058 血脈に広がる毒 ⑥
地下道へ一歩足を踏み入れた途端、重く淀んだ空気が全身に纏い破ってきた。
ちくしょう、もっと涼しい格好で来ればよかった――。ジグは額から滲み出て首筋を濡らす汗を感じながら、内心で激しく悪態をついた。
「なんでこの街、こんなに暑いんだよ。砂漠地帯にあるとはいえ……地下までこの蒸し風呂状態は酷すぎるだろ」
「エーテルの循環がひどく乱れているんですね。その影響で、必要以上に熱を孕むような気温になってしまっているんです」
「エーテルが? そういうもんなのか?」
「ええ。あまりに人が集まりすぎているせいなのか、あるいはそれ以外の何かが原因なのか……そこまでは私にもわかりませんが」
アルスの解説を聞き、ジグは歩きながら少しだけ意識を研ぎ澄ませてみた。
彼の目には、空間の端々にたゆたうエーテルの淡い燐光自体は見えている。だが、アルスの言うような調和の乱れや密度の偏りといった微細な歪みまでは、どうしても感じ取ることが出来なかった。つくづく、得手不得手というのは個人それぞれにあるものだなと、ジグは自嘲気味に微かに苦笑した。
「ジグ、道が二つに分かれています。……ガウルのエーテルの残光は、あっちの方向へ伸びているみたいです」
「買い付けた奴等はそっちの奥へ連れていかれるって事か。……今すぐにでも殴り込んで助けてやりてえところだが、俺達が潜入してるってバレちまったら、せっかく捕まってまで足取りを追わせてくれたガウルの頑張りが水の泡になっちまう。まずは急いで別の区画を探ろう」
「はい。行きましょう」
アルスは一瞬だけガウルが囚われている通路の奥へと視線を送り、彼の無事を心の中で強く祈った。なんといっても、ガウルは土壇場で無茶を押し通してしまう悪癖がある。彼の戦士としてのどこまでも真っ直ぐな生き方は、時に自らの魂すら擦り減らし、傷つけかねないほど危うい瞬間があるのだから。
「待て、アル」
入り組んだ薄暗い地下通路をしばらく進んだ時、不意にジグが横へ腕を伸ばし、アルスの制止を促した。
壁の影に身を潜め、息をひそめて先の気配を探る。微かに鼓膜を揺らす足音――一人か? 巡回で見回りをしている悪党の巡察かもしれない。ジグは鋭い視線だけでアルスへ合図を送る。ここで下手に声を上げられたら、地下全体に警戒網が敷かれて厄介なことになる。こういう状況では、問答無用で一息に気絶させるに限る。
ジグが静かに指を三本立てた。
しばらく旅を共にしてきたからだろうか。アルスにはジグの意図が即座に理解できた。言葉を一言も交わさずとも意図が伝わり、アルスはそっと手のひらの上に小さな目くらましの光球を作り出す。
ジグの立てた指が、じりじりと一本ずつ折りたたまれていく。
――3……2……1。
「いまだ!」と言葉なく命じられた通り、アルスは通路の角へ向けて眩い光球を滑らせるように放った。
「うわっ!」
角から姿を現した男が、光に目を奪われて情けない声を上げかけた瞬間、影から躍り出たジグが素早く背後に回り込んだ。左手で男の口を容赦なく塞ぎ、力強い右腕をその首元へと一気に巻き付ける。
「ん、んんーっ! ちょっと、ま、待てって! 待ってくれ!」
男は降参を示すように手にしていた短剣をカラガラと取り落とし、首に絡みつくジグの腕を必死にペタペタと叩いた。しかし、ジグは一切力を緩めない。
「わりいな。余計な声を上げられる前に、少しばかり眠っててもらうぜ」
「ジグ……この方、どう見ても盗賊などには見えませんが」
「相変わらず甘い奴だな、お前は。こんな怪しい地下で短剣構えて歩いてた奴なんて、どう考えたって賊かコソ泥のどっちかだろ」
吐き捨てるように言いながら、ジグは絞め技を入れる右腕にさらにギリギリと力を込めた。
