049 黄金都市の影 ④
施設の中は、相変わらず議事堂の最上階にも負けぬほど、毛足の長い上質な絨毯が隙間なく敷き詰められており、カシムが歩む足音のすべてを静かに吸い込んでいく。
ここまで徹底した、病的なまでの配慮をしなければ、プライドばかりが高い群雄たちを満足させられないのだから、迎える側も大変だな……と、カシムは歴代の盟主たちが積み重ねてきたであろう苦労に、心の中で同情を禁じ得なかった。
絶対的な王権が君臨する「神聖王国」の王宮や、圧倒的な魔力と血統が支配する「魔道帝国」の帝城においては、これほどまでに余所者へ向けた過剰な気配りなど見受けられない。対等な立場を主張する各諸侯が、水面下で互いにしのぎを削り合うこの「連合国」ならではの、いささか歪な哀愁とも言えた。
「これは、カシム殿ではありませんか。ご無沙汰しております」
「これはレオンハルト殿。……おっと、こちらから先に気付かずに申し訳ない。お元気そうで何よりです。ご病気でしばらく政務を休まれていると風の噂に伺いましたが」
しばらく豪奢な通路を歩いていると、背後から低く耳心地の良い声が響き、カシムは軽やかに振り返った。
そこに佇んでいたのは、連合国東部の要衝を治める諸侯、レオンハルトであった。彼の健在な姿を目にした瞬間、カシムの胸には「これは幸先が良い兆候だ」という確かな確信が芽生えた。というのも、このレオンハルトという男こそ、カシムがこの貴族社会において、心から「良い印象」を抱いている数少ない、真に信頼に足る諸侯のうちの一人だったからだ。
年齢はカシムよりも遥かに上で、忠義の老騎士ザイドに近い。ゆえに、着飾った貴族というよりは、戦場を渡り歩いてきた実直な武人らしさの方が強く肌に伝わってくるような雰囲気の男だった。カシムの持つものよりも少し色の濃い、輝く金糸の髪は短く清潔に切りそろえられ、櫛できっちりと横へと流して整えられている。上品に手入れされた口髭もまた、彼の持つ「高潔な貴族」と「厳格な武人」という二つの魅力を、より一層高める意匠となっていた。
「いやいや、大したことではありませんよ。不作の兆候があった職務を、この年甲斐もなく張り切って指揮してしまいましてな。少々調子を崩しただけの事。お恥ずかしい限りです」
「いつまでも精力的に現役でいられるのは、領民にとっても喜ばしい事です。……そういえば、ご子息が最近、目出度くご結婚なさったとか」
カシムがある時、自らの街へと戻った際、レオンハルトの息子が盛大な結婚式を挙げたという知らせの親書が届いていた。それを、愛らしい婚約者のフレデリカから嬉しそうに聞かされたのを思い出したのだ。
一度こうと物事を決めてからの、決断と実行に至るまでの身のこなしの軽さは、父親であるレオンハルトと付き合っていて常々感じていた事だが、まさかその若き息子までもが、その直情極まる優れた性質を完璧に受け継いでいたとは……と、カシムは当時、可笑しそうに微笑みながら手紙を読んだものだった。
「ええ、うちのせがれも、ようやく気立ての良い妻を迎えたようです。年若い頃には夢見がちな夢を追ってばかりで、随分と気を揉まされたものですが……中々どうして、親の知らぬ間に子は勝手に成長するものらしい。その結婚式の時期を同じくして、我が街の伝統ある祭事も、若者たちの手で見事に執り行って見せたのですからな」
レオンハルトは、まるで今その場に愛息が立っているかのような誇らしげな顔つきになり、口角を上げて嬉しそうに語る。
「では、これからは次世代への領地の引継ぎと教育で、また一段と忙しくなられますね」
「ははは、幸いなことに、私の良き妻と娘が実務をよく手伝ってくれますからな。いやはや、果報者ですよ、私は」
少し照れくさそうに頭をかきながら、レオンハルトは手で綺麗に整えられた口髭を撫でる。その飾らない姿を見ながら、やはりこの男は、自分にとって最高に好感の持てる人物だなと、改めてカシムは胸の内で頷くのだった。
そこには、他の諸侯が呼吸をするように垂れ流す貴族特有の陰湿な嫌らしさが微塵もなく、笑った顔はまるで少年のように屈託がない。これほど歳が離れているというのに、決して子供扱いせず、対等な一人の領主として接してくれるところもまた、彼の持つ大いなる魅力であった。
「式典は、遠方の地まで評判が届くほどに見事なものだったと伺っていますよ。僕も是非とも出席して、直接お祝いを言いたかったのですがね。中々、近頃は領内の片付けに追われて時間を作ることが出来なくて……申し訳ない」
「お気になさらず、カシム殿。こちらも貴殿の噂は、耳にタコができるほど聞いていますよ。ご自分の街を豊かにするだけでなく、近頃この連合国全土に蔓延り始めた、あの不穏な魔物どもを、傭兵を従えて鮮やかに掃討してみせているとか」
「おや、恐ろしい。いつの間にか噂というのは、尾ひれがついて一人歩きしてしまうものらしい」
そう言って、二人は豪華な廊下に爽やかな笑い声を響かせ、互いに笑い合った。
他人の足を引っ張るための腹の探り合いではなく、ただ純粋に、言葉そのものを楽しめる高潔な人物と、このアル・ハミドで最初に出会えたのは、やはり極上の兆候だとカシムは確信した。
この定例会議で、自分が密かに抱えているあの厄介な「問題」をどう切り出し、どう対処したものかと、道中ずっと思考を巡らせていたのだが。
(これは中々……良い風が向いてきたのではないかな?)
