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果てしなき旅路の果てに  作者: 左岸
第一章 貿易連合国編
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057 血脈に広がる毒 ⑤

 夜の帳が降りた連合国の首都。うだるような熱気を孕んだ風を浴びながら、ヴァルターはほろ酔い加減の足取りで大通りを歩いていた。


 隠密の任務を帯びてこの街に潜入してからというもの、どこを見ても人、人、人。右を向いても左を向いても砂漠の民や旅人、商人たちの波が途切れることはなく、落ち着かないことこの上ない。己が生まれ育った帝都も十分に大きな街だという自負はあったが、ここまで人で溢れかえるなんてことはついぞなかった。


「メシが美味い以外にゃ、いいとこなんもねえって感じだな、ここは……。それにしても、あちいしよ」


 誰にともなくぶつぶつと文句を言いながら、抱えた紙袋から次の串焼きを取り出して大振りに噛みちぎる。じわりと溢れる脂とうま味が口いっぱいに広がった。何の肉だと売り子の商人はいっていただろうか。ヴァルターはそんなことをぼんやりと考え、咀嚼を繰り返しながら思った。


 買った瞬間には、提示された値段があまりに安すぎて不信感たっぷりだったのだ。だが、実際に口に含んでしまえばそんな懸念はどこかへ吹き飛んでしまった。

 帝都で同じだけの小銭を支払って買える食い物といえば、馬の荷草か、あるいは泥でもかじっていた方がまだ気が紛れるんじゃないかと思うほど、粗悪で味気のないものしかないのだから。


「だけど、この安酒ってやつは本当に良くねえ……うぷ。こんな、小銭をかき集めたような端金で簡単に酔えちまうなんて、人間を駄目にする毒ですぜ、まったく」


 ぶつぶつと愚痴をこぼしつつも、手の中にすっぽりと収まった泥炭色の酒瓶を離すことはどうしても出来なかった。

 飯が安くて美味いうえに、酒までこれほどの端金で酔い痴れることができるなんて。こんな至れり尽くせりの国、ひと月も滞在していれば帝国の兵士とて一瞬で堕落しきってしまうに違いない。


 恐ろしい国だ――そう心中で身震いしつつも、また口元へと酒瓶を運び、喉を鳴らして黄金の液体を流し込む。

 やはり、うまい。胃へ落ちてから胸の奥へとじんわり広がっていく熱の感覚も、酷く心地よかった。香ばしい塩気の効いた串焼きを咀嚼し、それを安酒で一気に喉の奥へ流し込む。その瞬間の口内は、まさしく天国そのものではないか。


(ちくしょう、これだから連合の商人どもは嫌いなんだ。こうして旅人に次から次へと買わせるために、これほど悪魔的な味付けにしやがっているんだ。流石商人の国、汚いぜ……)


 ヴァルターは心の中で都合の良い悪態をつきながら、手元に残った肉を次々と強靭な胃袋の中へと納めていった。


「にしても……これといった怪しい動きなんて、街を歩いてる限りじゃ全然感じないっすけどねえ。やっぱり、もっと議事堂の近くとか、心臓部まで深く潜り込まなきゃ駄目なのかねえ」


 安酒のせいで脳がふらふらと浮かれつつも、ヴァルターの思考の片隅は、自らに課せられた重大な任務の存在を忘れてはいなかった。

 あの皇女殿下が遥か遠くの地で危惧していること――その陰謀の欠片でも、この連合の首都で見つけて持ち帰ることができれば、一端の隠密として面目が立つというものだ。


 だが、待てよ。

 そもそも、裏で何も不穏な計画が動いていないことこそが、我が姫様にとっては一番の吉報なのではないだろうか?


