056 血脈に広がる毒 ④
「男なら金はこれくらいだな」
いかにも野卑な男の、濁った声が路地裏に響いた。放り出された古びた革袋を、ジグは片手で受け止める。
「……随分すくないな」
手のひらに残る、予想以上の軽い感触。ジグの口元から、隠しきれない不満そうな声が漏れた。金額そのものに執着しているわけではない。仲間を危険な淵に晒すというのに、目の前の悪党どもに、その価値をこれほど安く見積もられたことが酷く不愉快なのだ。もっとも、眼前の男にそんな事情など知る由もなかったが。
「嫌ならいいんだぜ。どのみち、男の生き血なんざ、そんなに求められちゃいねえ」
せせら笑う男を冷ややかに見据えながら、ジグは僅かに息を吐く。
「まあいい。その金額で構わない」
「それにしても、ずいぶんとデカい奴を持ってきたもんだ。ちょっとツラを拝ませてもらうか」
男は下卑た笑みを浮かべて言いながら、膝を折り地面に跪かされているガウルの髪を、無造作に掴んで強引に顔を上げさせた。値踏みするような品定めの視線で、乱暴に右へ、左へと動かし、仕入れた獲物の状態を確かめる。
「――おい。傷一つついてねえじゃねえか。どういうことだ?」
男が不意に動きを止め、不機嫌そうに眉を寄せてジグを睨みつけてきた。
最近は衛兵どもの取り締まりも厳しく、裏路地を這い回るのも一苦労なのだ。面倒な揉め事を持ち込む奴や、組織の内情を探ろうとする不届き者は、ここで門前払いしておきたい。大体、この目の前の売り主にしても、口元を布で覆っているうえにフードを深く被って、顔を完全に隠してやがる。男の胸に、じわじわと黒い疑念が広がっていく。
「魔術で弱らせてある」
ジグは動じることなく、淡々と応じた。
「魔術だと?」
「なんだ、知らないのか?」
その挑発めいた物言いに、男はむかっと来て、吐き捨てるように言葉を返した。
「……知ってるとも。魔術の真似事くらい、裏じゃ珍しくもねえ」
結局のところ、宿を出る前に「説得力を持たせるために仲間を本気で殴る」という当初の作戦は、互いの情が邪魔をして諦めざるを得なかった。その代わりに、あらかじめ魔術をかけて無力化してあるという言い訳に変更したのだ。ジグの知識量であれば、大抵の魔術について問い詰められても淀みなく答えられる。ただのハッタリではないと証明するのも容易いだろう、という踏み込みだった。
「今のこいつは、木の枝一本まともに持ち上げられん。嘘だと思うなら、試しに小突いてみたらどうだ?」
「ふん……、なら遠慮なく」
男は昏い愉悦を瞳に宿すと、無抵抗のまま跪いているガウルの腹部を目がけ、容赦なくその足先を突き出した。
鈍い衝撃音が夜の闇に消える。男の履いている汚れた靴の先端には、どうやら鉄芯が仕込まれているらしく、まともに蹴り飛ばされた勢いで地面に這いつくばったガウルは、苦しげに激しく何度か咳き込んだ。
その生々しい様子を間近で見て、ジグは少し挑発しすぎたかもしれないと、顔を隠す布地の裏で密かに冷や汗を流していた。大方の展開は予想していたとはいえ、やはり仲間が理不尽に痛めつけられる光景は嫌なものだった。
一族みな家族、互いの絆の連なりを何よりも重んじる環境で育ってきたジグにとって、たとえ偽装の演劇であっても、仲間を売るような真似そのものが、魂の芯に冷たい不快感を残していくのだった。
「抵抗しねえあたり、嘘じゃないらしいな。どこで俺達の事を知った?」
男は激しく咳き込むガウルの髪を再び乱暴に掴み上げ、その顔を覗き込んだ。
一体、何をそんなに何度も見る必要があるというのか。ジグはフードの奥で、男の執拗な品定めにひどく呆れた感情を抱いていた。と同時に、捕らわれた無力な男を完璧に演じきっているガウルの驚くべき我慢強さに、内心で深く舌を巻いてもいた。
「人から聞いた、とだけ」
「なるほどな。確かに常連の客じゃなきゃ、人づてに聞くしか知る方法はねえ」
こんなとこに、定期的に通う常連客がいるのか――。ジグの胸をうすら寒い心地がかすめていく。それを男に悟られぬよう、彼は無造作に腕を組むことで誤魔化した。