ガウルのような圧倒的な怪力には遠く及ばないにせよ、長年の野宿と放浪生活で鍛え上げられたジグの腕力も、常人からすれば相当な脅威だ。大蛇のように絡みついた腕が、男の首の動脈にキリキリと食い込んでいく。声が洩れ出さないよう、口元もジグのゴツゴツした左手でガッシリと塞がれたままだ。
「んんーっ! ん、ん~っ!!」
「でも……賊の人が、こんなに必死に悲鳴も上げず助けを請うたりするでしょうか?」
「する時だってあるんだよ。 生き延びるためだったら奴等はなんだってやる。泣きマネして善良な市民のフリだってかますんだ。そんで油断したところを背中からズブっ! と刺されちまうんだからな」
「ちょ、ちょうさ! ちょう、さって……!」
「『調査』って言ってますよ、ジグ」
アルスに指摘され、ジグは改めて腕の中でジタバタと悶える男を見やる。
確かに言われてみれば、本物の賊にしては殺気も浅く、抵抗の手応えがあまりにもなさすぎる。とはいえ、単に腕っぷしの弱い使い捨ての下っ端という可能性も捨てきれない。……だが、男の身に纏うマントの質の良さや全体の雰囲気からして、ただのならず者とも思い難かった。
「……チッ、仕方ねえな。アル、俺の腰のポーチから縄を取って、こいつの腕を固く縛れ。……おい、お前も聞こえたな? 元から命まで奪うつもりはねえ。意識も飛ばされたくねえなら、大人しくしてな」
ジグが耳元で低く威嚇すると、男は身体の力を抜き、文字通り借りてきた猫のように大人しくなった。
苦しそうに呼吸を整える男の顔を真正面から見つめつつ、「ごめんなさい……」とアルスが申し訳なさそうに謝罪しながら、その両腕を手早く縛り上げていく。
アルス自身はひどく済まなさそうな顔をしていたが、幼少期からの山暮らしと旅の知恵が染みついているためか、その縄の結び方は頑丈で、一分の隙もない締め上げっぷりだったのだが。
◇
背後に回された己の手首に食い込む、尋常ではない縄の締まりを感じ、ヴァルターは意外な手応えに密かに目を見張った。
こんな見知らぬ怪しげな地下道、いつまでも一人で影に潜んで進むのは危険極まりない。手っ取り早く安全を確保するためにも、先行していた二人組にこちらから接触してみようと考え、あえて隙を見せて近寄ってみたのだ。
この二人が本物の悪党か、あるいは無害な連中かは若干の賭けではあった。だが、表の隠し入口の幻術を破壊したまま放置して潜入していた点からも、彼らがこの地下で何か良からぬ企みを企てる一味の仲間とは到底考えにくかったのだ。仮に目の前の男が本物の賊だったとしても、縛りを解いて逃げ出す方法など、己の隠し道具の引き出しにはいくらでもある。
「で、ヴァルターだっけか。さっき調査って言ってたけどよ」
「え、へへ……。まあ、自分の身分とか立場はちょっと……依頼主の顔に泥を塗るわけにはいかんので言えないんすけどね……」
ヴァルターはどこか抜けた頼りない男を装い、へらへらと腑抜けた笑みを浮かべて誤魔化した。こうしておけば、ただの無害な貧乏くじ引きに思われて警戒も緩むだろうという計算だ。……もっとも、このような情けない仕草の半分以上は、彼の素の性格そのものでもあるのだが。
「んなこと言って、どうせ裏路地のコソ泥か何かだろ? その懐から見えてるエーテル鉱石だって、どこで手に入れたか怪しいもんだ」
「こ、これは騙されて買わされたんすよ! 夜風にあたりながら安酒で気持ち良くなってたところに付け込まれて……気付いたら金貨と引き換えに掴まされてたんだ!」
ジグはなおも半目に不信感を滾らせ、疑わしげな視線でヴァルターを凝視している。しかし、必死な男の言葉には嘘偽りがなさそうだ――つまり、本当に商人の口車に乗せられて無駄金を払わされたマヌケであることだけは伝わってきた。
呆れた迂闊すぎる男だ。ジグは心の中で深く溜め息をつく。世間知らずなところがあるアルスですら、旅先でそんな露骨な詐欺に引かかるようなヘマは一度だって犯したことがないというのに。もしくは、アルスは意外とそういうのには引っ掛からないのか?
