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果てしなき旅路の果てに  作者: 左岸
第一章 貿易連合国編
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047 黄金都市の影 ②

「おし……。ここから、あの木までな。行くぜ……」


 夜の重い帳がオアシスをすっぽりと包み込んだ頃、静寂を破ってジグの密やかな独り言が響いた。

 あの後、三人は哀れな犠牲者たちの埋葬を手伝い、その後の片付けにも手を貸していた。全てが終わる頃にはすっかり日が傾き始めていたため、今宵はこの集落に宿を取り、旅の疲れを癒やすことに決めたのだった。あの不運な二人の亡骸は、別れを告げた後、ジグの放った魔術の炎によって懇切丁寧に火葬され、大自然の循環へと還っていった。


 この砂漠のオアシスは、昼夜の別なく旅人が行き交う要衝らしく、夜の闇の中であっても、あちこちに赤々とした篝火が焚かれている。過酷な砂の海を越えてようやくここに辿り着いた者、あるいは夜陰に乗じて次の目的地へと旅立つ者。それぞれが思い思いの時を過ごし、微かな喧騒が夜風に溶けていた。


「これで出来るはずだ、出来る筈だぜ……。緊張するなよ、俺……」


 ジグは宿の寝床に入ることなく、一人で外の薄暗い空き地へと抜け出し、何やら熱心に佇んでいた。

 普段の不遜な彼とは違い、その全身には隠しきれない緊張の色彩が滲んでいる。周囲を往来する旅人たちの目から隠れるように、篝火の届かぬ物陰を選び、ジグは深く、深く深呼吸を繰り返した。


「こいつで、どうだ……っ!」


 鋭い気合の言葉とともに、前方の古木に向かって勢いよく手をかざす。

 その瞬間、ジグの五指が閃光を放つかのように白銀に輝いた。刹那、彼の身体は掻き消えるようにその場から消失し、虚空には魔術の名残が、まるで死にゆく火花のようにチリチリと微かな音を立てて爆ぜるのみであった。


 直後、彼が標的に定めていた前方の木の根元で、空間が圧搾されたような鈍い音が響く。

 文字通り、ジグはその場所に忽然と姿を現していた。彼の衣服や髪には、未だ制御しきれぬ魔術の余波が、青白い火花となってパチパチと纏わりついている。


「げえっほ! げほっ……! お、おえ……っ。気持ちわりい……」


 距離の概念を歪め、瞬時に空間を跳躍してみせた流浪の魔術師は、しかし、着地と同時にその場に激しくしゃがみ込み、猛烈に咳き込んだ。胸の奥から胃液がせり上がってくるような、強烈な三半規管の狂いと吐き気に襲われ、彼は涙目で必死に呼吸を整えようと堪える。咳き込んだせいで、その切れ長の瞳には薄い涙の膜が浮かび、緑の肌の顔は赤く上気していた。


「ジグ? こんな夜更けに、一体どうしたのですか?」

「え、あっ……! お前、寝たんじゃなかったのかよ」


 夜風に乗って届いた、聞き慣れた清らかな声。

 ジグはいささか動揺を隠せぬまま、背後に佇む法術師の少年アルスへと振り返った。


「オアシスという場所が少し珍しくて。夜の景色も見ておこうと思って、散策していたんですよ。……それで、ジグは何をされていたのですか?」

「ん、んー……。そっか。まあ、お前にとっちゃ、こういう場所も初めて見る景色だもんな」


 アルスの濁りのない真っ直ぐな瞳に見つめられると、どうにも小細工をして誤魔化すことが難しい。ジグは内心でバツの悪さを覚え、無意識に首の後ろをかいた。彼の尖った長い耳が、羞恥からか真っ赤に染まっている。もっとも、それは先程の空間跳躍の拒絶反応で咳き込んだせいかもしれず、この濃い夜闇の中では、アルスに気付かれることもないのだが。


