054 血脈に広がる毒 ②
今より、ほんの少し前の事――。
幾夜もの野営を経てようやく辿り着いた、黄金都市たる連合国の首都アル・ハミド。その堅牢な城門を一歩潜り抜けた瞬間、ジグとアルスの二人は、目の前に爆発的に広がった途方もない都市の広大さと、絶え間なく押し寄せる圧倒的な人の波に、完全に言葉を失い圧倒されていた。
大陸中からあらゆる富と、名声を求める人々が集まるという噂に一切の嘘はなく、街の景観を彩る建物も、精緻な意匠が施された見事な石造りのものばかりが整然と立ち並んでいた。その遥か中心部、有力諸侯たちが日夜覇権を競い合う中央議事堂は、同時にこの広大な連合国を束ねる最高権力者――盟主ロレンツォの居城でもあり、周囲を睥睨するようにその威風堂々たる巨大な姿を陽光の下に晒している。
一体どれほどの凄絶な歴史と、果てなき時間をかけてこれほどの怪物のごとき大都市へと成長を遂げたのか。今を生きる若き彼らにとっては、その歴史の欠片すら容易に窺い知ることなど出来ぬほど、アル・ハミドの存在感はただただ圧倒的であった。
「……信じられません。これほどまでに、多くの種族の人々が一つの一大都市に集まるのですね」
「ほおー……、こいつは予想以上にすげえや。獣人に、空を飛べる翼の生えた有翼人、それに俺と同じエルフの姿も所々にチラホラ見えるな」
アルスとジグは、右も左も見たこともない異国情緒に満ちた喧騒をキョロキョロと眺めながら、子供のように素直に感心したような声を漏らす。
「間もなくこの首都で、大陸中の猛者が集う『大武闘会』が開催されるらしいからな。街がこれほど活気に満ちているのは、その狂騒のせいもあるんだろうが」
感嘆する二人の斜め後方から、周囲の護衛を兼ねるようにして、巨漢のガウルが低く落ち着いた声で補足を加えた。
彼らの周囲には、すれ違うのも一苦労なほど所狭しと多種多様な人々が溢れかえっており、この過酷な砂漠地帯特有の乾いた気候も相まって、都市全体が沸き立つような凄まじい熱気と活気で満ち満ちていた。
アルスが初めて目にする砂漠の特産品や華やかな異国の衣服に次々と輝く視線を送り、ガウルがそれらの疑問に一つずつ丁寧に大人の知識で答えてやっている、その傍らでのことだった。
ジグの視線が、ふと、大通りに店を構える一軒のささやかな露店の商品へと釘付けになった。
「おっ……」
並べられた品物の一つに小さく声を漏らすと、ジグは並んで歩いていた二人に気付かれることもなく、まるで吸い込まれるような自然な足取りで、ふらふらと人混みを割って露店の方へと向かっていった。
「――おい、アル。……ほら、これやるよ」
それからしばらくして、背後から不意にジグのぶっきらぼうな声に呼び掛けられ、不思議そうに振り返ったアルスの白い手のひらの上に、涼しげなガラス製の小さな小瓶がぽつんと手渡された。
「……? これは、香油ですね。一体どうしたのですか、ジグ?」
「まあ……なんとなく、だ。いつも旅の道中じゃ、お前には色々と世話になってるだろ……。お前、なんとなく昔からこういう代物、好きそうだしよ」
街の喧騒の中で無駄に目立たぬよう、相棒のアルスと同じくマントの薄汚れたフードを深く頭から被っているジグの表情は、暗がりに隠れてよく見えない。
ほんの少し目を離した隙に、ジグは普段の彼からは全く想像もつかないような、アルスのためにと馴染みのない小洒落た贈り物を買い求め、何食わぬ顔で戻ってきたのだった。
「珍しいな、お前が贈り物なんて」
「う、うるせえな……」
「ありがとうございます、ジグ。大事にしますね」
「大事にしたらいつまでも使わないままだろーが。買った意味がねえだろ……」