(……だめだ、やっぱり安酒のせいで判断が少し鈍ってるらしい。頭が回らねえや)


 ヴァルターは小さくかぶりを振ると、最後の一滴までぐいっと中身を飲み干し、空になった酒瓶を近くのゴミ箱へと乱暴に放り捨てた。もう今日は絶対に飲まない。心の中でそう固く誓って。


 そのまま、人でごった返す中央広場まで千鳥足でやって来ると、ヴァルターは手頃な石壁に背を預けた。

 夜風が、熱を帯びた身体を通り抜けていく。その涼やかさが、火照った頭にはひどく気持ちよかった。


「あれ、どしたんや兄ちゃん。ちょっと飲みすぎたんか?」


 不意に、すぐ傍らから調子の良い声が掛けられた。見れば、いかにも抜け目のなさそうな商人が立っている。


「まあな……うぷ。この街の酒は、安いのがいけねえんすよ。あんな安さじゃ、次から次へと飲んじまうのが人情ってやつでしょう」

「そらあきまへん! せっかくの旅行が台無しになってしまいますがな」

「ん? いや、俺ァ別に旅行ってほどの高尚なもんでも」

「そんな時にはコレや! これに限りまっせ!」


 ヴァルターの言いかけた言葉など端から聞く耳持たぬとばかりに、商人が懐から素早く取り出したのは、遮光性の小さな硝子瓶に入ったいくつかの錠剤だった。


「なんですかい? それ」

「コレはなぁ、ワシ特製の『酔いさまし』でおまんねん。一粒コクンと飲めばもう、それだけで頭がスキッ! とする超一級の逸品や!」

「へえ……こいつがねえ」


 ヴァルターは差し出された小瓶を受け取り、しげしげと目の前にかざして眺めた。

 見たところ、これといった特徴もない普通の丸薬にしか見えない。本当に効果があるのだろうか。何しろこの連合国と帝国とでは物の価値基準が違いすぎるため、素人にはその真偽の判断が全くつかなかった。


「ソレだけやないで! そいつを飲めば頭だけやなくて、体中がスゥーッとスッキリしますねん。もう十代の瑞々しい少年に戻ったかのような快活さが、体の中からグワーッと燃えてきますわ!」

「少年みたいな、ねえ……」

「そうや! そんな瑞々しい姿で国に帰ってみなはれ。兄ちゃんに惚れる人、惚れ直す人で、周りが溢れかえってしまいますわ!」

「んん……」


 ヴァルターは喉の奥で唸った。

 俺に惚れ直す、か。……そうか。

 あの姫様も、これを飲んではつらつとした俺を見れば、今以上に一目置いてくれたりするだろうか。酒の熱で浮ついた頭のまま、ヴァルターは目を閉じ、愚かにも夢想に耽りはじめた。商人はその隙を逃さず、捲し立てるように機関銃のごとく話しかけ続けている。


「兄ちゃん、今日はほんま運が良いですわ! ちょうどワシ、これから東の方に商品の調達に出るとこやってん。こんな運命的な巡り合わせ、滅多にあらへんで!」


(――お帰りなさい、ヴァルター。危険じゃなかった?)


「せっかくの機会やさかい、今ならもう一本、太っ腹におつけしましょ!」


(――どうしたの? 今日のあなた、なんだか凄く素敵だわ……)


「ついでにオマケや! このエーテル鉱石も二つ、サービスで乗せときますわ! こいつはお得でっせ! こんだけてんこ盛りにしといて、お値段たったの金貨一枚! どうでっか?」


(――ねえ、どうかしら。似合うかしら、これ)


「ああ、いいんじゃないっすかね、姫様……」


 目を閉じたまま、ヴァルターは完全に幸福な空想の世界へと逃避し、脳裏に咲いた皇女殿下の幻影に向けて、だらしなく蕩けた声で返事をしてしまっていた。ついでに口から言葉まで漏れ出し、右手は無意識のうちに、懐から金貨を一枚引っ張り出していた。