「ちょっと、その……魔術の練習をな。この前、あのアーウィンが見せたみたいに、空間を自在に跳躍出来たら、色々と便利なんじゃねえかって思ってさ。……ほら、万が一カシムに急に呼ばれた時とかさ、とりあえず俺だけでも、先に一瞬で駆けつける事が出来ねえかなーって……」

「転移術……。ジグも、あのような高等な術を使えるのですね」


 ジグは己の首筋を手で撫でながら、言葉を濁した。

 手のひらに触れる自分の首筋は、まるで熱病にでも罹ったかのように熱い。自分が胸の内で仲間を想って考えていることや、密かに重ねている努力の全貌を打ち明けるのは、まだ彼にとってはひどく気恥ずかしいものだったのだ。


「ううん……。一応、今みたいに短い距離なら形にはなるんだが、身体がバラバラになっちまうんじゃねえかってくらい気持ち悪くてな……。どうにも、俺には向いてねえかもしれん」

「けれど、初めての試みで成功させたのですから、本当に凄いですよ、ジグ」

「そ、そうか? まあ……なんだ。感覚さえ掴めば、もうちょい上手くいきそうな気もするんだけどな」


 アルスのてらいのない称賛の言葉に、ジグは己の鼻が高くなるのを我慢しきれなかった。先ほどの吐き気でしぼみかけていた自信が、青年の言葉によって、胸の中でむくむくと膨れ上がっていくのを感じていた。


 実際、転移の術理そのものは、それほど複雑なものではない。

 しかしこの術が、魔術の体系において初級から最上位にまで柔軟に組み込まれているのは、ひとえに「制御」の難易度が狂気じみているからであった。

 数十歩の距離を転移するだけならば、基礎を終えた魔術師でも発動させることは可能だ。だが、辿り着くべき座標を寸分の狂いもなく脳裏に描き、荒ぶるエーテルを完璧に御さねば、まったく別の場所に肉体が転移したり、空中や海の中へと放り出される破滅的な事故を招く。そうして命を落とした傲慢な魔術師は、歴史上数知れない。

 ましてや、以前アーウィンが行ったように、大掛かりな魔法陣の補助すら使わずに長距離を跳躍したり、複数の人間を同時に転移させるとなれば、それは完全に神域に近い高位魔術の領域であり、必要な魔力と精密な制御の要求値には、天井というものが存在しなかった。


「それなら……ジグ、どこか目標の場所に何か物を置いて、それを『掴む』イメージで跳躍してみてはどうですか?」

「物を……?」

「ええ。何もない空間を目指すよりも、実際にそこにある何かをしっかりと握り締める感覚を思い描ければ、術の制御もやりやすくなるかもしれません」


 ジグは腕を組み、オアシスの向こう側でゆらめく篝火の明かりを眺めながら、アルスの言葉を反芻した。


(なるほど、標的アンカーを物質として固定する、か……。そういう練習方法もあるんだな)


 己の魔術の常識だけに囚われていた自分一人では、おそらく思いつきもしなかった発想だろう。恥を忍んで、こうして誰かに胸の内を相談してみるのも、存外悪くないものなのかもしれない。


「そうか……、確かにそいつはアリだな。じゃあ、ここに俺の短剣を突き立てて……と」


 ジグはそう言うと、帯電する魔力を帯びた短剣を一本抜き払い、足元の土底へと深く突き立てた。そして、そこから十数歩ほど後方へと下がり、距離を取る。


「……誰かに見られながらやるってのは、ちっとこそばゆくて恥ずかしいんだけどな。まあ、いいか……」


 突き立てられた短剣のすぐ傍らには、アルスが静かに立っており、ジグの挑戦をどこまでも穏やかで信頼に満ちた表情で見守っている。ジグは胸の奥にむず痒いような温かさを感じながら、再び新たな深淵へと手を伸ばすため、魔力を練り始めた。


 夜闇を引き裂くように、白銀の魔術の光が幾度も煌めく。そのたびに空間が歪む不穏な音が響き、続いてジグの激しい嗚咽と咳き込む声が、静かなオアシスに虚しくこだました。その都度、アルスが慌てて駆け寄り、彼の背中を優しく擦って介抱する――。

