050 黄金都市の影 ⑤
連合国の首都アル・ハミドを北に進んだ、荒涼たる大地の闇の中に、五人の人影がひっそりと佇んでいた。
月明かりさえも届かぬ深い夜闇に紛れて進む彼らの輪郭を、外から窺い知ることは到底叶わない。しかし、足音一つ立てぬ洗練された身のこなしや、闇夜を凝視する鋭い視線の鋭さから、彼らがそこらの不届きな流れの賊などではないことは、容易に察することができた。
そして何よりも、もし今が光り輝く昼間であったなら、彼らが静かに引き連れているものの姿に、誰もが注目を寄せたことだろう。彼らが手綱を握り、大人しく従わせている三頭の馬の背には、夜風を孕んで微かにうごめく、見事な白銀の「翼」が生えていたのだ。
「……ここですね」
一人の気品ある青年が、息を潜めるようにして静かに声を漏らす。
五人の目の前に聳え立っていたのは、不気味に建造中の、巨大な塔の建造物であった。未だ基礎となる無骨な骨組みが複雑に組まれているだけのその異様な姿は、暗黒の荒野において、さながら肉を削がれて打ち捨てられた巨獣の「朽ちた亡骸」にも見えた。
「確かに、形や構造の様式は、王国の『天使の塔』に酷くよく似ていますが……。まさか、あんなものが、このような地に……」
青年のすぐ傍らに控えていた、護衛と思しき男が、暗闇の中に黒い影となって聳え立つ歪な建造物を見上げ、苦々しげに声を漏らす。
「……何か、気付いたことは分かりますか? セレス隊長」
青年が、さらに一歩後ろに控えていた厳格な雰囲気を纏う女性へと声を掛けた。
セレスと呼ばれたその女性は、無言で前に進み出ると、未だ骨組みだけの残骸のような建造物の冷たい木材へとそっと掌を触れ、静かに目を閉じて己の意識を集中させた。
「……今の、この未完成の段階では、何も魔力の残滓は感じられません。そもそも、本国からこれほど遠く離れた、エーテルの希薄な場所に、王国のあの莫大なエーテルを受け取るための装置を作るとも思えませんが……」
建造物の天辺を冷徹に見上げながら、セレスは困惑を隠せない様子で言う。
「でもなんか、天馬達がさっきからずっと羽を震わせて、落ち着かない様子なんですよね。やっぱり、人間の目には見えない何か不吉なものが、ここにあるんじゃないですか?」
「それ、ただアンタが暗闇にビビってるのが、手綱を通じて天馬達に伝わっちゃってるだけじゃないの?」
セレスの後ろで馬を並べていた、若い男女の団員が小声で言葉を交わす。
男の方はどこか優しく気弱そうで、女の方は勝気で男勝りな印象を持たせる、実にハキハキとした声色と雰囲気を纏っていた。
「ほら、ニルスにフランカ。あまり大きな声を出すのではない。誰かに気付かれて、騒ぎにでもなったらどうするのです」
セレスは振り返り、申し訳なさそうに頭をかくニルスと、「アンタのせいで私まで注意されたじゃない」と不満げに鼻を鳴らすフランカを、まるで手のかかる我が子を見るような、深い慈愛の眼差しで眺めた。
全く、これほど性格が正反対の二人だというのに、戦場ではどうしてこれほど上手くやっているものだと、半ば呆れ混じりに感心してしまう。
「しかし、我ら王国の人間すらその実態が定かでない、あの不可侵の塔に似せたものを、この連合の首都近郊にわざわざ作るとなると……」
「そうですね。何者か……王国の内情に深く通じた不穏な存在の関与があるのは、もはや間違いないでしょう」
護衛の男が腕を組んで深い懸念を示し、気品ある青年が静かに同意する。
「姿を隠すためとはいえ、明かりも灯さずにこれほど暗くては、これ以上構造を詳しく調べることにも限界がありますね」
セレスが小さな溜息とともに、触れていた手を離して言った。
月明かりさえも厚い雲に遮られた今夜の暗闇では、網膜のすべてが黒に塗りつぶされ、ほんの数歩先の景色すら定かではないのだ。
「仕方がありません。元々、一度の潜入で全てを把握できるなどとも思っていませんでしたから」
「では、当初の手筈通りに?」
「ええ。このまま、アル・ハミドの街へ向かいましょう」