「いいだろう。周囲に衛兵や諸侯共の雇った傭兵がいる様子もねえ。こいつは貰っていってやる」
「一つ要望がある。構わないか?」
「なんだ、言ってみろ」
ジグは視線だけで、ちらりと地面に伏したままのガウルを見やった。
魔術によって肉体の自由を奪われている、という設定であるため、ガウルは自ら起き上がろうとはしない。荒い咳はなんとかおさまったようだった。
「こいつの処理は任せるが、四肢を切断したり、目玉をくり抜いたり、そういう酷い真似はナシだ」
「なぜだ?」
男の剥き出しの顔に、さっと警戒の色が宿る。
「顔や身体の原型が分からなくなっては困る。一族への見せしめにならんからな。お前たちの専門は、ただ血を抜くことの筈だろう?」
「ふむ……。こいつは一体、何をしでかした?」
「詮索は無用のはずじゃないのか? 俺もお前たちの商売を仔細に聞こうとはしていない筈だが」
ジグの放った氷のように鋭い声に、男は一瞬だけ気圧されたようにたじろいだ。
この悪党も、やはり根はただの人の子なのだなと、ジグは当たり前の事実を冷ややかに思った。踏んではいけない一線を踏みそうになると、誰であれ動揺するものだ。
男は気を取り直すように不快そうに鼻を鳴らすと、ジグの手から先ほどの革袋をひったくり、中から金貨と銀貨を数枚、無造作に取り出した。
「なら、その手間賃を差し引いて、値段はこれくらいだ。文句はねえな? 最近はそういう五体満足で処理しろって要望が増えて、こっちも色々と大変でな」
「構わない。せいぜい丁重に扱ってくれ」
再び手元に返ってきた革袋の、さらに軽くなった重さを感じながら、ジグは内心で激しく舌打ちをした。
元より仲間を売って得た金など、こちらから御免被る代物だ。けれど、命を懸けている仲間をこれほど安く見積もられるのは、やはり腹の虫が収まらなかった。
「取引成立だ。ありがたく貰ってくぜ」
「最後に、さらに運びやすくしてやろう。意識があったままでは、こんな大男、道中で暴れられても運びづらくてかなわんだろう」
「へえ? そいつは助かるな」
「これも、これからの信用取引のうちだ」
「ふうん、中々商売ってやつが分かっていやがる。連れてきたのが男じゃなきゃ完璧だったんだがね」
男の下卑た言葉を耳に流しながら、ジグは地に伏したガウルへと静かにしゃがみ込んだ。懐から取り出した細い一本の針を握ると、彼の太い首筋へと容赦なく突き立てる。
男の目には、ジグが即効性の毒針を刺したと見えただろう。だが、実際は違う。ただの針を媒介にし、そこから睡眠の魔術をガウルの体内へと直接流し込んでいるのだ。
賊に怪しげな毒をわざわざ飲まされるわけにはいかないし、何よりアルスの丸薬のおかげで、今のガウルには毒そのものが効きづらくなっている。
ガウルが微かに身悶えし、喉の奥で小さなうめき声を漏らした。
あれ、もしかして痛かったのかなと、ジグは途端に不安になる。事前の打ち合わせで、最も痛みにくい部位を慎重に探して決めた筈だった。それとも、これも男を騙すための渾身の演技なのだろうか。もしくは両方? ジグには判断がつかなかった。
そうしているうちに、ガウルの瞳はとろりと微睡みに支配され、重い瞼は静かに閉じられていった。
顔を押さえつけた手のひらから、仲間の肉体が完全に弛緩していく感触が伝わってきて、ジグはすまねえな……と胸の内で深く詫びた。この作戦を発案したのはガウル本人なのだが、罪悪感が消えるわけではない。
「いいだろう、そこまでやってくれりゃ充分だ。おい! 荷台に乗せろ」
男が鋭く指図すると、薄暗い物陰から仲間と思しき者達が四人ほど這い出てきた。彼らは力の抜けたガウルの巨躯を乱暴に掴むと、傍らに引いていた荷車の荷台へと放り投げ、その上から雑多な荷物や乾いた牧草を大量に被せて偽装していく。
「約束を違えるなよ。もし守らなかった場合は、それなりの事が起きると思え」
「分かってるよ、おっかねえ奴だ。そろそろ行きな、長居すると衛兵に怪しまれる」
ジグは冷淡に男達に背を向け、その場を後にして歩み去った。