ふと余計な疑問が湧き、ジグの頭の中で思考が目まぐるしく巡ったが、考えるだけ無駄だと即座に結論を投げ捨てた。
「では、ヴァルターさんにその調査を依頼されたお方というのも……この街で何か不穏な事件が起きているとお考えなのですか?」
「ええ、まあ。俺が言うのもなんですが……本当にお綺麗で、そして凄まじく聡明な方ですからねえ」
「その大切なお方のために、このような危険な場所へお一人で来られたのですね」
「いやあ! 俺ァまあ、適当に怪しい所を探らせてもらって無事に帰れりゃ御の字ってなもんですから、気楽なもんですよ」
そこまで調子よく口にしてから、ヴァルターはしまった……、と心の中で冷や汗をかいた。
何故だろうか。このアルスという美しい青年の澄み渡った真っ直ぐな瞳に見つめられると、胸の奥底の隠し事まで全て透かして見られているような錯覚に陥り、ついつい余計なことまで喋りそうになってしまう。
もしかして……これも何かの魔術なのか?
ヴァルターは「へへへ……」とさらに愛想笑いを深め、それ以上は余計な口を滑らせないよう口を噤んだ。
それにしても、妙な二人組だなとヴァルターは観察を続ける。
一人は緑色の肌に、燃えるような紅い髪と瞳を持った、エルフの血を引く異形の男。もう一人はマントのフードで顔の大半を覆い隠しているが、立ち姿だけで立ち昇るような息をのむ美しさを纏っているのが分かる。そして、深く被ったフードの影から、時折のぞく神秘的な輝きを放つ瞳。
連合国には様々な種族や異能者が集まるという話は、どうやら本当らしい。
「これ以上、こんな場所で立ち話してても仕方ねえな。俺達も仲間を待たせてるんだ。さっさとここら一帯を調査して引き上げたい」
「あの〜……よろしければ俺も一緒に連れて行ってもらうなんてのは、どう……っすかね? えへへ」
「うーん」
ジグは腕を組み、不機嫌そうに唸って苦虫を噛み潰したような顔をした。
「お前を信用するだけの担保が何一つねえ」
ジグはすげなく突き放す。
「両手、こうして縄で縛られたままでいいっすから! なんなら足首も縛ってくれて構いませんよ。ぴょんぴょん跳ねながらついていきますんで」
「何故そこまでして、私たちと共に行きたいのですか?」
「いやあ……なにぶん見知らぬ異国の地なもんでして。一人じゃ暗がりが心細くてかなわないんですよ」
「それがホントなら同情するよ。お前みたいな奴を雇った、その物好きな依頼主に」
ジグは心底呆れたように深い溜め息をついた。
どちらにせよ、この地下病巣で出会ってしまった人間を野放しにして放置していくわけにもいかないのだ。かといって、正体の知れない男を連れて歩くのも気が進まない。しかし、ここで押し問答をして時間を浪費していては、囮になってくれたガウルの犠牲が無駄になってしまう。
「手は縛ったままだ。それと……絶対に俺達の前を歩けよ。もし少しでも妙な真似をしようもんなら、その瞬間に電撃でビリっと黒焦げになるか、氷漬けにされてここに放置されるかの二択だからな」
「へい! 俺ァもう、それで全然構いませんよ!」
脅迫に対して心底嬉しそうに破顔するヴァルターの顔を見て、ジグは本当に真意の読めねえ薄気味悪い奴だなと内心で毒づいた。
「それで……具体的にはここで何を探せばいいんですかい?」
「何があるのかも含めて、全部だ」
「道はさらに奥深くへと続いていますね。……大気の循環だけでなく、エーテルの淀みも段々と酷くなっているみたいです」
