048 黄金都市の影 ③
「夜も更けて来たというのに、相変わらず眠る事を知らない街らしいね」
ジグたちよりも一足早く、不夜城たるアル・ハミドへと滑り込んだカシムは、愛馬の手綱を緩めて地上へと降り立ちながら、吐息のようにそう呟いた。
夜の帳が降りた連合の首都は、昼間の熱気に満ちた交易の顔とはまた一味違う、淫靡で昏い悦楽の顔を覗かせている。人々が寝静まる気配など微塵もない。酒場から溢れ出る喧騒や下卑た笑い声は当然として、闇に紛れて怪しく明滅する露店、警備兵の鋭い目を盗んで開かれる路地裏の賭博、そして血の匂いを漂わせる非公式な賭け試合。人間がその飽くなき欲望の果てに想像しうるもので、この巨大な檻に存在しないものは何一つとしてないと言っても過言ではなかった。
「それにしても、今日のこの辺りは妙に暑かったですね……」
「本当、どうしちゃったんでしょう? いつもは砂漠の夜風が吹けば、ここまで気温が高くはならないはずなんですけど」
カシムの左右で、同じように手際よく馬を降りながら、美しき護衛の双璧たるヴァレリアとエレナが、揃って美しい眉を顰めた。
オアシスからの風はいつもと変わらず街を吹き抜けているというのに、今日この地に満ちている異常なまでの熱気には、鍛え上げられた彼女たちとていささか参っているようで、その薄い衣の隙間からは、じっとりとした艶やかな汗が滲んでいる。
行き交う人々も同様らしく、誰もが衣服の胸元をはだけ、手や団扇で仰ぎながら気怠げに歩いていた。目ざとい商人たちはこの天候がもたらした商機を逃すまいと、冷たい氷菓子や水瓶を掲げ、頭上を圧するような大声で叫んでは、飛ぶように売りさばいている。
「近々、大々的な武闘会も催されますからな。国中から集まった人々の熱気が、いつもよりこの街を狂わせているのだとは思いますが……」
三人に一歩遅れる形で、殿を務めていた老練の護衛騎士、ザイドが重い馬体から降り立ち、低く濁った声で応じた。
うら若き三人よりも遥かに重厚な鉄の鎧を身にまとっているザイドにとって、この不自然な酷暑は肉体的に最も堪えるものがあるらしかった。彼はたまらず頑強な鉄兜を脱ぎ、旅の埃にまみれた額の汗を拭って、大きく一息をついた。
「武闘会ね……。最近では、各街の諸侯達がお抱えの自慢の護衛を戦わせ、その勝敗で己の名声を競い合っているようだがね。誰が言ったか、『代理戦争』とはよく言ったものさ」
カシムは呆れた溜息を漏らした。
性別や身分を問わず、自身が「美しい」と本能で感じた存在を手元に置いておきたいと願うのは、彼という人間の宿命であり、峻烈な強さと気高き魂をもつ戦士もまたその例外ではない。しかし、そうして集めた人間を、俗物たちの品評会のような場へ連れ出し、見せびらかして優越感に浸るような悪趣味は、彼の美学が許さなかった。
ましてや、それが自身の政治的地位の向上のため、あるいは利権の拡大のための道具として消費されるのだとすれば、いよいよ彼の矜持とは遠くかけ離れた、酷く醜悪な出来事に感じられてならないのだった。
一行はそのまま馬の鼻面を引き連れてしばらく石畳を歩き、首都の中でも選ばれた各諸侯が宿泊する一角へと辿り着いた。
街を治めるべき身分ある諸侯が、その辺の流れの一般の者達と同じ宿で眠るというのは、安全上の問題、あるいは暗殺の危険性からも論外であり、彼らが首都に集う際には、議事堂にほど近い場所に特別に用意された堅牢な専用施設を使うことになっているのだ。
とはいえ、施設と呼ぶにはあまりにも勿体ない、一般の最高級宿などとは比べようもないほど豪華絢爛な宮殿のような作りをしており、不平不満を漏らすような強欲な貴族など、歴史上ただの一人も存在しなかった。