「おーきにーーーっ!」


 耳元で響いた、妙に威勢の良い遠ざかる声を合図に、ヴァルターはハッと我に返った。

 見開いた己の両手には、怪しげな錠剤の小瓶が二つと、鈍い輝きを放つ小さな鉱石が二つ、しっかりと握らされている。


「あ、えっ……?」


 間抜けな声を漏らして慌てて周囲を見回したが、あの調子の良い商人の姿は、どこを探しても影も形もなかった。


 やられた。酒の心地よい酩酊感に流されるまま、こんな得体の知れないものを掴まされる羽目になるとは。

 手元を見て思う。これが、金貨一枚? ぼったくりとまでは言わないが、この取引額の大部分は、おまけと称された「エーテル鉱石」の値段なのではないか。


「ちくしょう……。こんな商人の国に長居してたら、いずれ身ぐるみ剥がされて丸裸にされちまうぜ……」


 ヴァルターは苦虫を噛み潰したような顔で、胸の内で悪態をつく。

 だが、誰のせいかと問われれば、自分の顔しか思い浮かばないのが何より辛かった。やりきれない思いを抱えながら壁にもたれ、彼は鉱石と二つの小瓶を、しぶしぶと懐へとしまい込んだ。


 しばらく壁にもたれ、相変わらず浮ついた酔いに身を任せながら広場の様子を眺めていると、ヴァルターの鋭い視線が、ある妙な二人組に止まった。


 人混みを縫うように歩く男女――いや、よく見れば両方とも男だ。片方は華奢な体躯だが、歩き方や骨格の節々には男のそれが見て取れる。二人ともマントのフードを深く被って顔を隠しているが、この多種多様な人間が集う首都においては、それ自体はさして珍しい光景でもない。


「……だが、あの視線の追い方は、ただの観光客じゃねえな」


 ヴァルターは顎に手を当て、細めた目でその二人組を観察した。

 彼らは一体、何を見つめながら歩いているのだろう。初めて首都を訪れて周囲の珍しさに目移りしているというよりは、何か特定の、見えない獲物を追跡しているような、確固たる意志に満ちた動きだ。


 そういえば、帝国士官学校の講義で聞いた覚えがある。魔術師の類は、常人には視えない『エーテル』なる大気の脈動を感じ取り、それを指標にして追跡を行うことができる者もいるのだとか、なんとか。


(くそ……、もっと講義を真面目に受けておくんだったぜ。機械の分解と整備ばかりにうつつを抜かしていた過去の自分を、殴り飛ばしてやりたいな、全く)


 ヴァルターは小さく息を吐き、思考を巡らせる。

 やがてその不審な二人組は、広場の片隅で何か確証を得たかのように、足早に北東の方向へと移動を始めた。


(……まあ、今日のところは他にこれといった手がかりもないんだ。あの怪しい二人組の後を、こっそり尾行させてもらうくらいはバチは当たらねえだろ。もしかしたら、思わぬ大当たりのクジを引くかもしれないしな)


 ヴァルターは不敵な笑みを口元に湛え、追跡を決意した。


「さてと。じゃあ、尾行の景気づけに……さっきの『薬』とやらを一個、試してみるかね」


 彼は懐から先ほど渋々買い取ったばかりの小瓶を取り出すと、中の青白い錠剤を一つ指先でつまみ、勢いよく口の中に放り込んで一息に飲み込んだ。


「――っ、ご、ふっ……!? げほっ、ごほっ!!」


 喉を通過した瞬間、まるで脳天を直接錆びた鉄槌で割られたかのような、激烈な苦味と痺れが全身の神経を駆け巡った。ヴァルターはその場に膝をつき、激しく咳き込む。


 たまらず水筒を取り出し、残っていた水を一気に流し込んだが、その水すらも猛烈に苦く感じられた。むしろ水を飲んだことによって、その劇薬じみた苦味が口腔から喉の奥、そして全身の隅々まで、じわじわと毛細血管を伝って広がっていくような錯覚さえ覚える。


 何が瑞々しい少年に戻れるだ、あの商人め。次にその面拝んだら、絶対にその商売道具ごと砂漠の砂に埋めてやる。

 だが……恐ろしいことに、あれほど重く頭を支配していた安酒の酩酊感だけは、文字通り一瞬で、木端微塵に吹き飛んで消え去っていた。


「いや……いやいや、それにしても限度ってものがある。絶対に許さねえ」


 ヴァルターは涙目で咳き込み、何度も口の中の苦さに唾を吐き捨てながら、尾行の対象である二人組を見失わぬよう、複雑で腹立たしい思いを胸に抱いたまま、ふらつく足取りで歩き出すのだった。