しばらく夜の裏路地を歩き、ようやく人の往来がある大通りに出始めた時、ジグはたまらず壁に背を預けた。口元を覆っていた布を外すと、肺腑の底から大きく溜息をつく。
全く、やってられねえ。こんな真似は二度とごめんだ――。心の中でそう毒づきながら、マントの裾で冷や汗に塗れた顔を乱暴に拭った。
「あいつ、本当に大丈夫かな……」
今しがた通り抜けてきた、迷宮のように入り組んだ裏路地の闇を見やりながら、ぽつりと心配の言葉がこぼれる。
身体には一切傷をつけるなと釘を刺したものの、相手は法を外れた悪漢だ。約束を守る保証などどこにもない。本当に危なくなったら、ガウルなら自力で縛めを断ち切って逃げ出すとは信じているが、それでも心配には変わりなかった。
「……考えても仕方がねえな。アルと早く合流しよう。次は、もっと安全な作戦を考えられるようにならねえと」
一度深く息を吸い込み、気持ちを切り替えると、ジグはアルスを待たせている宿に向かって走り出した。
走る途中、荘厳な教会のそばを通りかかる。その入口には、貧しい者への支援を乞う、頑丈な鉄製の募金箱が据え付けられていた。盗難対策なのだろう、簡単にはこじ開けられないような堅牢な造りだ。
走りながら、ジグは迷うことなく懐の革袋を開けた。そして一息に、中身の金貨と銀貨をすべてその隙間へと流し込み、そのまま足を止めることなく走り去った。
元より、大切な仲間を売って得た汚い金など、一銭たりとも使うつもりはなかった。
俺にとっては胸くそ悪い金だが、本当に困ってる奴に渡れば、少しは恵みになるだろ。金は金だからな。ジグはそう割り切るように思いながら夜の街を駆け、空になった革袋さえも道端のゴミ箱へと投げ捨てた。一刻も早く、アルスの待つ宿へと戻るために。
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宿の一室に取り残されたアルスは、所在なさげにただ一人、窓から外の景色を眺めていた。
二人は、無事なのだろうか。ガウルは、本当に大丈夫なのだろうか。一度気を揉みはじめたら、胸の内の不安はきりがなく膨れ上がっていく。
張り詰めた心を少しでも静めようと、アルスはほんの少しだけ窓を開け、夜の乾いた風に身を晒した。丘の上の高い場所に位置するこの一室ならば、地上から誰かに見上げられることもないだろう――そう思い至り、彼は注意深くマントのフードを背へと割いた。
ふわりと、夜風が室内に滑り込む。
隠されていた長く美しい銀の髪が月光を浴びて淡く揺れ、神秘的な黄金の瞳が、星々を映してきらめいた。
「――動き始めましたね」
遥か眼下に広がる黄金都市の街並みを見下ろしながら、アルスはぽつりと呟いた。
出発の前にガウルに飲ませた丸薬。そこに練り込んでおいた固有の魔術が、かすかな軌跡を描いて移動し始めたのを、その鋭敏な霊性で感じ取ったのだ。
「ええ。友人を探しているのです。少しだけ、手伝ってもらえませんか」
誰もいないはずの虚空に向けて、アルスは優しく語りかける。
人の目には見えずとも、彼の周囲には無数の精霊たちが集い、戯れていた。人々の雑踏から隔絶されたこの静かな高台の部屋なればこそ、大都市の喧騒に遮られることなく、彼らの微かな声を聞き取ることが出来るのだ。
精霊という存在は、いつだって気まぐれで、人間に都合よく従う者たちではない。
力を貸してほしいと願っても、彼らは決まって『なぜ、私たちがそのようなことをしなければならないの?』と、問いを投げかけてくる。
だからこそ、アルスはその理由を、いつも真摯な祈りとともに語りかけていた。彼らは心から納得しなければ、決して動いてはくれない。もっとも、アルスの清らかな言葉は、いつも彼らには容易く受け入れられているようだったが。
「――ありがとうございます。これで、私にもよく見えます」
虚空のきらめきに向けて、アルスはそっと微笑みを返した。
精霊たちの加護を得た彼の瞳には今、ガウルの身体に沈んだ丸薬――その魔術の軌跡が、先ほどよりもはっきりと浮き彫りになって視えていた。暗がりに微かに揺らめいて見えるのは、世界の理、魔術の源たるエーテルの輝きだろう。