カシムは瞳の奥に確かな光を宿しながら、親愛なる年上の友との対話を、さらに深めていくのだった。
「魔物といえば、レオンハルト殿は不死者をご覧になった事がおありですか?」
「ええ、もちろん。我が家系は代々神聖王国との付き合いが深い関係上、北の霊峰や国境付近へはよく足を運びますからな。……あやつらの生気を吸い取るような得体の知れなさ、地中から這い出てくるおぞましさは、何度遭遇しても慣れることはありませんな」
カシムの唐突とも言える質問に、レオンハルトは古い戦場の記憶を辿るように、その立派な眉間に深い皺を寄せて答えた。大陸北部、信仰の光の影に潜む闇。何度剣を交えようとも、あの命を持たぬ肉塊がもたらす生理的な嫌悪感だけは、人間の魂に馴染むものではない。
「なるほど……。実はここ最近、この連合国の各地で、その不死者の目撃例が不自然に増えてきていましてね」
「連合に? ……馬鹿な。奴らが自然に群生するほど、濃密なエーテルの澱みがこの大陸南部にあるはずがないのですがな……」
カシムは、この高潔な武人であれば多少の機密を話しても問題はないだろうと確信し、ここ最近の裏事情を話題に選んだ。何より、この先に待ち受ける混沌を睨めば、信頼できる協力者がもう一人でも多く欲しいというのは、カシムにとって喫緊の課題であったのだ。王国との外交経験が豊富で、魔物との実戦経験も群を抜いているレオンハルトの協力をここで取り付けることができれば、これほど心強いことはない。
「僕も最初は目を疑いましたがね、色々と足を使って調べさせたのですよ。……これがどうも、自然発生などではなく、一部の狂信的な魔術師による人為的な仕業らしい」
「……なるほど」
レオンハルトは重厚な腕を組み、低く唸って思案の海へと沈んだ。
彼とて、ただ病気で引きこもっていたわけではない。ここ最近の連合国内の微かな空気の変調、そして権力の中心地から漂う奇妙な違和感には、いくつか気がかりな点があったのだ。
「実は、私の方でも少々、胸騒ぎがしている事がありましてな」
「おや、レオンハルト殿も?」
「ええ。カシム殿は、この首都アル・ハミドの北門を出てすぐの場所に、今何が建てられているかをご存じですか?」
レオンハルトは語りながら、廊下の窓へと視線をやり、遥か北門の方角をじっと見つめた。
外の夜空は、これから大雨でも降る前触れかと思うほどに、どんよりとした重い雲がどこまでも立ち込め、この美しい施設に月明かりさえ届けようとはしない。
「人を集めて、何やら大規模な国家事業を始めようとしているのには気付いていましたが……。実態までは」
「あそこにあるのは……神聖王国に近年建造されたという、『天使の塔』を模したものです」
「王国の……?」
カシムは少し驚いたような声を漏らし、レオンハルトの視線を追うように窓の外の闇を見つめた。
ここからでは物理的に北門の建造物など見えるわけもないのだが、その言葉が持つ不穏な質量が、二人の網膜に巨大な塔の幻影を割り込ませる。
「どうにも最近、盟主ロレンツォ殿のすぐ身近に、見慣れぬ、それも素性の知れぬ魔術師らしき者達がへばりついておりましてな。……ロレンツォ殿に、あの気味の悪い塔を建てるよう強く進言したのも、その新参の連中ではないかと睨んでいるのです」
言いながら、レオンハルトは鋭い双眸を周囲の廊下へと走らせ、影に聞き耳を立てている隠密がいないか、細心の注意を払った。
こうした一瞬の抜かりのなさは、やはり修羅場を生き抜いてきた経験の長い諸侯そのものであった。
「王国を何らかの理由で追われた、あるいは潜入してきた魔術師が、言葉巧みに連合国の上層部に取り入ってきた……。あり得なくはない話ですね」
「左様。どうにか奴らの尻尾を掴んで、その化けの皮を剥ぎ取ってやりたいと思っているのだが、中々どうして、泥鼠のように隠れるのが上手いらしい」