護衛の男の問いかけに、青年は穏やかに、しかし芯の通った声音で答える。
顔さえも見えぬ暗闇の中だというのに、その青年の立ち振る舞いから溢れ出る圧倒的な気品と所作は、ありありと周囲の者たちに伝わってくるかのようだった。青年が生まれながらにして持っている、特別な血統の雰囲気が、そうさせているのかもしれなかった。
「本当に、お二人だけで首都に入って大丈夫なんですか?」
「私かニルスのどっちかでよければ、天馬を降りて、このまま一緒に護衛として残れますよ。……まぁ、ニルスを置いとくより、私の方が何倍も適任だと思うけど!」
「僕だって、いざとなったら必死で護衛くらいなら出来るよ。……多分、だけど」
「その『多分』じゃダメでしょう! ほんとにあんたは、いっつも肝心なところでいい加減なんだから!」
ニルスとフランカが、心底心配そうな表情で青年へと代わる代わる声をかける。
青年は、そんな二人のいつも通りの賑やかなやり取りを、クスリと楽しそうに笑いながら眺めていた。いつ命を狙われるか分からない、極限まで気を張り詰めかねない潜入の状況であっても、普段と全く変わらない二人の無邪気な様子は、凍てつきそうな精神を優しく落ち着かせてくれる、何よりの清涼剤であった。
「心配してくれてありがとう、二人とも。でも、貴方達には騎士団としての本来の任務があるのでしょう? こうして、無理を言ってここまで極秘に送り届けてくれた、それだけで充分ですよ」
「滅相もございません……。ただ、最近は我が天馬隊も、騎士団上層部からの雑多な小間使いばかりを命じられ、腕の立つ者たちが皆あちこちへと出払ってしまっていて。これほどの手薄な人員でしかお供できず、申し訳ありません」
天馬隊隊長であるセレスが、青年へ向けて痛恨の思いを滲ませながら言葉を漏らす。それを耳にしたフランカは、ここぞとばかりに深い溜息をついた。
「ほーんと……、王国の『天馬隊』って言ったら、かつては戦場の空を舞う誰もが憧れる最高の花形だったのに。なんで最近は、あんな偉そうな奴らのお使いばっかやらなきゃいけないのよ。納得いかないわ」
「まあまあ……、最近は大きな魔物の襲撃以外で、国同士の激しい争いもないわけだし……」
「そーいう次元の問題じゃないの!」
フランカとニルスの対照的なやり取りに、再び青年が小さく鈴の鳴るような笑い声を漏らす。
その傍らで控えている護衛の男は、若者たちの弛緩した態度とは対照的に、固く腕を組んだまま、兜の奥で「ふむ」と小さく唸っていた。おそらく、彼は彼で、騎士団の現状に強い危機感を抱いている人間なのであろう。
「そこまでよ、二人とも。……では、そろそろ時間ですね。これ以上夜道で時間を浪費して、万が一にも不届き者に襲われてはいけません。首都の目と鼻の先までお送りします」
「ええ、よろしくお願いします」
「今日、初めて背に乗せてもらいましたが……、中々どうして、慣れませんね。天馬という生き物は」
青年が至誠の礼を言いながら、セレスの操る気高い天馬へと優雅に跨り、一緒に乗せてもらう。
護衛の男はフランカの天馬の背へと力強く飛び乗り、ニルスは一人で己の天馬の手綱を握り、先行する二頭の背を追うようにして位置についた。
「ニルス、飛び立つ時に、あまり不格好に翼の音をバタバタ立てるんじゃないわよ」
「大丈夫だよ、しっかり風は読むさ。……多分ね」
最後の軽い言葉を交わし終えた一行は、大きく翼を広げ、漆黒の地上を蹴った。
三頭の白い影は、音もなくしなやかに空へと舞い上がり、アル・ハミドの空を不気味に覆い尽くしていた、あの重く厚い雲の夜空へと紛れて、瞬く間にその姿を消していった。
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「……しかし、本当に二人だけの来訪になってしまいましたね」
遠い夜空の彼方へと、漆黒の雲を切り裂いて飛び去っていく天馬隊の小さき影を見送りながら、護衛の男がぽつりと呟いた。
