点検を済ませる傍らで、レオンハルトもまた背後の精鋭部隊へ向けて力強く突入の合図を送る。
「では、急ぎましょう。レオンハルト様も、どうかご無理はなさらないように」
「なんのこれしき。 街の闇に巣食うネズミどもに遅れを取るほど、私はまだ耄碌しておらぬつもりだ」
豪快に笑い飛ばすレオンハルトの屈強な背中を見つめ、ヴァレリアは、この御方に関しては、余計な心配など一切無用ねと頼もしく思った。
これほどの手練れが率いる部隊が介入してくれれば、地下に潜む狂信者や悪徳商人たちを残らず捕縛することなど容易いだろう。
「わあ」
突然、隣でエレナが驚いたような声を漏らした。
「どうしたの、エレナ?」
「ジグさんが預けていってくれたこの鳥の幻獣。突入の合図と共に自動で飛ぶように術を組んであるって言ってましたけど、本当に動き出しましたよ」
見れば、エレナの手のひらからふわりと飛び立った青白く光る小鳥が、まるで生きているかのように羽ばたき、三人の頭上を円を描いて舞っていた。
ジグは一見すると無骨な前衛戦士にしか見えないというのに、こういった補助魔術まで精妙に使いこなすのだから、本当に器用な男だとヴァレリアは改めて感嘆する。
「ほう、これは見事な術だ。私の部下にも魔導を修めた者は多いが、これほど安定した使役幻獣を編み出せる者はそうおらんぞ」
「この子が、ジグさんたちのいる場所まで真っ直ぐ案内してくれるみたいです」
「そのようね。迷っている暇はないわ、行きましょう」
淡く輝く青い幻獣の導きに従い、三人は地下へと続く隠し通路を目指して足早に駆け出した。
レオンハルトは後に続く精鋭兵たちへ向けて、
「一人残らず包囲して捕縛せよ。 奴らの隠し持つ書物、怪しげな魔道具、不正な取引記録の類はすべて証拠品として漏れなく押収するのだ」
と勇ましく檄を飛ばし、久しぶりの前線指揮に胸を高鳴らせていた。
やはり、私には退屈な貴族の談合よりも、こうして前線で剣を振るう現場の方が遥かに性に合っているな。まだまだ若い世代に遅れを取るわけにはいかん。退屈な政務の引継ぎは、我が息子に先に叩き込んでおくとするか。
レオンハルトはそんな快活な思惑を胸に浮かべながら、頼もしい足取りで暗闇の地下世界へと踏み込んでいくのだった。