「そんじゃあ、お言いつけ通り俺が先行して歩きますぜ! こういう暗がりを歩くのは昔から慣れてるもんで、どーんと任せてくだせえ。……あ、もし陰から怪物が跳び出してきて襲われたら、ちゃんと助けてくださいよ? 今は手がこんな状態で自由が利きませんからね!」
「わかったわかった」
半ば呆れ果てるジグをよそに、ヴァルターは手首を縛られたまま、いっそ意気揚々とした足取りで二人を先導し、地下の深域へと足を進めていった。
(……それにしても、この肌に纏わりつく不快な空気の重さ……ただの風通しが悪いなんて理由じゃねえな)
調子の良い態度を崩さぬまま、ヴァルターの鋭い視線は暗闇の壁面や天井の構造を絶え間なく観察していた。
◇
「――闇の淵……暗黒に蠢く闇の主よ……。全ての根源たる、深き憎悪の源よ。我らの捧ぐ可憐な献上品を、どうか受け取り給え……。そして、愚かなる我らに……どうか貴方の奇跡の力を……」
ジグたちがたどり着いた地下深域――地上からの光の残滓すら一切届かない昏い暗闇の最奥に、その異様な集団はいた。
歪な黒衣に身を包んだ数人の術士たちが、不気味な赤紫色の光を放つ巨大な魔法陣を囲むように立ち並び、何事かを唱えながら儀式を執り行っている。
「……大当たり、って感じっすねえ……」
物陰の陰に身をひそめながら、ヴァルターが息を殺して囁く。その瞳からは先ほどまでの軽薄さが消え、隠密特有の冷徹な光が宿っていた。
「誰か潜んでるとは踏んでいたが……まさか、こんな規模の魔術師の集団だとはな」
「あの者たちが行っているのは……何らかの召喚か、あるいは献託の儀式でしょうか。ここからでは魔法陣の細部までよく見えませんね」
アルスがジグのすぐ隣からそっと顔を覗かせ、状況を観察する。
なるほど、この黄金都市全体の気温が狂ったように上昇していた理由はこれだったのか、とアルスは深く納得した。それほどまでに、この儀式場を中心とした一帯のエーテルは狂乱し、荒れ狂う嵐のごとき重苦しい濁流となって空間を歪めていたのだ。
「どうする……? 躊躇わずに、一気に突っ込んで全員叩きのめすか?」
「いやいや、待ちなさいって。奴らは目の前の儀式に夢中で、完全に周りが見えてねえ状態だ。今のうちに、周辺の構造やら配置やらを探るだけ探っちまいましょうや」
「一網打尽にして、こっぴどく締め上げて吐かせた方が手っ取り早い気もするがな……」
仲間を案じて逸るジグを制し、ヴァルターが手際よく宥める。
「ジグ……あちらの奥の方に、まだ別の小部屋があるようです」
アルスがジグの肩にそっと触れ、暗がりの奥へと続く不自然な空洞の方角を指し示した。
「フム……。追いつめられた奴らの仲間が、証拠となる重要な資料なんかを燃やして隠滅しようとするかもしれねえか。……行くぞ」
ジグは低く姿勢を落とすと、その目立つ赤い髪と緑の肌を覆い隠すように、フードを深く被り直した。
それにしても耐え難いほど暑い。
マントに施していた気やすめ程度の冷気術など、狂乱したエーテルの熱気の前にとうに霧散して意味をなしていなかった。かといって、これ以上強引に冷気の威力を強めれば、今度は自身の皮膚が凍傷を起こしてしまう。すでに顔も身体も、嫌な汗でベトベトだ。
(……よくまあ、こんな汗臭くて薄汚ねえ状態の俺の身体に、なんの躊躇もなく触れるもんだ)
ジグは、隣で相変わらず涼しげな顔を保っているアルスを横目で見やり、少し呆れたように思った。