実態の分からぬ、本国の「天使の塔」。それを模した巨大な歪みが、連合の心臓部である首都のすぐ目と鼻の先で建造されているという事実。そこには、何らかの巨大な陰謀、あるいは呪術的な不吉を感じずにはいられなかった。
(ただの政治的なハリボテ、友好のモニュメントであれば良いのだがね……)
カシムの瞳が、冷徹に細められる。
「レオンハルト殿のその不穏な読みは、おそらく当たっているかもしれませんね。……実は先日、僕の街でも派手に狼藉を働いた、身の程知らずの魔術師がおりましてね。残念ながら取り逃しましたが、現在このアル・ハミドに潜伏している可能性が極めて高いのです」
「ふむ……! やはり、そうか……。事態が手遅れになり、民に大きな被害が及ばぬ前に、何としても迅速に対処したい所だが……」
カシムの具体的な証言を聞き、レオンハルトはさらに眉間の皺を深くして唸った。
神聖王国の大義の裏を知る彼だからこそ、あそこの教義に背き、邪道や禁忌の魔術に手を染めた魔術師ほど、執念深く厄介な存在はいないと身に染みて理解していたのだ。
もっとも、カシムの街に現れたのは王国を追われた魔術師ではなく、魔王の配下を名乗る人物なのだが。レオンハルトをどこまで巻き込むべきかまだ判断がつかぬ為に、その部分は伏せておいた。
「ここは一つ、互いに手を取り合って協力しましょう、レオンハルト殿。……幸い、僕の側にも、魔術の扱いに長けた非常に心強い『助っ人』がいるものでしてね」
「なるほど、それは実に良い。……私の連れている護衛も、戦技だけでなく少々なら実戦の魔術を扱える。きっと貴殿の助けになれるだろう」
思いがけない大物の協力を得られたことで、まるで濃霧の中を五里霧中で進むようだったカシムの胸中に、一筋の光明が差し込むような確かな感覚が訪れた。
この欺瞞に満ちた首都で、ここまで真っ直ぐに互いの事情を共有し、利害を超えて手を組める相手がいるということは、それだけで千万人を味方にするよりも心強い。
「しかし……この事態。盟主ロレンツォ殿は、本当に何も気づいておられないのか。それとも……」
「ロレンツォ殿は、この広大な連合を一身に束ねる、あまりにも多忙なお方だ。それに、良くも悪くも人付き合いが多すぎる。周囲に悪心を抱く者が仮に紛れ込んでいたとしても、中々その毒に気付かないのだろう」
カシムは、どこか割り切れぬ懸念を抱くレオンハルトに、そう優しく言葉を返した。
それは、カシムがまだ幼き日に、ただ「言葉の対話」と圧倒的な弁論だけで、血を流さずに巨大な戦後処理を完璧にしてみせた偉大なロレンツォへの、いまだ色褪せぬ憧れと敬意が、彼の胸の奥底にまだ残っているからかもしれなかった。
「おや……」
ふと前方の重厚な扉の向こうを見やれば、夜風を切り裂くようにして、一人、また一人と、煌びやかな衣装に身を包んだ他の諸侯たちが宮殿へと到着し、姿を現し始めるのが見えた。
二人は一瞬だけ視線を交わし、そろそろこの密談は引き上げようと、無言の合図を送り合う。
「しかし、カシム殿のその交友関係の広さと人徳には、相変わらず脱帽いたしますな。いつの間にか、そんな一筋縄ではいかぬ魔術を扱う友人まで得ているとは」
「はは。とはいえ、僕が過去に知り合ってきたどんな人間たちの中でも一番、自由気ままな者たちだけどね」
「ほう……、貴殿にそこまで手を焼かせるとは。……ふむ、その者たちに会ってみるのが、今から俄然楽しみになってきましたな」
二人は、互いに信頼を深めた大人の笑みを交わし、そのまま通路の奥、それぞれの割り当てられた豪奢な私室の方へと、足音を絨毯に消しながら歩み去っていった。
そして。そんな国の根幹を揺るがす危機が、すぐ足元まで忍び寄っているとも知らぬ諸侯たちの、虚栄と利権に塗れた話し声が、次第に、静まり返っていた施設の中へと騒がしく響き渡り始めるのだった。