アルスのあまりにも純粋な笑顔と、ガウルのいじわるなからかいの言葉に、段々とバツが悪く、耐え難いほどの気恥ずかしさが一気に込み上げてきたのだろう。ジグは顔を隠すように、被ったフードの紐をキュッときつく引き合わせ、二人から自らの顔が一切見えないようにした。
思えば、自分が他人のために何かを自発的に手渡すなど、一族が滅びてから一体いつぶりの事だったか……。ジグは胸の奥で、自分でもうまく整理のつかない居場所のない気持ちを、ひどく持て余していた。
段々と、ジグが己の柄にもない突発的な行動に微かな後悔を感じ始め、フードの中で不貞腐れ始めた、まさにその時だった。
大通りの喧騒から少し外れた、薄暗い裏路地の人気のない辺りから、カランと何かが激しく割れるような人々が激しく揉める物音と、それに続く、息を呑むような微かな悲鳴が、風に乗って彼らの鋭い聴覚を震わせた。
三人は一瞬でこれまでの和やかな空気を霧散させると、互いに顔を見合わせ、言葉を交わすことなく鋭い視線で無言のまま深く頷き合った。
そして次の瞬間には、それぞれの得物へといつでも手をかけられる態勢のまま、路地の闇の奥へと弾かれたように一斉に駆けていったのだった。
「いや、離してっ……!」
大通りの華やかな喧騒から完全に切り離された、薄暗い路地裏の人気のない空間に、悲痛な女性の拒絶の声が響き渡る。
「おいおい、そうつれねえ事言うなよ、お嬢ちゃん。無駄な手間かけさせんなって」
「私は、ただ道を尋ねただけです!」
「だからよぉ、親切な俺たちが直々に案内してやるって言ってんだよ。……俺たちの、最高に居心地のいい根城にな!」
下卑た笑みを浮かべた男たちの一人が、怯える女性の細い腕を強引に、力任せに掴み上げようとした、まさにその瞬間だった。
「な、……なんだぁっ!?」
突如、男は驚愕にその目を見開き、金縛りにでも遭ったかのように視線を己の身体のあちこちへと激しく走らせた。男の身体は、まるでその場に突如として現れた見えない石像にでもなったかのように完全に凝固し、指先一つ動かすことすら出来ずにいた。
周囲を取り囲んでいた仲間たちにも、一体何が起きたのか全く状況が理解できず、その顔に一瞬にして深い困惑と動揺の色が浮かび上がる。
「おい、そこのネーちゃん! 危ねえから今すぐその場に屈んでな!」
続けて、どこからともなく少年の鋭い怒号が耳に届くと、自分へと向けられた言葉だと瞬時に察した女性は、反射的にサッとその場に身を低くした。
女性が鮮やかに身をかわしたのと同時に、バリバリと激しい音を立てて数条の細い稲妻が空を切り裂き、身動きの取れぬ男たちの無防備な身体を正確に貫いた。凄まじい衝撃と共に、たちまちのうちに彼らは白目を剥き、その場に崩れ落ちるようにして地に伏していった。
ジグの微弱な魔術によって急造された雷とはいえ、不意を突かれた無頼漢たちを瞬時に痺れさせ、完全に気を失わせるには十分すぎる威力であった。
「――お怪我はありませんか?」
真っ先に駆けつけたアルスが、地面へと屈んだまま怯えていた女性へと、安心させるような優しい笑みを浮かべてそっと白い手を差し伸べる。マントから覗くその銀髪が、路地の僅かな光を反射して美しく揺れた。
「ふぃー! よし、こういう実戦での細かい調節も、我ながら大分モノになってきたな」
そのすぐ奥からは、まだ指先にパチパチと青白い雷の光を微かに残したジグが、自らの成長に心底満足そうな様子で歩み寄ってきていた。そしてそのすぐ隣には、いつでも追撃に移れるよう、投げナイフの柄に手をかけた低い姿勢のまま、周囲を鋭く警戒するガウルの屈強な姿もあった。
