005 出会いと賢者の石 ⑤
「精神呪文だと……!?」
崩落した天井の穴から駆けつけたジグとアルスが目にしたのは、立ち昇る不浄な白炎と、壁に叩きつけられた巨躯の戦士だった。彼の姿には、見覚えがあった。
「ジグ! 私はあの方を」
「ああ、頼む!」
瞬時の判断。アルスが負傷した傭兵へと走り、ジグは魔獣の凶眼を己へと引き付けるべく散開した。
「大丈夫ですか……! しっかりしてください!」
アルスが傭兵の傍らに跪く。混濁した意識の中で「俺は……まだ……」とうわ言を漏らす男。額からの流血以上に、その魂を内側から焼き尽くそうとする白炎の残滓が、屈強な戦士の生命力を削り取っていた。
アルスは震える手で男の額に触れる。
(なんて……なんて冷たくて、荒ぶる炎……)
せめて肉体の損傷だけでもと、祈りとともに清浄な法術を注ぎ込む。だが、精神を焼く呪いを解くには、この喧騒の中ではあまりに時が足りなかった。
「こいつ、本当にレッサーデーモンか……?」
ジグが放った牽制の火球は、魔獣の皮膚を焦がすことすら叶わず霧散した。
本来、下級の魔物であるはずの獣が、上級魔術をも凌駕する「高位魔術」――精神呪文を操るなど、世界の理が崩壊している証左に他ならない。この地下には、生態系を根底から歪める「毒」が満ちている。
魔獣の突進を紙一重でかわし、ジグは悪態をついた。
高位魔術を扱う魔獣に、先程と同じ光の槍で対抗できるか判断がつかない。
(さっきより派手なのをまともにぶつけりゃ、この地下ごと生き埋めだ……。だが、小細工じゃ通らねえ!)
その時、ジグの鋭い視線が魔獣の片目に突き立つ「銀の輝き」を捉えた。あの傭兵が、決死の覚悟でねじ込んだ投げナイフだ。
「……なら、そいつを道標に使わせてもらうか!」
ジグは床を叩きつけた魔獣の剛腕を踏み台にし、跳躍した。空中で魔獣の顔面に肉薄し、その目に深々と刺さるナイフの柄を掴んだ。
「喰らいな……内側からよ!」
媒介となった鋼を通じて、ジグの全魔力が「雷撃」となって魔獣の体内へと一気に注ぎ込まれた。
――ギィィイイアアアアア!!
鼓膜を切り裂くような絶叫。魔獣の体内で荒れ狂う紫電が、その心臓を、内臓を、そして歪な魔力を根こそぎ焼き払う。やがて咆哮は途絶え、巨大な影は断末魔とともに床へと崩れ落ちた。
事切れる間際、魔獣は先ほどの個体と同じように、濁ったエーテルの欠片を吐き出した。それはジグが触れる間もなく、呪いが解けるように粉々に砕け、虚空へと消えていった。
「ジグ、ありがとうございました。……この方、まだ息があります」
駆け寄ったアルスの言葉に、ジグは荒い息を吐きながら傭兵を見下ろした。
「あの白炎をくらって生きてるとはな。……面構え通り、中身まで鉄で出来てんのかよ」
男の呼吸は浅く、意識の深淵を彷徨っている。
「仕方ねえ。アル、この先に少しマシな広間があったろ。そこで腰を据えて手当てだ」
「はい。……ですが、どうやって運びましょう。この方、とても重そうです」
「まーかせておけ。俺だって、伊達に二十年放浪を続けてねえ」
ジグは強がってみせたものの、いざ傭兵の巨躯を背負い上げた瞬間、その顔が歪んだ。
「ぐっ……重てえ……。何キロあんだこいつ……骨身に響くぜ……」
ずっしりとした「生」の重みを背負い、ジグは呻き声を上げながら、アルスの導く闇の先へと歩み出した。
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遺跡の裂け目からこぼれる頼りない光が、床に溜まった冷たい埃を淡く浮き上がらせていた。
ジグとアルスは、昏倒した傭兵の体を運び込み、壁際にそっと横たえる。魔獣が放った精神呪文は、幸いにも練度が甘かった。もしあれが真に熟練した魔術師の手によるものならば、今頃この男の精神は、内側から焼き尽くされて灰になっていただろう。
アルスは祈るように指先をかざし、男の体内に残る白炎の残り火を、凪のような法術で静かに消し去っていく。辺りには、獣を遠ざけるための香が、細い糸を引くように漂っていた。
「お前ってさ……」