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「お疲れ様、エレナ。かわろうかしら?」
「あ、ヴァレリアさん。ありがとうございます、ちょうど今終わったところです」
宿泊施設の中庭に設けられた厩舎の、夜風が吹き抜ける一角。荷物の片付けをひと通り終えたヴァレリアが、軽やかな足取りでエレナへと歩み寄りながら声をかけた。
エレナは長旅の垢を綺麗に洗い流された愛馬の首筋を優しく叩き、ブラシを片手に、整えられた前髪をふうと吹き上げる。その手慣れた一連の動きには一切の無駄がなく、彼女が日頃からどれほど馬たちに深い愛情を注いでいるかが、その瑞々しい横顔からも見て取れた。
「それにしても、今日は本当に暑かったから。この子たちも随分と疲れていたんじゃないかしら?」
「うーん……。それだけなら良いんですけど、なんか、さっきからちょっと落ち着かない様子なんですよね。ただ暑くて苛立っているだけならいいんですけど……」
「本当ね……。特にどこかに怪我をしているわけでもなさそうなのに」
ヴァレリアは少し怪訝そうに美しい眉を寄せ、自身の愛馬の鼻面にそっと手を添えてなだめるように撫でた。
言われてみれば、カシムたちの乗ってきた四頭の馬は、どれも耳をせわしなく後ろに寝かせたり、前足で執拗に地面を蹴ったりと、どうにもソワソワして落ち着きがない。
さらに視線を周囲に広げてみれば、それは彼女たちの馬だけに留まらなかった。他の諸侯が連れてきた立派な軍馬たちも厩舎の奥で小さく嘶き、夜空を不自然な軌道で飛び交う渡り鳥の群れすらも、何かに怯えるようにせわしなく羽ばたいているように思えてくる。
「やっぱり……私たちの街に現れた、あの不穏な魔術師みたいな人物が、この首都にも潜伏しているんですかね……。動物たちは、そういう悪い気配に敏感だって言いますし」
「何とも言えないわね……。けれど、これだけ国中から雑多な人間が集まっているのだもの。街全体の『空気』が淀んで、悪いものが生まれやすくなっているのは確かよ」
ヴァレリアはエレナの不安を和らげるように優しく語りかけながら、一頭一頭の体を丁寧に撫で、「大丈夫よ、私たちがついているわ」と静かに声をかけていく。
凛とした二人の温もりに包まれたのが効いたのだろう、四頭の馬たちは未だ微かな警戒を孕んではいるものの、先ほどまでの刺すような緊張感からは解き放たれ、少しずつ安らいだ息を吐き始めた。
「やっぱり、首都ってなんか地元の街とは空気の重さが全然違いますよね。なんだか、普段なら見過ごしちゃうような些細な事でも、妙に気になっちゃうというか……」
「それは仕方のないことよ。今は近々催される『武闘会』の話題で、市民も、ここへ集まる諸侯たちも頭が切り替わっているみたいだしねえ。街全体が、一種の興奮状態にあるのよ」
「武闘会かあ……。実は私、一回でいいから、ああいう大きな舞台に出てみたいなって思うんですよね」
「ふふ、気持ちは分かるけれど。私たちはカシム様の命を守る護衛の任務があるもの、出場だなんて絶対に無理ね」
いかにも血気盛んな若き戦士らしく、エレナは拳を少し握って残念そうに唇を尖らせる。その純朴な様子が可笑しくて、ヴァレリアは姉のように慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら声をかけた。
「……じゃあ、もし、ガウルさんとかが出場したりしないですかね?」
「ガウルさんが? そうねえ、もし彼が舞台に立ったら、それはもう恐ろしいほど盛り上がるでしょうけれど……。でも、あの人はあまり表舞台で目立ちたくない性質のようだから。本人が一番嫌がりそうね。……まぁ、出さえすれば、間違いなく優勝を狙える器だと思うけれど」
ヴァレリアが胸の前で腕を組み、ガウルが出場した場面を想像しながら答える。