そんな二人に先行し、無音の足取りで暗闇を這うヴァルターは、やはりここは文句なしの『大当たり』だったかと、暗がりの中で微かに口角を吊り上げた。
帝国の特務として、この都市に隠された毒の芽を捉えたことは紛れもない手柄だ。
もっとも、彼が仕える皇女殿下にとって、この現実が喜ばしい報告となるのかどうかは、相変わらず判断がつかないままではあったのだが。
◇
「凄い……これ、全部魔術に関する専門書や道具、それに触媒ですよ」
小部屋へ足を踏み入れ、乱雑に積まれた資料群を目にしたアルスが息をのんだ。
棚や机の上には、初歩的な攻撃術から高度な治癒術、そして当然のように禁忌とされる危険な呪術についての怪しげな羊皮紙までもが、足の踏み場もないほどに散乱していた。
「こいつは……小瓶だな。中身はもう使っちまった後みたいだが」
「なんですかい? そのフチにこびりついてる液体は……」
「まあ、人間の血だろうな」
気味悪そうに身を引くヴァルターにそっけなく答えながら、ジグはガラス瓶の蓋を開け、匂いを軽く嗅いでから酷く顔を顰めた。最初から分かっていたこととはいえ、古い人間の血液が発する腐敗臭は決して気分のいいものではない。
「この地下で犠牲者から血を抜き取ってるだけじゃないって事か。その血をそのまま同じ場所で買い受けたイカれ魔術師どもが、ここで嬉々として呪術の研究に耽ってたわけだ」
ジグは胸の内で舌打ちをする。
その隣でヴァルターは、部屋全体を満たす邪悪な気配に背筋の寒気を覚えつつも、特務としての習性で周囲をつぶさに観察していた。部屋の隅に置かれたいくつかの器具――あれは帝国製の精巧な魔道具だ。確か、大気中のエーテルを効率よく集積するための漏斗の役割を果たす特殊装置だったはずだ。
「二人とも、ちょっとこっちへ」
部屋の奥からアルスが声をかけた。
駆け寄った二人にアルスが指し示したのは、卓上に仰々しく広げられた一冊の分厚い本だった。見覚えのある禍々しい装飾が施された、一冊の魔術書。相変わらず、欲に目が眩んだ金持ちや無知な魔術師が飛びつきそうな、悪趣味な装丁がなされている。
「やっぱりここにもあったか」
「以前、別の場所で見掛けたのと同じ代物ですね」
「魔術書、ですか……。いやあ、俺にゃ全くの門外漢っすねえ」
本当にこの男の依頼人は、こんな頼りない奴を一人で放り出したのか。
ヴァルターのへらへらした態度を見て、ジグは内心で気の毒に思った。とはいえ、先ほどから彼の胸元からチラチラと覗いている鈍色の魔石――あれはおそらく記録用の魔石だろうとジグは分析していた。カシムにあげた通信用の魔石と、原理は似たようなものだから分かりやすい。それなりの装備は身に着けているという事か。
「そんなんで仕事になるのかよ……。ほら、その本の内容の記録かなにか取るんなら、サッサと済ませろよ」
「え、いいんですかい? 俺みたいな奴に見せちゃって」
「ここに書かれてる知識を知ったところで、素人のお前じゃ何も出来ん。それに……おそらくこいつを真に受けて実践しようとする愚か者は、例外なく破滅する」
「破滅……。またえらく物騒な話っすね……」
思わず血の気が引くヴァルターの前に、アルスが静かに魔術書を開いて差し出す。
魔術などヴァルターにとってみれば得体の知れない気味の悪い代物でしかなかったが、これも任された仕事の一環だと割り切り、分からないなりに必死に目を通す。今は両手が縛られているためメモを取ることも叶わないが、可能な限りその内容を脳裏に叩き込もうと、アルスに次々とページをめくってもらいながら貪るように読んでいく。