 そんな二人の奇妙な熱練は、夜空の真ん中に白銀の月が眩しく上り詰めるまで、何度も、何度も繰り返し続けられるのだった。


 ----------


(二人は、こんな時間まで鍛錬をしているのか……)


 ジグとアルスが繰り広げる、泥臭くもどこか微笑ましい夜の熱練を、ガウルは物陰から遠巻きに見つめていた。

 夜更けにふと目を覚まし、同室に二人の姿がないことに気付いて外へ出てきてみれば、案の定、篝火の届かぬ薄闇で何事かに打ち込んでいる姿を見かけたのだった。何度も咳き込む魔術師の背を、法術師の青年が一生懸命に擦っている。声をかけようかとも思ったのだが、若者たちが互いに高め合っている不器用な抱擁の邪魔をするのも野暮だろう。ガウルは重厚な腕を組み、声をかけるべきか否か、考えあぐねてその場に佇んでいた。


「……でな、聞いたか? アル・ハミドの近くに、今ちょっと妙なもんが建造中だって話」

「あー……、アレだろ? 北門を出て少し行ったところの、やたらとデカい建築物のことか」

「そう、それだぜ。なんでも『神聖王国』との友好の証だとか抜かして、あっちの国にあるっていう『天使の塔』を模したものらしいんだがな」

「まあ、北の連中ほどここの人間は信仰深くないからな。砂漠の真ん中にあんなものが建つなんて、少し気味が悪いとは思うがね」


 不意に風に乗って届いた「神聖王国」という単語に、ガウルの屈強な身体が微かに緊張を帯び、戦士の耳がピクリと反応した。

 かつて己を理不尽に追放し、長くその名を耳にすることすら忌避してきた故郷。しかし最近の旅路を経て、彼はそろそろ、その過去から逃げずに正面から向き合おうと決意し始めていた。そんな矢先に飛び込んできた、聞いたこともない不穏な言葉――「天使の塔」。


「失礼。……その、天使の塔、というのは何のことだ?」


 思わず、ガウルは話し込んでいた二人の商人のもとへと、音もなく歩み寄って声をかけていた。夜闇から突然現れた大柄な傭兵の威容に、商人たちは一瞬身をすくめたが、ガウルの丁寧な物腰に毒気を抜かれたように息を吐く。


「ん? なんだ、傭兵の兄ちゃん、知らんのか?」

「ほら、最近神聖王国に出来たっていう、三大神を讃える三つの巨大な塔の事さ」

「あそこはガチガチの宗教国家だからな、そういう大掛かりな建造物があるのも不思議じゃないが……。どうにも、俺たちみたいな商売人から見ると、きな臭くて好きになれんよ」


 商人たちは、自分たちの時事談義に興味を持つ者が現れたことに、水を得た魚のように先ほどよりも熱っぽく、身振り手振りを交えて語り始めた。


「その、塔を模したものが……このアル・ハミドのすぐ近くにも、建てられているというのか?」

「そうだ。それこそつい最近始まったばかりで、まだ基礎と骨組みだけだがな」

「あんなものをわざわざ建てちまったら、連合は今後、王国側にべったり肩入れすると大陸中に大声で叫ぶようなものなのにな。上層部の連中が何を考えているんだか、さっぱり分からんよ」


 ガウルは商人たちの言葉を一つひとつ噛み締めながら、記憶の糸を必死に手繰り寄せ、深い思索の海へと沈んでいった。

 天使の塔――そんな大規模な計画、自分が王国にいた二十年前には、影も形も、噂すら無かったはずだ。ならば、自分が汚名を着せられ国を出て以降に、急速に進められた話ということになる。一体、誰が、どのような目的で、そんな祈りのモニュメントを他国にまで侵食させているのか。