「優勝と言えば、昨年の大会で頂点に立った、あの『隻腕の剣士』の人! 本当に凄かったですよね!」
「ええ、あの剣閃は私も思わず見入ってしまったわ。片腕がああなっているというのに、それを補って余りある圧倒的な技のキレ……。大会の後、色んな有力な諸侯から引く手あまたで勧誘があった筈なんだけれど、結局、どれにも首を縦に振らずにどこかへ旅立ってしまったのよね」
どこか遠くへ馳せるような眼差しで語るヴァレリアに、エレナも興奮気味に何度も頷く。
その後も、二人の他愛のない、しかし確かな信頼に満ちた会話は、夜の厩舎の静寂の中に優しく溶けていき、張り詰めていた旅の道中に束の間の楽しそうな時間が流れていった。
主たちの清らかな声と、穏やかな笑顔に包まれていると心から落ち着くのだろう。
さっきまで得体の知れない何かに怯えるようにソワソワしていた愛馬たちも、いつの間にかその大きな瞳の曇りを消し、普段と変わらぬ穏やかな様子を取り戻して、静かに夜の休息へと入っていくのだった。
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「……では、このアル・ハミドには、そうした地下組織が巣食っている可能性が極めて高いのだな」
誰の目にも止まらぬ、建物の影の濃い暗がりの中。老騎士ザイドは気配を極限まで殺し、胸の内で唸るようにして声をひそめて話していた。
彼が対面していたのは、自らの部下であり、古くからカシムの影として仕える隠密の男であった。主君たるカシムの安全と政治的優位を裏から支えるため、日々あらゆる情報収集や不穏分子の監視といった隠密行動を任されている「影」。その彼が、先ほど首都に潜入して掴んできたばかりの最新の夜の報告を、ザイドは静かに受け取っているところだった。
「ふむ……。非合法な危険商品の売買と、組織的な人攫い。そして……その裏で暗躍する、集団の魔術師と思しき者達、ですか」
ザイドは決して周囲に怪しまれぬよう、あくまで「酷暑の夜に寝付けず、夜空を眺めながら涼しい風に当たっている老人」の様子を装っている。どこで誰が、どの諸侯の放った密偵が聞き耳を立てているか分からぬ、一触即発の領域。用心に用心は重ねるべきだ。年季の入った彼の戦士としての偽装はどこまでも自然であり、ただの通りすがりの者が一目見ただけでその欺瞞を見破ることは、まず不可能だろう。
(……ただ闇雲に、目についた足元の闇市を摘発して回るよりは、よほど大きな収穫かもしれぬな)
どんよりとした重い夜闇を眺めながら、ザイドは鉄の手甲をはめた指先を顎に当て、深く思考を巡らせた。
問題は、以前カシムも懸念として口にしていた通り、この一連の不穏な事件を引き起こしている首謀者たちが、自分たちの悪行が「公にバレる事をまったく恐れていない」可能性が極めて高いことなのだが。……今は、霧深き闇の中に確かな手ごたえの糸口を掴めただけでも良しとしようと、彼は己に言い聞かせるように思った。
「……大義であった。実に見事なご苦労でしたな。今宵はもう夜も更けて遅いですから、貴方も無理をせず、どこかで身体をおやすみなさい」
ザイドが労いの言葉をそっと投げかけると、対面していた影は、暗がりの中で一切の声を発することなく、衣服の擦れる微かな音すら立てずに静かに一礼を捧げ、そのまま夜陰に溶けるようにして、その場を音もなく去って行った。
後に残された老騎士ザイドは、すぐには動かず、しばらくの間その場に静かにとどまり続けた。
長旅がもたらした肉体の疲れと、この不夜城が放つ淀んだ熱気に張り詰めた神経を、少しでも癒すかのように。彼は独り、深呼吸を繰り返しながら、静かに重い夜空を眺めていた。
天に仰ぐ空には月もなく、どこまでも広がる分厚い暗雲が、無数の星々さえも完全に覆い隠していた。