「ぐ、クソ……っ! ちくしょう、身体が、動かねえ……!」
しかし、一番最初にアルスの「光針」による影縫いを受けて石像のように固まっていた男のリーダー格だけは、驚異的な執念で喉から絞り出せるだけの悪態をつき、何とかこの不可視の拘束から逃れようと全身の肉体をもがかせていた。
激しい抵抗を受け、元より段々と効力の弱まりつつあったアルスの光針は、男の影を地面に縫い付けるだけの力を維持できなくなり、ついに男の放った強引な力に抗いきれず、パリンとガラスが割れるような音を立てて儚く砕け散った。やはり、魔術の針による影縫いは短時間しかその効力を維持できないらしい。
「あ! 綺麗に片付いたと思ったのに、一人逃がしちまったな!」
「焦るなジグ、俺が追いかける!」
悔しそうに声を上げるジグに対し、ガウルが即座に野太い声で応じるや否や、風を翻して猛然と駆け出した。
走りながら、ガウルは逃走する男への牽制のために、投げナイフを一つ、流れるような動作で素早く男の背中――その右腕目掛けて投げ放つ。しかし、男が一足早く必死の形相で通りの角を曲がったため、惜しくも直撃は免れ、ナイフは硬い石壁を掠めて地面へとカランと硬質な音を響かせて虚しく落ちた。
ガウルはあらかじめそのような回避は想定内であったかのように、微塵も動じることなく、鋭い獣のような足取りで素早く男の消えた角へと回り込み、入り組んだアル・ハミドの路地裏の闇をどこまでも激しく駆けていくのだった。
「クソったれが! 厄介な傭兵共に見つかっちまった!」
男は背後の仲間の安否など目もくれず、ただただ己の身の安全だけを最優先に、ひたすらに複雑に入り組んだ路地裏の闇を全力で走り抜ける。
このまま大通りへと一気に飛び出し、白日の下にうごめく無数の人ごみの雑踏へと紛れ込むことさえ出来れば、いかに鼻の利く追跡者であっても確実に振り払えるはずだ。男はそう確信に満ちた計算を胸に、喉を鳴らしながら一目散に走り抜ける。
――しかし、大通りまであと一歩という薄暗い十字路で、不意に、前方を遮るように佇む一人の青年が視界に飛び込んできた。
先ほど路地裏で自分たちへ容赦ない魔術の連携を叩き込んできたあの二人と同様に、彼もまた目深くフードを被っており、差し込む僅かな光ではその正確な顔立ちを伺い知ることは出来ない。ただ、その佇まいの背格好が明らかに洗練された男性のものであることから、男は直感的に「青年」だと判断した。
「そこをどけ、この野郎! 怪我したくなかったら、大人しく道をあけやがれ!!」
男は威嚇を込めた鋭い怒号をあげながら、腰からぎらついた短刀を素早く引き抜き、刺し違えるほどの勢いで突進する。
見たところ、重厚な甲冑を纏った戦士でもなければ、仰々しい杖を携えた魔術師の類でもない。ただの物好きな通行人ならば、どかない場合は軽く腕でも斬りつけて脅し飛ばしてやればいい。男は必殺の距離へと一気に肉薄する。
「……梢を揺らす風よ、今は凪げ。大樹の腕に抱かれ、深き木漏れ日の底へ」
しかし、青年は男の凶刃を前にしても微塵も動じることなく、まるで静かな森の中で祈りを捧げるかのような穏やかな言葉を唇から溢れさせながら、ゆっくりと、むしろ自ら一歩を踏み出した。
そして、男の振りかざした白刃が青年の無防備な腕へと無慈悲に襲い掛かろうとした、まさにその一瞬。青年の指先が、蛍のように淡く青い光を放ちながら男の額へと優しく触れると――信じられないことに、男はすべての能力を奪われたように、その場でピタリと動きを止めた。
男の手から力が抜け、零れ落ちた短刀が、冷たい石畳の上へとカランと虚しい金属音を立てて転がっていく。
「な、……なんだ……。テメエ、一体、何をしやが……っ」