実際、夜の帳に包まれた施設の周囲には、大自然の恩寵たるエーテルによって神秘的に点灯する魔導ランプが至る所で白銀の光を放っており、そこだけが周囲の混沌から切り離されたかのような、幻想的で静謐な空気を醸し出している。気難しい各諸侯が、ほんのつまらぬ不手際で気分を害さぬよう、贅を尽くした工夫がそこかしこに施されていた。
「まだ、他の方々はそれほど来られていないようですね」
「ええ。私達の他には、多く見積もっても五人ほどの諸侯の方々しか、まだいらしていないみたいですわ」
馬を専用の馬繋場に固定しながら、エレナとヴァレリアが鋭い視線で辺りを見回し、互いに声を交わした。
この広大な連合の領土を予定に合わせて移動するには、馬や重厚な馬車などの乗り物は絶対にかかせない。しかし、この広大な中庭に繋ぎ留められているそれらの少なさを鑑みるに、まだほんの一握りの領主しか到着していないのは明らかだった。定例の会議は数日後であるため、時間的な問題はまったくないのだが。
「はは、これだけ不愉快に暑ければ、腰も重くなるだろうさ。……それに、ほら。あえて会議の直前、余裕のない時間になってから大仰に到着してみせて、自らの存在がいかに『多忙で重要であるか』を周囲に演出して見せたい者達もいる。色々さ」
「若、滅多なことをおっしゃるな。どこで誰が聞き耳を立てているか分かりませぬぞ」
カシムもまた、自身の愛馬の美しいたてがみを撫でながら愉快そうに皮肉を口にし、それを背後からザイドが苦言を呈するように嗜める。
だが、事実であった。自らの器を少しでも大きく見せようとするあまり、旅の苦労を大袈裟に膨らませる者、国家の命運を一人で背負っているかのように多忙を装う者――そんな演出に腐心する道化は、貴族社会において一人や二人の話ではなかった。そうした内面の美しくない、欺瞞に満ちた姿勢の者達を見るたびに、カシムはいつも、胸の内で冷ややかな溜息をつくばかりだった。
「そういえば、街の警護は問題ないのかな?」
カシムは天を仰ぐようにして大きく両腕を伸ばしながら、隣のザイドへと尋ねた。
いくら贅を尽くした極上の鞍を据えていようとも、長時間の騎行というのは、想像以上に肉体を酷使するものだ。彼の洗練された肢体のあちこちから、凝り固まった関節が微かに悲鳴を上げているのが伝わってくるようだった。
「はい。先ほど使いの伝書鳥が手紙を寄越しましたが、領内の治安、警備ともに一切の遅滞なく、特に問題ございません、若」
「ああ、よかった。少し前に雇い入れた、ガイスト殿……と言ったかな。彼も、どうやら新しい役目を上手くこなしてくれているようだね」
「ええ、まあ……。実務に関しては、確かに申し分ない働きなのですが。……ただ、如何せん彼の服装の趣味が些か、その……過激と申しますか、目のやり場に困るものでしてな。街の者たちから控えて頂けないかという苦情が、少々こちらに届いておりまして……」
カシムがこの首都へ向けて街を発つ少し前のこと、ガイストと名乗る奇妙な魔術師が突然領主館へと現れ、「自分を傭兵として雇う気はないか」と直談判してきたのだった。
その男の要求は、およそ魔術師の傲慢さとは無縁の、極めて理性的なものだった。街の警護を一手に引き受ける代わりに、人並みの正当な報酬と、領内にある広大な図書館への立ち入り、そして魔導の研究を静かに続けさせてもらえればそれで十分だ、という条件だったのだ。
最初はいきなり素性の知れぬ魔術師を懐に迎え入れるべきか、カシムも慎重に見極めかねていた。しかし、その男の口から「ジグ」の名が紹介として飛び出した瞬間、それならば間違いないだろうと、快く彼を街へと迎え入れた経緯がある。
実際、蓋を開けてみればガイストは実に忠実に、そして良く働いた。そればかりか、手が空いた時間には街の子供達を集め、熱心に魔術の基礎を教えている様子すら見受けられた。自らの治める領地から、将来有望な魔術師の卵が生まれるかもしれない――そう思うと、カシムの胸には心地よい期待が膨らむのだった。