「ううん……。なんというか、正気の人間が書いたとは思えない荒唐無稽な話って印象っすけどねえ」
ひとしきり目を通し終え、ヴァルターが困惑気味に言葉を漏らした。
「持っていきますか、ジグ?」
「もちろんだ。前回はこいつがどれほど危険な代物か知らずに、俺がその場で燃やしちまったからな。今回は然るべき場所へ突き出す証拠品として、有り難く拝借させてもらうぜ」
「前回って……そんなヤバい本が、この国にいくつも出回ってるんすか?」
「ええ。これの存在そのものが、各地で争いの火種になってしまっているのです」
アルスの重々しい言葉を聞いて、ヴァルターは唸りながら深く思案に暮れた。
連合国は表面上平和を装いながら、裏では内乱の直前にまで陥っているってことなのか? だが、昼間歩いた首都やその周辺の市場は、活気に満ち溢れて平和そのものだった。一体誰が、何のために内部からこの国を崩壊させようとしているのか。
頭の中で幾重にも思考が渦巻くが、明確な答えには到底辿り着けそうにない。
「よおし、この部屋の調査はこんなもんだな。あとは怪しげな魔道具がそこかしこに転がってるくらいで、以前見掛けた光景と同じだ」
「そうですね。このあたりの証拠品は、後で街の衛兵の方達が駆け付けてまとめて押収することになるでしょう」
「てなると……俺達の調査はこれで完了、無事に引き上げですか?」
思った以上の決定的な大収穫だったと、ヴァルターは満足気にジグへ問いかけた。
首都に潜入して早々にこれほど重大な核心情報をつかめるとは、我ながらなんと幸先の良いことか。次はもっと心臓部へ深く入り込んで……と、頭の中で次なる潜入計画を練り始める。
「いや? これからひと暴れしにいくぜ」
「へ? ひと暴れ? いやいや、あんなヤバそうな魔術師どもは放っといて、さっさと地上へ逃げちまうのが一番の得策じゃないですかい」
「いいや。あいつらが今やってるのは恐らく賢者の石の精製だ。不気味な儀式を指くわえて見過ごすのも夢見が悪い。厄介な代物でもあるしな。全部まとめてブッ壊してやるぜ」
ニッと不敵に口角を上げ、意気揚々と部屋を後にしていくジグの背中を、ヴァルターはぽかんと呆気にとられた様子で見送った。自ら進んで危険極まりない死地へと赴くなど、この男は見かけによらず相当なお人好しで正義感が強いということなのだろうか。
「……いつもあんな感じなんすか、ジグさんって」
「そうですね……。ここ最近は特にこれといって大きな依頼も受けていませんでしたから、純粋に身体が鈍って暴れ足りないのかもしれません」
「あ、暴れ足りない? そんな恐ろしい理由でっすか……?」
「ええ。ジグは賞金首を捕まえるのが、昔からとても好きみたいですので」
どこまでも穏やかな笑みを浮かべながら当然のように言うアルスを見て、つくづく頭のネジが飛んだ二人組だな……とヴァルターは戦慄した。
――そして、ふと思う。
今頃、二人とは別行動で「囮」になっているという、まだ見ぬ三人目の仲間。彼は一体どれほどの苦労を背負わされているのだろうか。
もしかして、さっき地下道を通ってきた時に、奥の闇から微かに聞こえた、あの呻き声の主だったり?
まだ顔も見たことがない可哀想な三人目の仲間へ向けて、ヴァルターは胸の奥底から深い同情の念を抱かずにはいられないのだった。