「しかし、まぁ……東の『帝国』も代替わりしてからは妙に大人しいからな。急に戦争でも吹っ掛けてくるような真似はあるまい」

「あそこはあそこで、腹の底で何を企んでいるか分からん得体の知れなさは変わらんがね。まぁ、現皇帝が温厚な人物らしく、おかげで商売がしやすいのだけは助かるが」


 商人たちの話題は、いつの間にか帝国やこの大陸全土をめぐる商流の状況へと、目まぐるしく移り変わっていった。やはり職業柄なのだろう、国境を越えて時勢の風を読むことは、彼らにとって生存戦略であり、同時に最高の娯楽でもあるようだった。


「なるほど……。突然不躾にすまなかったな。大いに参考になった」

「ああ、兄ちゃんももし神聖王国の方面に行くなら気をつけな。最近あっちの方は、野生の魔物もやたらとデカくなってて敵わんからさ」

「……ご忠告、感謝する。お前たちの旅の無事を祈っている」

「お互いにな、気をつけて」


 ガウルは商人たちへ短く礼を告げると、胸の中に生じた重いしこりを抱えたまま、静かにその場を去った。

 時が流れれば、人も国も、変わっていくのは世の常である。それは痛いほど分かっていた。だが……「天使の塔」という、美しくもどこか歪な響きを持つその言葉には、どうしようもない不穏な胸騒ぎを覚えざるを得なかった。


(……母上と、アッシュは。今も変わらず、元気に暮らしているのだろうか……)


 不意に、心の最も奥底に仕舞い込んでいた、家族の顔が脳裏に浮かび上がる。

 城塞都市で何者かの企てに巻き込まれ、夜逃げ同然に国を脱出したあの日。残された家族に決して累が及ばぬよう、ガウルは今日まで、彼らのことを敢えて「死んだもの」と思い定め、記憶の彼方へと封印してきたのだ。

 だが、再び自らと対峙すると決めた以上は。否応なしに、いつかはその血の繋がりに、そして己が捨てざるを得なかった過去にも、向き合わねばならない時が来る。


 遠くで再び煌めいた、ジグの未熟な空間跳躍の光。

 それを見つめるガウルの横顔は、夜の冷気の中で、いつになく深く、そしてどこか哀愁を帯びて引き締まっていた。



「……故郷のことが、気になるかね」


 深い溜息を吐きながら歩いていたガウルの背に、不意に呼び止めるような声がかけられた。

 現世の迷いを打ち消すように低く響いたその声に、ガウルは我に返り、声の主の方へと向き直った。


 赤々と爆ぜる篝火の明かりに照らされ、夜陰の中からおぼろげに浮かび上がっていたのは、一人の老齢の男の姿だった。衣服の隙間から覗く頑健な肉体の線や、不敵な面構え。頼りない火の明かりの中でさえ、その男がかつては修羅場を幾度も潜り抜けた、並外れて腕の良い戦士であったことは容易に知れた。


「……何故、俺が王国出身だと」

「不意に口をついて出る、その折り目正しい言葉遣いで分かる。あんな堅苦しい喋り方をする人間は、王国の騎士団くらいだろうて」


 老戦士に淡々と指摘され、ガウルは思わず己の口元を手で撫でつける。傭兵の荒っぽい気風に馴染もうと、自分なりに気を付けていたつもりだったのだが、やはり少年期から血肉となるまで叩き込まれた身のこなしや洗練された声音は、無意識の隙を突いて表に顔を出すものらしい。


「捨ててきたのかね、故郷を」

「……そんなところです」

「まあ、そうでなければ、わざわざ騎士団の恵まれた待遇を自ら捨てて、いつ死ぬとも知れん傭兵に身を落としはしないだろうな」


 老戦士が静かに隣の丸太を指さす。ガウルはその無言の誘いに応じるまま、引き寄せられるように彼の隣へと腰を下ろした。少なくとも、この年老いた猛者から、油断ならぬ敵意の類は微塵も感じられなかった。