アル・ハミドの堅牢な外壁が目前に迫ったこの辺りまで来ると、街道沿いには一定の間隔でエーテル灯が厳かに建てられており、月明かりの無い不吉な夜であっても、足元はほのかな白銀の明かりによって優しく照らされていた。
「仕方がありませんよ。本国において、私はいま『行方不明』の扱いになっている筈ですからね。このような異国の地へ、大勢の供を引き連れて堂々と乗り込むわけにもいきません」
「……くれぐれも、これからは目立つ行動はお控えください、殿下」
エーテル灯の薄明かりに照らされ、二人の旅装のシルエットがおぼろげながら夜闇の中に浮かび上がる。
畏れ多くも「殿下」と呼ばれたその青年は、夜の闇にさえ美しく映える白く透き通るような肌に、夜風に揺れる鮮やかな青く短い髪、そして深い湖を思わせる神秘的な青い瞳を有していた。衣服の隙間から覗く青年の耳の端は小さく尖っており、彼が誇り高き長命種、エルフ族の血を引くものであるという事実を雄弁に示していた。その尖った耳に一際気高く着けられた耳飾りが、エーテル灯の微かな光を受けてチカチカと煌めく。
「ほら、さっそく『殿下』と貴方が呼んでしまうと、こうしてお忍びで遠路はるばる来ている意味がすっかり無くなってしまいますよ」
「あ、いえ……! つい、その……いつもの王宮での癖が抜けず。申し訳ありません」
嗜められた護衛の男は、短く切りそろえられた見事な金糸の髪を夜風になびかせながら、酷く恐縮したように頭を下げた。その精悍で隙のない顔立ちと、意思の強そうな黒い瞳は、彼が王国の生真面目な騎士団員としての高潔な魂を持っていることを示しているかのようだった。
年齢はまだ三十を超えないくらいか。長身で限界まで鍛え上げられた強靭な肉体には、その素性を隠すため、あえて安物の冒険者を装う、着古された革製の旅装が纏われていた。
「しかし、これからの潜入において、互いの本名すら呼べないというのは些か不便ですね」
「では、便宜上の偽名を使いましょう。幸い、この連合国の首都近郊には、殿下……いえ、我々の姿や顔を知るものなど、そうはいない筈です。ただ名を隠す、それだけでも格段に動きやすくなるでしょう」
「偽名ですか。ふふ、なんだか幼い頃、城の裏口を抜け出して遊んでいた、あの子供の頃を思い出しますね」
慈雨のように穏やかに笑う青年の美しい横顔を、護衛の男は引き締まった険しい顔付きのまま、しかしその奥底で暖かな情愛を燃やしながら静かに見守った。
一体どうして、目の前にいるこれほどまでに優しく慈悲深い殿下に、あれほど理不尽な災難が突然降りかからねばならなかったのかと、男は自らの無力さに激しいもどかしい思いも同時に抱いていた。
「なら私は、そうですね……これからは『ルーファス』と名乗りましょう。貴方はどうしますか?」
「では私は……『ガルヴァイン』と名乗ることにいたします」
「ガルヴァイン……」
護衛の男が口にした、そのあまりにも重い決意を秘めた偽名を聞き、ルーファスは複雑な憂いを帯びた色彩をその青い瞳に宿した。
ガルヴァインの顔には微塵の迷いもなく、眼前の任務に全てを捧げる、いつもの厳格な彼と一寸の狂いもなかった。
「まだ、ずっと探しているのですね。……お兄様のことを」
「はい。兄上は、きっとどこかで生きておられます。数年前のあの処刑の布告など、王国内での政治的地位と権力を高めたいだけの、上層部の連中の企みに過ぎません。そもそも兄上が、国に対する謀反など起こすはずが……!」
ガルヴァインは、自分がいつになく感情的になって熱くなり、一息に喋りすぎている事に不意に気付くと、「……申し訳ありません、つい私情を……」と、日に焼けた精悍な顔をほのかに赤らめながら、バツが悪そうに小さく咳払いをした。
「いいんですよ。王国内の情勢が、ここ数十年にわたって長く乱れ、歪んでいるのは紛れもない事実です。その濁流に、貴方のお兄様が巻き込まれてしまった可能性は大いにありましょう」
「いえ、主君をお守りすべき身でありながら、私情を挟んでしまい、本当にすみません」