 ◇


「行き止まり、だな」


 ジグたちは黄金都市の北東の最果て、荒々しい石壁の直前へと辿り着き、手詰まりとなって立ち尽くしていた。


 アルスの示したエーテルの残光を追いかけて移動すること自体は、驚くほど容易だったのだ。

 なんだ、拍子抜けだな。この程度なら案外早く決着がつくかもしれないぞ。道中、そんな楽観的な思考すらジグの胸を掠めていたのだが――いざ辿り着いてみれば、そこは完全に行き場を失った袋小路だった。ジグは露骨に途方に暮れた表情を浮かべる。


「おかしいですね。魔術の軌跡は、確かにこの先へと続いているのですが……」


 アルスは不審そうに首を傾げながら、周囲の石造りの建造物を丹念に探りはじめる。

 ガウルの身体に沈んだ丸薬から発せられる微かなエーテルの流れは、間違いなく途切れることなくこの前方へと延びているのだ。それも――地の底へと潜り込むかのように?

 しかし、地下へ伸びる階段や隠し扉の類いはどこにも見当たらない。


「ううん……ガウルを闇商人どもに委ねて待たせてるってのに、こんな所で足止めかよ。……もういっそのこと、事故に見せかけて、ここら一帯を強力な魔術で吹き飛ばしてみるか」

「ジグ、街の人々に迷惑ですよ。下手をすればガウルまで生き埋めになってしまいます」

「わかってるよ、冗談だって……半分くらい」


 冗談めかしつつも、ジグは不気味な違和感を拭い去れずに辺りを執拗に観察し始めた。

 周囲を見回しても、そびえ立つ無骨な壁しか目に入らない。商いを行う店舗もなければ、人々の営む民家が存在する気配もないのだ。地面に片膝をつき、石畳の隙間まで丹念に手で擦ってみるが、別段おかしな仕掛けは見当たらなかった。


(そういえば……こういう目立たねえ些細な違和感を見つけるのは、いつだってガウルの得意分野だったな)


 思わず仲間の顔が脳裏をよぎる。ああいかん、とジグは即座に思考を打ち消した。ガウルの無事を案じるあまり、胸の奥から焦燥感が湧き上がって心がソワソワと千々に乱れてしまう。今は、ただ目前の状況だけに全神経を集中させねえと。

 ジグがその鋭い赤い瞳をいっそう細め、壁の一点を鋭く凝視した、まさにその時だった。


「ん……? ここ、なんだか異様に気になるな……」


 注意深く観察を重ねると、ある一角の石壁の表面だけが、どうにも微かな引っかかりを覚えさせた。視覚的には周囲の壁と何ら変わらぬ古びた模様なのだが、どうしてもそこから視線を外すことが出来ないのだ。

 ジグは壁に歩み寄り、無骨な手を滑らせて触れてみる。だが、そこに魔法陣が刻まれた形跡もなければ、魔力の痕跡すら見当たらない。


(おかしいな……。確かに、俺の直感がここに『何かある』と告げているのに)