ただひとつ、彼の常軌を逸した「奇抜すぎる身なり」が、生真面目なザイドの胃を痛めつける新たな悩みのタネになってしまったことを除けば、だが。
「はは。魔術師に己の矜持や趣味を変えよだなんて、路地裏の野良猫に『今すぐ気高きドラゴンへと変身してみせろ』と無理な命令を下すくらい、現実味のない難しい話さ。あれは彼なりの美学なのだから、僕たちが慣れるしかないね」
カシムは肩をすくめ、ザイドに悪戯っぽい笑みを向けながら言った。
カシムの審美眼にしてみれば、ガイストの持つ「魔術師らしからぬ、極限まで鍛え抜かれた褐色の肉体」は、それ自体が彫刻にも匹敵する至高の芸術そのものであり、どれだけ眺めていても飽きのこない、美しい代物なのだった。
「私も、もしガイストさんに手ほどきを習ったら、いつか魔術が使えるようになりますかね?」
「そうねえ……。神聖王国の騎士たちがやるような、刃に魔力を宿す魔法剣が出来たら、本当に素敵よねえ……」
背後を歩くエレナとヴァレリアが、そんな風に魔術という未知の神秘への憧れを声に滲ませるのを聞き、ザイドは胸の内で深いため息をついた。
(これでは、いずれ領内の若者たちが次々と魔術の華やかさにばかり憧れを抱き、日々の鍛錬がおろそかになるのではないか……)
老騎士の懸念は尽きず、彼の苦悩の種は今後も増え続ける一方のようだった。
「では、僕は一足先に到着している他の諸侯の方々へ、少々顔を繋ぎに挨拶に回ってくるよ。皆は先に割り当てられた部屋へ行って、旅の疲れを休んでいてくれて構わない」
まるでおとぎ話の宮殿のような宿泊施設へと足を踏み入れながら、カシムは背後に続く三人へと静かに告げた。
一歩館内へ入れば、そこには諸侯たちが一瞬たりとも不平を漏らさぬための至れり尽くせりのもてなしが完成していた。外のあの不快な酷暑が嘘のように、廊下には冷ややかで心地よい清流のような風が絶えず流れており、快適そのものだった。
見れば、装飾品のように壁や天井の至る所に嵌め込まれた蒼い水晶が、周囲のエーテルを寒風へと変換して送り出しているのだ。これは高度な魔道具の一種であり、おそらくは東の帝国から、大金をはたいて買い付けた贅沢品に違いなかった。
「分かりました、カシム様。では、私たちは先に部屋へ荷物を運び、愛馬たちの世話を終えておきますね」
「私たちが常に傍に、まるで監視するように控えているのも、ご挨拶されるお相手に対して些か失礼になってしまいますものね」
「若、くれぐれも周囲の不審な動きには気を付けるのですぞ。ここがいくら安全な特別区画とはいえ……」
三人はそれぞれに気遣う言葉をかけ、カシムの身に予期せぬ危険が及ばぬことを祈った。
この連合国の心臓部であり、各街の諸侯が一堂に集まる最高格式の場に、あからさまな邪心を抱く暗殺者などが紛れ込めるとは思えないが、用心するに越したことはない。
周囲の警備兵の配置は万全に見える。だが、先日のあの、魔王の配下を名乗った神出鬼没の不穏な影が、この絢爛たる光の裏側に潜り込んでいないとも限らないのだ。
「はは。この連合国の心臓部に潜り込んでおいて、真っ先に狙う獲物が、僕のような若輩の諸侯だけだなんていう奇特な人間がいたら……。逆に、他に誰を狙うべきか、僕が親切に教えてあげたいくらいさ」
「わ、若……っ!」
カシムはいつもの不敵な調子で、ザイドの寿命を縮めるような危うい冗談を軽やかに言い残すと、美しくマントを翻して歩き去っていった。
残された老騎士は、心臓が凍りつくような思いがして、首筋から冷や汗がどっと流れ出すのを感じていた。
(まったく、あのお命知らずな悪癖さえなければ、まごう事なき次代の連合を担う、若く有力な傑物の諸侯だというのに……)
こめかみに微かな頭痛を覚えながら、ザイドは頼もしくも危うい、その若き主君の美しい後ろ姿を、ただ深く溜息をつきながら見送るほかなかった。