「……王国に行かれた事があるのですか」

「流れの傭兵を長年やっていて、あの堅物どもの国に一度も足を踏み入れた事がないという奴の方が珍しかろう。もっとも、私はもう戦場いくさばからは殆ど隠居も同然の身だがね」

「……自分は、二十年前にあの国を出たきり、一度も帰っておりません」


 ガウルはパチパチと火の粉を散らす篝火をじっと眺めながら、ぽつりと言葉を落とした。

 ジグとアルスの二人に出会い、己の身の上を少しずつ打ち明けてからというもの、二十年間頑なに重い蓋をしてきた暗い過去の記憶に、ガウルは少しずつではあるが、再び自らの手で触れる事が出来るようになってきていたのだ。

 そして、己と同じ傭兵という宿命を背負い、酸いも甘いも噛み分けてきたこの老戦士には、どこか自分と重なるような不思議な空気を感じていた。だからこそ、いつもよりも自然に、自らの内情を口にすることが出来たのだった。


「自らそうして、過去の話が口に出来るようになったという事は、再び相まみえるべき時期が近付いているという事だ。……あそこにいる、あのやかましい連中が、お主の仲間かね?」

「……はい」


 老戦士は、顎で遠くの深い夜闇を指し示しながら言う。

 闇夜の向こう側、白銀の魔術の光が禍々しく輝いたかと思えば、その直後に一人の若い男が情けなく嗚咽を漏らし、激しく咳き込む声が微かに響いてくる。ガウルもそちらの方向に視線をやり、困ったものだと苦笑しながら老戦士に答えた。


「傭兵というのは、業が深いわりに案外腰が重い生き物だ。お主のように、過去の重荷に囚われて動けぬ男には、あれくらい騒がしく強引に引っ張ってくれる仲間がいた方が、己と向き合うにはちょうど良い呼び水になろうな」

「……しかし、今更あの国に帰って、一体どうしたものか……と。自分には、今もまだ迷いがあります」

「ただ行ってみればよい。進むべき道や果たすべき時期というものは、おのずと目の前にやってくるものだ」


 老戦士は達観したようにそう言うと、ガウルの分厚い肩を親親しげに軽く叩き、二人の足元にひっそりと息づく草花を指さした。

 ガウルが促されるまま視線を落とせば、そこには、荒涼とした砂漠の境界に広がるこの僅かなオアシスの土壌に、健気に根を張り、静かに咲き誇る一輪の小さな野の花があった。


「見なさい。どんなに過酷で不毛な環境であろうと、木々の枝や乾いた土底からは必ず瑞々しい緑の芽が生まれ、やがて蕾を破り、鮮やかに花開くものだ。この世に生命のあるもので、然るべき時が来て萌え出ないものは何一つとしてないのだよ」


 ガウルは老戦士の含蓄のある言葉を聞きながら、ただその名もなき無垢な花に見入っていた。

 もしもあのまま、独りで孤独に心を殺しながら傭兵を続けていたならば、足元に踏みつぶされるようなこんな小さな花など、一瞥もすることなく通り過ぎていただろう。


「ご老人、貴方は一体……何者なのです」


「ハッハ、ただの老いぼれさ。国を選ばず、ただ己の得物一本でがむしゃらに働いてきたというだけの事よ。だがな、どれほど愚直に生きていようとも、これだけの歳月を生き延びれば、哲学者のような考えの一つや二つ、自然と浮かびもするものさ」

「いえ……。自分にとっては、この上ない至高の助言です」


 深く頭を下げて至誠の礼を言うガウルを、老戦士は白髪交じりの己の顎髭を愛おしげにさすりながら、どこか昔の自分を懐かしむような眼差しで眺めていた。自分も若かりし頃は、融通の利かぬ堅物で、周囲の理不尽とよく衝突したものだ。譲れない大義も許せない欺瞞もあり、大切な者たちと袂を分かたった事は一度や二度ではない。