「構いません。……けれど、二十年という歳月が過ぎていれば、当時の顔も、体つきも、かつての面影はほとんどなくなっているでしょうね。……ですが、ここで貴方が『彼の名』を自ら名乗って街を歩く事は、何よりの確実な伝言になります。もしお兄様がこの地に生きておられるなら、もしかしたら、私たちの心強い味方になってくれるかもしれませんから」
「……! はい。本当に、ありがとうございます」
二人は深く魂を交わすようにそう言葉を交わすと、再びマントの襟を立て、ありふれた流れの旅人を装って、巨大な首都の正門をくぐるべく、ゆっくりと歩み出した。
眠らぬ街、という事前の噂は決して誇張などではないらしく、街の重厚な城門が近づくほどに、まるで白昼であるかのように、多種多様な人々の出入りが絶え間なく続いていた。
ルーファスもガルヴァインも、こうして連合国の首都を直に訪れたのは生まれて初めての経験であったが、その圧倒的な広大さと無秩序な熱気には、ただただ息を呑むばかりであった。
彼らの生まれ故郷である美しい王都ヴァイスホルンでは、夜の帳が降りれば、街全体が神聖な祈りと共に静まり返るのが至高の美徳とされている。だというのに、目の前に広がるこの混沌とした大都市には、そもそも「時間」や「安息」という概念そのものが存在しないのかもしれないと、二人は圧倒されながら思ったのだった。
「殿下……いや、ルーファス様。そろそろマントのフードを深く被られた方がよろしいかと思います」
「そうですね。周囲を見渡せば、立派な尻尾を持つ獣人の方や、珍しい異種族の方達もたくさん見かけますが……。私のような純血のエルフは、この南国ではやはり、少々目立ってしまうかもしれませんね」
苦笑を漏らしながら、ルーファスはマントの大きなフードを引き寄せ、その美しい青髪と特徴的な尖った耳をすっぽりと覆い隠した。
大陸中からあらゆる人間と欲望が集まるという評判通り、周囲には獣の尻尾や頭上の角、鋭い牙を持つ種族の者、あるいは人間とは明らかに異なる肌の色を持つ者など、多様な人々で溢れかえっていた。
「そういえば、道中の商人が話していましたが……。このアル・ハミドでは、近々大々的な『武闘会』が催されるそうですよ」
「ええ。この連合国で毎年行われている、大きな大会の時期だそうです」
「もしよければ、貴方が出場してみてはどうですか?」
「えっ……! 私が、ですか?」
ガルヴァインは思いもよらぬ提案に少し驚愕し、歩みを止めてルーファスを見やった。
隣を歩くルーファスは、フードの奥から、いたって穏やかで悪戯っぽい雰囲気のまま、ガルヴァインの顔を見上げていた。エルフという神秘的な種族の性質、そして気高き王族であるという二つの厳然たる事実は、ガルヴァインにとって、いつもルーファスの真意の深さを完璧に推し量ることを難しくした。
「もしも、貴方のお兄様が未だ剣を捨てず、この街のどこかに身を潜めているのだとしたら。彼の名前が大会の舞台で高らかに響き渡れば、必ずその耳に届くはずです。闇雲に広大な首都を探し回るよりも、ずっと確実だと思いませんか?」
「しかし……。 私には何よりも、ルーファス様の御身を不審な影から護衛するという絶対の任務が……」
「大丈夫ですよ。出場者の関係者や同伴者は、特別席で安全に観覧出来る仕組みになっていると先ほど小耳に挟みました。一般の方々に紛れて客席にいるよりは、むしろそちらの方が遥かに安全だと思いますよ。それに……、多少の魔術による護身なら、これでも私にだって出来ます。それにね、この国の動向を探るなら、時には自ら懐の中へ飛び込むのも、必要な事かもしれません」
「う……うむ……。しかし、それは……しかし……」
主君のあまりにも理路整然とした、しかし大胆極まりない美学に満ちた提案に、ガルヴァインは頭を抱え、唸りながら悩み悶絶した。
そんな彼の頼もしい背中を優しく押すように、楽しげに言葉をかけながら、二人は眠らぬ混沌の街の中へと、静かに姿を消していった。