最後までその呪詛のような言葉を言い終わるのを待つことなく、男の身体からは完全に力が抜け、まるで糸の切れた人形のように泥のように崩れ落ちた。その瞳は、抗いがたい強烈な睡魔の底へと屈服させられたかのように、重い瞼が完全に閉じられていく。
青年はフードの奥から穏やかな眼差しを向けたまま、倒れ伏した大男の横で、さてこの後はどうしたものかと静かに立ち尽くしていた。
「ん……? なんだ、一体何が起きた?」
遅れて路地の角から猛然と追いついたガウルが、目の前に広がっていた奇妙な光景に、思わず低く困惑の声を漏らして足を止めた。
見れば、アルスとどこか似通った、すらりとした男性的な身体つきをした見知らぬ青年の足元に、先ほど自分たちの網を掻い潜って逃げ出したあの賊が、無残に気絶して倒れ伏していたのだ。逃げた男は荒事にも慣れた中々の体格をしていたはずだが、まさか、武器も持たぬこの華奢な青年が一人でやったのか……? と、ガウルは不思議に思わざるを得なかった。
「……あ、すみません。貴方は、この街の衛兵の方ですか?」
「いや、悪いが俺は違う。そいつの仲間に裏路地で襲われてた民間人がいたんでな、逃げ出したこいつを後ろから追ってただけだ」
「そうですか。私も、この先から何か聞こえたような気がして、やって来た所なんです」
ガウルは相手から敵意が感じられないことを悟ると、多少の警戒を解き、青年に向かってゆっくりと歩み寄った。
足元の砂利を踏みしめる感触が、予期せぬ遭遇への警戒から身体が少し緊張しているせいか、いつもよりほんの僅かに荒く感じられる。
「……お前が、一人でそいつを捕まえたのか? 見たところ随分と体格差があって、素手の立ち回りじゃ不利なはずだが」
「ええ、確かに。真っ向から剣術などで戦えば、私など到底太刀打ちできないでしょう。ですので……魔術を少し使いました」
「魔術?」
ガウルは太い眉をグッと上げ、不思議そうに青年を見つめ、次にその足元に転がっている男を観察する。
だが、いくら目を凝らしても、ジグの放つような派手な攻撃魔術の痕もなければ、アルスの扱うような眩い光の術の精緻な名残りも、この空間からは一切感じられなかった。
「彼の額をよく見てください。……これは、術が込められた、薬草の粉です。詠唱によってエーテルを巡らせ、その粉を直接彼の額へと触れさせたことが引き金となって、肉体の内側から深い睡眠へと落ちていったのです」
「額に粉、な……たしかに、うっすらと何かが付いている。……なるほど、こういうのも、魔術と呼べるのか」
「興味がありますか?」
「まあ、少しな……」
ガウルは珍しそうに気絶した男の額を覗き込みながら、青年の言葉に対して、微かに口角を上げて不敵に答えた。
実際には、彼が言う「少し興味がある」どころではない。ジグやアルスという仲間に恵まれてからというもの、彼はかなり熱心に魔導の基礎を学んでいる最中なのだ。
「おーい、ガウル! そっちに行った奴、無事に捕まえたか?」
不意に、開けた後方の大通りへと続く道から、聞き慣れたジグの快活な声が響き渡り、ガウルはチラとそちらへ視線を向けた。
ジグは捕らえた残りの男たちを引き渡すため、すでに首都の衛兵へと連絡を取っている最中なのだろう。彼が魔術で作りだした数羽の美しい幻獣の鳥たちが、青い光の粒子を散らしながら空へと次々に放たれていた。
その後ろからは、アルスの腕にそっと支えられながら、先ほど裏路地で暴漢たちに襲われていたあの女性も、まだ顔を青くさせながら一緒に歩いてくるのが見えた。
「――彼らは、貴方のお連れ様ですか?」