自分もジグのように、普段からエーテルを難なく見ることが出来たら……と、不意に胸の奥で思う。
精霊たちの力を借りて、ようやく微かに視ることしか叶わぬ自分がもどかしい。大魔術の激しい脈動によって、一箇所に濃密なエーテルが集中でもしなければ、自分の目には映らないのだ。けれど、今はそれでも構わない。彼らの助けさえあれば、こうして「女神の名残」を確かに追うことが出来るのだから。
けれど――と、アルスは思考を巡らせる。
先日のことだ。非業の死を遂げた者たちへ祈りを捧げた時、なぜ自分の周囲に、あれほど鮮烈なエーテルの燐光が現れたのだろうか。あれは、女神の気まぐれだったのだろうか。まさか、そんなはずは。もう人の姿をとることは難しいと、あの御方は仰っていたではないか。
だが、二度と会えないとは言わなかった気もする。あの美しい燐光の姿を借りて、自分に会いに来てくれたのだろうか。一度考え出すと、思考の迷宮に終わりは見えそうになかった。
「あ、いけません。私ったら……」
いつの間にか、意識が彷徨っていた自分を小気味よく戒め、現実へと引き戻す。
今は何よりも、危険な闇へと赴いたガウルの心配をしなくてはならない。
「どうか、無事でありますように」と、胸の前でそっと両手を合わせ、瞳を閉じて祈りを告げる。そして心の中で、もう一つの願いを重ねた。今後の旅で、お二人の負担を少しでも減らせるような何かを、私が担えますようにと。
精霊たちは、そんなアルスの健気な心を慰めるように、絶えず辺りを飛び交い、賑やかに話しかけてくる。その様子に、アルスはふっと異国の地に想いを馳せた。
神聖王国の神官様たちも、毎日このような生活を送っているのだろうか。精霊たちと対話し、ただ静かに祈りを捧げて。
いつか、行ってみたいと純粋な憧れが胸をよぎる。もちろん、その時にはジグとガウルも一緒に。
「も、戻ったぜ……」
背後から唐突に聞こえた掠れた声に、アルスは弾かれたように振り返った。
部屋の入口には、ひどく息を切らせたジグが立っていた。その身に纏う衣服は、昼夜の寒暖差を忘れるほどの汗でぐっしょりと濡れそぼっている。
「お帰りなさい、ジグ。無事だったのですね?」
「なんとかな……。最初の取引は、こちらの目論見通りうまく立ち回れた」
「――とりあえず、お水を。それから身体も拭きましょう。そんなに濡れていては風邪を引いてしまいます」
「すまねえ、助かるよ」
ジグは差し出された器の水を、渇いた喉へ一気に飲み干した。
先ほど路地裏で行われた、あの悪趣味極まる取引の残滓――胸の底に澱のように溜まった苦々しい思いも何もかも、この冷水と一緒に胃の底へ落ちて消えてくれと願いながら、彼は二杯目の水も一気に煽るのだった。
「そんで……ガウルの足取りは追えそうか?」
ジグは差し出された布で身体の汗を拭いながら、視線をアルスへと向けた。
荒かった呼吸が整うにつれ、目の前のアルスが無事であったことへの安堵がじわりと湧き上がってくる。すぐ近くにはエレナとヴァレリアが待機してくれているとはいえ、やはり一人残していくのは、どうにも心細く心配だったのだ。
「ええ、ちゃんと視えていますよ。ジグ、手を」
「俺の手を?」
「はい。精霊たちに見せてもらっている光景を、ジグの意識にも」
「おお……なんだか、ちょっと緊張するな」
いくら拭ったとはいえ、先ほどまで裏路地を這い回り、汗と埃に汚れている己の無骨な手だ。それをアルスの手に重ねてよいものか、ジグは一瞬躊躇った。しかし、意外にもアルスの方から躊躇いなくしっかりとジグの手を握り込んできたため、ジグは観念してその流れに身を任せ、静かに瞼を閉じて意識を集中させた。
「んー……、なるほど、こんな感じなのか。俺の頭にも、はっきりと視える」
「エーテルの流れを追うのは、ジグの方が得意でしょう? 街の隅々まで、ここからなら克明に追えるはずです」
「わかった……。ちょっと待ってな、このままの姿勢を保ってくれ」
ジグはアルスに細い指を絡められたまま、瞼の裏側に浮かび上がる光の奔流に意識のすべてを研ぎ澄ませた。