 ジグは納得がいかぬ様子で、あちこちの不自然な凹凸を強引に触り倒した。


「なあ、アル。この壁のあたりに、何か変な感覚を感じねえか?」


 ついに自力での解明を諦め、降参といった様子で後ろのアルスへ声をかける。

 悔しい。魔術で俺を出し抜くなんて。


「ここですか?」

「ああ。何かが強く引っかかるんだが、魔方陣の類いが刻まれている様子はまるでなくてよ……」


 ジグが少し悔しそうに顔を歪めながら指し示すと、歩み寄ってきたアルスは慎重にその壁へと手を当て、そっと瞳を閉じて意識を研ぎ澄ませた。

 すると、その指先を通して、自然の理からは明らかに逸脱した不自然なエーテルの歪みが感じ取れた。


「たしかに……これは、空間を覆い隠す『幻の壁』の一種でしょうか」

「だよな! けど、それを展開するための魔方陣が、この表側のどこを探しても見当たらねえんだよ」

「もしかしたら……その魔方陣自体は、この壁の『向こう側』に描かれているのかもしれません」

「向こう側?」


 ジグは壁を見上げて呆れたように呟いた。

 その壁は、この黄金都市アル・ハミドを覆う堅牢な外郭城壁にも引けを取らないほどの高さを誇っている。無造作に爪をかけてよじ登ることなど、到底不可能な垂直の構造だ。


「なるほどな。魔方陣を向こう側に隠して描いておいて、解除用の鍵となる魔石か何かを持った奴が近づいた時だけ、この壁が透過して消える仕組みか。……あり得るな。そして小賢しい」

「でも、どうしましょう。精霊たちに問いかけてみますか?」

「いや……その前に、ちょっと試してみたい事がある」


 ジグはそう言うと、足元から小さな小石を一つ拾い上げ、手首のスナップをきかせて壁の向こう側へと高く放り投げた。

 数秒の静寂の後――壁の向こう側の地面から、カンっという乾いた硬質な音が微かに響いて届いた。


「……よし。こいつは幻影の偽装こそ貼られているが、物理的には本当にただの分厚い壁らしい。天井まで完全に塞がれているわけじゃねえな。それに、石が当たって驚くような奴の声もしなかった。向こう側に巡回中の見張りもいないはずだ」

「ジグ……慎重にやるんですよ?」


 ジグの企みをいち早く察したアルスが、少し心配そうに釘を刺すように声をかける。


「まかせとけって。二人でどれだけ死ぬ気で転移術を練習したと思ってんだ」


 ニッと不敵に笑い、得意げにアルスへ返事をしながら、ジグは壁の向こう側へと向けてそっと両手をかざした。


 大丈夫だ。今しがた落ちたあの石の場所へ、己の存在をそのまま滑り込ませるイメージでやれば確実に出来る。……たぶん。いや、だけど万が一、座標がズレてこの分厚い石壁の内部と同化しちまったら、俺の身体はどうなっちまうんだ?

 土壇場になって一瞬だけ強烈な不安が頭をよぎったが、すでにかざした両手の先からは、眩い魔術の光輝が激しくほとばしっていた。

 もう後戻りはできない。ジグは腹を括り、覚悟を決めてその転移の魔術を解き放った!


「――っ、お……おえっ……!? げほっ、ぐえっほ! げほっ」


 ジグの視界が歪んだかと思った次の瞬間、強烈な閃光と浮遊感が襲いかかり、気付けば彼は壁の内側の敷地へと転移を果たしていた。

 術自体は完璧な成功だ。……ただ、全身の細胞が裏返るような猛烈な嘔吐感と、喉を焼き切るような激しい咳込みさえなければ、文句なしの大成功と言えたのだが。


 ジグは涙で歪む視界を必死に動かし、周囲の状況を探る。

 すると狙い通り、地面の石畳には幻術を全域に展開し続けている禍々しい魔方陣が刻まれていた。


「げほっ……! うう、無駄な手間をかけさせやがって……こいつめっ」


 未だ込み上げる胃液を必死に押し殺しながら、魔方陣へ激しい悪態をつく。ジグは腰の短剣を素早く引き抜くと、刃に濃密な魔力を滾らせ、地面の刻印へ向けて一気に突き立てた。

 魔術の脈動を強引に断ち切られた魔方陣は、儚い音を立てて呆気なくその輝きを失い、表通りを遮っていた巨大な「幻の壁」もまた、煙のように跡形もなく霧散していった。


「やりましたね、ジグ! 日頃の練習の素晴らしい成果ですよ」

「へへ……まあな……げほ。俺にかかれば、転移術なんて……ちょっと練習すりゃこんなもんだぜ……げほっ」


 激しく咳き込みながら強がるジグの背中を、アルスは苦笑しながら優しくさすってやる。

 ふとアルスが周囲に視線を走らせると、すぐ目と鼻の先、薄暗い陰に隠されるようにして、地下深域へと続く頑丈な石造りの階段が伸びていた。悪党どもは、ここからこの街の広大な地下病巣へと侵入していったのだろう。