「まあな。……どういうわけかお前さんみたいに、顔を隠したがる奴と知り合う事が多いもんでな」
ガウルは、自分と同じようにマントのフードを深く被ったままこちらへ近づいてくるアルスとジグの姿を見やり、それから目の前の青年へと再び視線を戻しながら、冗談めかして答え、微かに優しく笑った。
心強い仲間たちが合流したことで、張り詰めていたガウルの周囲の空気がふわりと和らいだのを敏感に感じ取ったのか、フードの奥の青年もまた、親しみやすさを覚えたように、ガウルと共に小さく温かな笑みをその顔に作ったのだった。
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「――というわけだ。俺がそのお嬢さんを待ち合わせ場所まで送っていこう。首都には昔、仕事の依頼で何度か来たことがあるからな、大体の地理と場所は頭に入ってる。お前達はここで少し待っててくれ」
ガウルはそう短く言い残すと、まだ怯えの残る女性の肩を優しく叩き、促すようにして路地裏の奥へと去っていった。
後から詳しく聞けば、その女性は地方から慣れぬ大都市へと初めてやって来て、広大すぎる街並みに完全に迷子になり、あらかじめ同行している者達と約束していた待ち合わせ場所が分からなくなってしまったのだと言う。
一体誰に何を聞けば良いのか……と途方に暮れ、悩んだ末に、路地口で見かけた一番安全そうで身なりの良い優男へと勇気を出して話しかけたのだ。だが、運悪くその後にぞろぞろと現れた彼の取り巻きの男達は、お世辞にも温厚な人物からは程遠い、闇市場の息がかかった無頼漢の集団だった。
本来なら、そのままジグとアルスと共に三人で街を歩く道すがら、その女性と、そして目の前の青年を一緒に送り届けようとしたのだが――。なんと間の悪いことに、この青年自身もまた、つい先ほど人混みの雑踏の中で自分の連れとは完全にはぐれてしまったのだと言う。
流石のガウルも太い腕を組み、ううむと低く唸って思考を巡らせた結果、ひとまず地理に明るい自分が一人でその女性を目的の場所へ送り届け、その間、身元の割れない青年はジグとアルスがこの場に付き添って留まることで、静かに見守らせることにしたのだった。
「そんで……、ルーファスだっけか? その連れってのは一体どんな奴なんだ?」
「彼は、そうですね……。一言で表すなら、絵に描いたような生真面目な騎士のような人ですね。とにかく声の大きな人ですから、近くまで来ればすぐに分かりますよ」
「では、貴方もその方と共に、この広い大陸を旅されているのですか?」
アルスの問いかけた「旅」という響きに、ルーファスはフードの奥で、どこか遠い目をしながら楽しげな笑みを穏やかに浮かべる。
「旅、ですか……。そうですね、そう言えるかもしれません。私は生まれ育った場所から外の世界に出た事があまりありませんから、私にとっては、こうして少し遠出をして異国の空気を吸うだけでも、十分に大冒険の旅のようなものです」
「では、私と全く同じですね」
「おや、アルスさんも、ご自分の故郷から外の世界へ出た経験がこれまで無かったのですか?」
「ええ。今はこうしてジグたち二人と一緒に世界の各地を巡っていますが、ほんの少し前までは、私も外の世界の広さを何一つ知りませんでした」
「不思議な共通点ですね、私もです。公務……いえ、用事でもない限りは、いつも同じ場所に閉じこもっている生活をしていましたから。今、この街で見るもの、触れるもの、その全てが新鮮で堪りません」
アルスとルーファスは、互いの似通った特殊な境遇や、どこか世間離れした品のある気質のせいもあったのだろう。言葉を交わすほどに、特に取り繕うこともなく自然と会話は水の流れる如く、おだやかでなめらかに弾み、初対面であるはずの二人の親交を、温かく少しずつ深めていくかのようだった。