精神の視界に映し出されたのは、先ほど自分がガウルを悪党どもに引き渡した、あの薄暗い場所――黄金都市の西側の一角だった。港湾地帯に近く、迷宮のように入り組んだその地形は、奴らにとっても闇取引を行うには格好の隠れ蓑なのだろう。エーテルの光跡はそこから動き出し、一度南の区画へ迂回し、それからわざわざ街の中央へと舞い戻っている。
(なるほど、あくまで真っ当な商人を装って移動しているわけか。小賢しいな)
ジグは胸中に湧いた冷ややかな感情をすぐさま振り払った。わずかな雑念の乱れが、この繊細な同調の視界を霧散させてしまうかもしれない。
奴らの気配は、その後しばらく中央の賑やかな区画に留まっていたようだった。しかし、やがて再びエーテルの軌道が静かに動き始め、そして――ある一点でぴたりと静止した。
「この場所は……北東のあたりか? そこで動きが止まったみたいだ」
「私もそう思います。事前にお借りしておいた、この街の地図の構造とも完全に一致していますね」
ジグが静かに目を開けると、二人の前のテーブルには羊皮紙の地図が大きく広げられていた。
こうして改めて俯瞰してみると、アル・ハミドは実に広大な大都市だ。徒歩で全てを巡るとなれば、丸一週間は優にかかるのではないか。ジグは意識の片隅でそんな途方もない感想を抱く。
「よおし……。支度をしてすぐに向かおうぜ」
「はい。部屋の外のエレナさんとヴァレリアさんにも一声挨拶をしてから行きましょう。実際に街へ出れば、より鮮明にエーテルを追いかけることが出来るはずです」
「あ、そうだ。まだその辺りに精霊ってやつはいるのか?」
「ええ、まだ私たちの周りにいてくれていますよ」
アルスがそっと手を離すのと同時に、ジグが問いかけた。
ジグは今しがた脳裏に閃いた懸念を言葉にしようと、焦点を結ばぬ視線を虚空へと彷徨わせる。どれほど目を凝らしても、ジグの目には精霊の姿など微塵も映らないのだが。
「それじゃ、実体のないやつとどうやって戦ったらいいか、ちょっと聞いてみてくれねえか?」
「実体のない……先日出会った者のことですね」
「そういうことだ。フェルノとか名乗っていたっけか。あの得体の知れない奴が、この街に潜んでいる可能性は高い。次はなんとかして打つ手を決めねえとな」
そう口にしながら、ジグは胸の奥に再び不安の影が差すのを感じていた。
ガウルが連れ去られた先で待ち構えていたとしたら――。いや、奴が人間の悪党どもを直接従えて表に出てくるとは考えにくい。人間一人ひとりの矮小な営みに執着するような手合いには見えなかった。どちらかと言えば、底知れぬ暗闇の奥で糸を引くタイプだ。うん、きっとそうだ。ジグは必死に自分に言い聞かせ、心の揺らぎを抑え込もうとした。
ジグのそんな微かな動揺を余所に、アルスは周囲の虚空へと黄金の視線を走らせ、微かな声で精霊たちと言葉を交わし始めた。しかし、どうしたことかアルスは精霊たちの言わんとする真意を掴み切れずにいるらしく、珍しくそのやり取りに苦労し、眉をひそめている。
「……つながりを、断ち切る……?」
「つながり?」
「実体のない生命……ありえない……。つながり、断ち切って、精神に……」
「ううん……。一体、どういう意味なんだ?」
ジグがたまらず聞くと、アルスはいつの間にか窓の外の夜空へと視線を移していた。
「――行ってしまいました。どうやら、今日のお喋りはここまでみたいです」
「気まぐれな連中だな……。まあいい、きっかけだけでも掴めたなら上等だ。とりあえず、今はガウルのもとへ急ごう」
「ええ、まずはそちらに全力を注ぎましょう」
出立の準備を手早く済ませ、二人が重い木製の扉を開けて部屋を出ようとしたその刹那、アルスはふと足を止め、一度だけ誰もいなくなった部屋の中を振り返った。精霊たちが去っていった窓の向こう側の景色に、今一度視線を送る。
先ほど、ジグの質問を精霊たちに伝え、その詳細な意味を問いかけていったとき――。
何故、彼等は魔王に少し同情的だったのだろうか。アルスには不思議でならなかった。