 冷たく湿った、そしてどこか生臭く禍々しい気配が、階段の底から這い上がってきて二人の肌をなでていく。


「よおし……行くか。内部を探れるだけ探って、ガウルの奴も一刻も早く助け出してやらねえとな」

「そうですね。急ぎましょう、ジグ」


 二人は強く視線を交わし合い、意を決して、昏い闇が口を開ける地下階段へと慎重に足を進めていくのだった。


 ◇


(なるほど……こいつは相当な『当たり』を引き当てたかもしれねえな)


 物陰の暗がりに身を潜め、二人の挙動を凝視していたヴァルターは、細めた瞳に鋭い光を宿らせた。


 最初に見かけた時から、その身のこなしでただ者ではないとは察していた。だが、まさかこれほど鮮やかに「幻の壁」を透過し、姿を消してしまうほどの術士だったとは。


(帝国にもこんな芸当ができる魔術師がいてくれりゃ、俺の潜入仕事ももうちょい楽ができるんだがね)


 そんな愚痴を心の中でごちながら、ヴァルターは手慣れた手つきで懐へ手を差し入れた。取り出したのは、掌にすっぽりと収まる、鈍い青銀色の光沢を放つ拳大の魔石だ。彼はそれを口元へと近づけると、先ほどまでの軽薄さを削ぎ落とした静かな声で語りかけ始めた。


「――記録。連合国首都アル・ハミド北東部。強大な隠蔽魔術によって秘匿された、地下領域への入口を発見。先行した二人組の術士を追跡した結果、到達したものだ。二人の出自および目的は不明。地下で何が行われているかも現時点では判明していない。しかし、これほど大規模な空間偽装が施されていた事実から鑑みるに、非合法組織による拠点である可能性が極めて高い。……これより、単独にて内部へ潜入する」


 一息で短く簡潔に報告を吹き込むと、ヴァルターは「ふぅ」と小さな溜め息をついた。

 正直なところ、この支給された記録用の魔石という代物は、機械いじりを好む彼にとってもイマイチ信用しきれない代物だった。本当に己の声と言葉が正確に刻み込まれているのか、甚だ疑問である。昔ながらの手帳に紙とインクで書き記す方が、視覚的に確かめられる分よっぽど安心できるというものだ。


 とはいえ、術者本人の魔力波長と一致しなければ内部の記録を閲覧できないという機密保持の面においては、この魔道具は極めて優秀であったことも事実だ。

 もっとも、ただの綺麗な宝石と勘違いした街の泥棒どもに、スリ取られそうになる危険性が跳ね上がるのだが。


 苦笑交じりに魔石を懐の深くへとしまい直すと、ヴァルターは両の拳をポンと打ち鳴らした。


「さて……。これでようやく、本業の『一仕事』って感じになってきたかね。腹も十分に満たしたし、安酒で景気づけも済んだ。準備としては文句なしだ。……姫様への良い土産話が、地下に沢山転がっててくれりゃあ最高なんだがな」


 不敵な笑みを口元に浮かべながら、ヴァルターは猫のようにしなやかな足取りで物陰を脱し、周囲の気配を警戒しながら地下階段の入口へと接近する。


 ――しかし、待てよ?

 ふと、ヴァルターの足がピタリと止まった。


 土産話が大量にあるってことは……それだけ連合国の裏で不穏な陰謀が渦巻いている証拠だろ? そんな報告を持ち帰ったら、ただでさえ多忙な我が皇女殿下の悩みの種が、また増えちまうんじゃねえか?

 あれ? ならむしろ『怪しいものなんて影も形もありませんでした!』っていう報告の方が、一番の平穏で喜ばれるんじゃないのか?

 またしても酒の残滓のせいか、頭の中でグルグルと不毛な思考の螺旋が巡り始める。


「……まあ、考えても始まらねえな。なんでもいい、ちょいと拝見させてもらうぜ」


 最後は思考を強引に打ち切り、低い呟きを残して、ヴァルターは音もなくその身を翻した。

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