(……なんか、見てるとアルスが二人に増えたみてーだな)
ジグは二人の会話の邪魔をしないよう、一歩引いた位置で静かに二人のやり取りを見守りながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
自分も含め、この場にいる全員がそれぞれの事情で頑なに顔を隠しているこの状況は、客観的に見ればどこか奇妙でもある。だが、お互いに素性を隠しているからこそ、かえって余計な偏見や身分の壁を取り払い、初対面でもこうして打ち解けて素直に話せるのかもしれなかった。
そんなことを思いながら、ふと、ジグはルーファスの被るマントのフードの、耳のあたりに視線をやった。そこには、エルフ特有の、少しツンと尖っているような、特徴的な長い耳のふくらみがうっすらと布越しに浮かび上がっていた。
(なるほどな。多分ハイエルフってとこか。そりゃあ、こんな血気盛んな人間だらけの荒っぽい首都じゃ、顔を隠して歩くのが大正解だわ)
ジグは二人の会話を聞きながら、一人で得心がいったように納得して深く腕を組む。
外界に出る事を好み、戦う術を磨いて傭兵稼業を自ら担う者も多いシャドウエルフ等と比べ、ハイエルフは、神聖王国の奥地から外の世界に出てくること自体が極めて稀である。先ほどルーファスが男に放ってみせた魔術の才があれば、並の悪漢など取るに足らないとはいえ、この大混雑の街で余計なトラブルを避けるに越したことはないだろう。
「――ルーファス様……っ! どこにおられますか、ルーファス様!」
しばらくの間、三人がそれぞれに静かな会話を交わしながら、ガウルの帰りをのんびりと待っていると、路地の外の大通りから、はっきりとルーファスの名を大声で呼ぶ男の怒号が聞こえてきた。その男の声には明確に焦りと狼狽の色が混じっており、肺腑から張り上げる声にも力がこもっていた。
「ああ。どうやら、噂をすれば彼の方からこちらを探して、来てくれたみたいです」
声の響いてくる方向を優しく見やりながら、ルーファスはフードの隙間から目を細めて、ホッとしたように微笑む。
「もうこんな見知らぬ土地で、大事な連れとはぐれるんじゃねえぞ」
「本当によかったです。お気をつけて、ルーファスさん」
ジグとアルスは、無事に同行者の見つかったルーファスに対し、安堵した様子でそれぞれ温かい声をかける。
ルーファスを必死に探すその騎士らしき男の声は、なおも大きく、力強く周囲の石壁へと響き渡り、アル・ハミドの夕暮れの喧騒の中を遮るように駆け巡っていた。
「私の不手際で、貴重なお時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした。ありがとうございました。ガウルさんにも、どうかよろしくお伝えください」
ルーファスは二人に深々と礼を言い、いよいよその大きな声のする方へと、ゆっくりと歩み出す。
そして、少し歩いて大通りに出る直前、ルーファスは名残惜しそうに、もう一度だけ二人へと振り返った。
「――もし、いつか貴方たちが『神聖王国』へ来ることがあったら……。もしかしたら、またどこかで偶然お会いできるかもしれませんね。普段、私は外の方とこうして深く触れ合う事は殆どないので、今日は短い時間でしたが、とても楽しかったですよ。……それでは、お元気で」
ルーファスは二人へ向けて、気品に満ちた美しい別れの会釈を一度だけ残すと、今度こそ、黄金に輝く大通りの果てなき雑踏の中へと、溶け込むようにして消えていったのだった。