「……安心しなさい。今の神聖王国に、お主のような特徴を持つ指名手配の罪人など、一人もおらんよ」

「……っ。何故、それを?」


 不意に鼓膜を震わせた思いがけぬ言葉に、ガウルは驚愕したように弾かれたように顔を上げ、老戦士を凝視した。改めて正面から見据えた老戦士の顔は、長き峻烈な年月を生き抜いてきた者だけが持つ、深い叡智の皺がその刻まれているかのようであった。


「あそこの連中は、良くも悪くも郷土愛が狂信的なまでに強い。自ら進んで外の世界に出ようと思う人間はあまり見かけんでな。加えて、騎士団の栄誉ある身分を捨ててまで国を不自然に出たとなれば、そこには並々ならぬ理由……語れぬ陰謀があると思うのが自然だろう。見たところ、お主は王国の上層部が放った、密命を帯びた裏の『影』という風でもなさそうだしな」

「……本当に、お恥ずかしい限りで」


 己の頑なな武装をすべて見透かされていた気恥ずかしさを覚えながら、ガウルは自嘲気味に呟いた。

 これまでは、過去を探ろうとする不躾な相手には、傭兵としての凄みを利かせて威圧し、力ずくで黙らせることが多かった。だが、ジグやアルスと共に旅を続け、自然体で生きることを身体が思い出し始めると、こうも察しの良い熟練の相手には、抱えている複雑な事情が容易に伝わってしまうのだろうかと、彼は夜空を見上げてぼんやりと考えていた。


「大方、王国内の権力闘争か何かに巻き込まれた、いわれのない冤罪だろう」

「……はい」

「安心するがいい。真犯人が他に捕まったか、あるいは時の流れと共に手配そのものが取り下げられたか……。とりあえず、今現在のあの国は、お主の首を追ってはおらんよ」


 国に帰っても、もう無実の罪で即座に捕縛され、地下牢に投じられることは無い――。

 もしそれが真実であるならば、故郷に残してきた家族も、無事に過ごしているのだろうか。いつか、あの騒がしくも頼もしい仲間たちと共に、再び王国の神聖なる土を踏むのも、決して悪くはないかもしれない。ガウルの胸中には、凍てついた氷が融けるように、微かな暖かい想いが静かに芽生えるのだった。もっとも、先ほど商人たちから聞いた「天使の塔」という、得体の知れない不穏な響きが厳然として存在しているのも事実なのだが。


「……いつか、帰ってみようと思います。あの、私の仲間と共に」

「うむ、そうしなさい。人生における後悔というものは、少なければ少ないほど良い」

「ご老人、貴方はこれから、どちらへ行かれるのですか?」


「ハッハ、私はもう十分に戦った。この旅を最後に、完全に引退よ。こう見えて、どこぞの大都市で大層な研究職なぞをやっている自慢の息子が一人おるんでな。いい加減に危ない旅は辞めて落ち着けと、手紙でうるさくてかなわん。これからは、奴のいる街へ行って、静かに余生を過ごすつもりだ」


 思わぬ奇妙な縁で知り合った、世代の異なる二人の戦士。彼らはそれ以上言葉を交わすことなく、しばしの沈黙の中で、ただ篝火の炎が魅せる無数のきらめきを静かに眺めていた。もしかしたら、もっと早くに、全く違う戦場で出会っていれば、二人は固い絆で結ばれた師弟関係になれたかもしれぬ。そんな確かな魂の共鳴を感じてしまう出会いというものが、流浪の傭兵稼業には、稀にあるのだった。


「ご老人の旅路の無事を、心より祈っています」

「お主もな。……その若き仲間たちを、生涯、大事にしなさい」


 ガウルが差し出した、数多の死線を潜り抜けて傷だらけになった分厚い手を、老戦士は驚くほど強い力で握り返した。そして互いに無言のまま、戦士の礼としてその太い肩を深く抱き合い、それぞれの赴く旅路の無事を祈ったのだった。


 夜風にゆらめく篝火は、不毛のオアシスに集まる無数の旅人たちの、明日への希望の灯火のように。いつまでも、どこまでも、昏い夜闇の中で力強く燃え盛っていた

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