薬草をすり鉢で挽きながら、ジグがぽつりとこぼした。翠の民と共に旅をしていた頃に覚えた、実用的な手つきだ。
「法術を使ってる時、いつも何をつぶやいてんだ?」
ジグはずっと気になっていたのだ。アルスが法術を行使する際、その唇からこぼれるのは決まった詠唱ではない。もっと別の、どこか親密な響きを持った言葉たち。
「あ……、いえ。精霊たちに、よかったら力を貸してくださいと……そう伝えているだけで」
アルスは少し照れくさそうに微笑んだ。
「いつもそうしてお願いしているので、先程のような水幕も、きっと彼らが応えてくれるはずだと思って」
男の息遣いは未だ荒く、額には脂汗が絶えず浮かんでいる。ジグは挽き終えた薬草の粉末を、器用に混ぜ合わせた。その仕草の端々に、少年のような、隠しきれない憧憬の色が混じる。
「精霊か……」
「俺にはエーテルしか見えねえから、よくわかんねえな。そういうの」
隙間風が、ジグの鮮やかな赤髪を揺らす。薬草の粉末に、滋養を促す別の植物を丁寧に加えていく。
「エーテルが見えるのですか?」
アルスの声に、驚きと感嘆が混ざる。彼は清潔な布を取り出し、男の額を拭った。冷え込まぬように、男の様子に注意を払う。
「ああ、まあな。はっきり見えるぜ。今も、そこら中に」
ジグは少しだけ自嘲気味に、だが自負を込めて言った。混ざり合った薬草の香りが、遺跡の澱んだ空気をわずかに変える。
「それは凄い事ですよ、ジグ。私も、見てみたかったです」
アルスは男をなだめるように、繰り返し汗を拭う。霊峰を降りてからというもの、彼はどれほど切望しただろうか。女神の吐息であるエーテルを、この目で見てみたいと。その慈悲深い流れを感じることは出来たが、女神の生まれ変わった姿を見ることは叶わなかった。
「……なるほどな。一番欲しいものは、簡単にゃ手に入らねえってことか」
「そうかもしれませんね」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
遺跡の天井から差し込む月の明かりが、疲弊した二人の間を、誰の邪魔も入らぬように優しく照らしていた。
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薄暗い意識の底で、ガウルは果てのない夢を見ていた。
音もなく広がる漆黒の夜。どこへ向かうとも知れず、ただ一人、泥濘のような闇を彷徨っている。足下にあるのは川なのか、それとも底知れぬ沼なのか。判然としない恐怖に急かされるように、彼は必死に足を動かし、前へと進もうともがいていた。
ふと気づけば、腰にあるはずの得物が消えている。二十年もの間、己の半身として信じ続けてきた鋼の剣を、何者かに奪われていた。
拠り所を失った瞬間、胸を圧迫するような不安が、冷たい水のようにじわじわとせり上がってくる。剣を振るい、力のみを頼りに闇雲に生きてきた己の空虚さが、剥き出しの傷口のように露呈していく。
さらには、身を守るべき鎧さえもが剥ぎ取られ、彼は無防備な裸身を晒していた。
腰の高さまで満ちてきた漆黒の海。何一つ持たぬ己の矮小さを直視することは、死よりも耐えがたかった。戦いの渦中に身を置きさえすれば、いつかあの日交わした約束を果たす機会が訪れる――そんな、淡く、独りよがりな夢に縋っていられたのに。
いつしか両腕は目に見えぬ枷に縛られ、自由を奪われていた。それでもなお、彼は歩みを止めない。どこかへ。おそらくは、前へ。
そのとき、虚空から垂れてきた一筋の黒い雫が、冷たく首筋を伝った。
闇の中に、一閃。冷徹に煌めく刃が、無力な彼の喉元へと吸い込まれ――。
「……っ! がっ、……は、はあ……っ!」
長い間、肺を潰されていたかのように、ガウルは激しく酸素を求めて目覚めた。心臓は肋骨を突き破らんばかりに脈打ち、全身を刺すような痛みと、鉛を流し込まれたような重苦しさが彼を地べたに縫い止めている。
(俺は……助かったのか……?)
魔獣の不意打ち、消えゆく意識。最後に見たのは、地に伏しながらも剣へ伸ばした、届かぬ己の指先だった。喘ぐたびに胸が大きく上下し、生きていることを残酷なまでの苦痛と共に伝えてくる。
「……よかった。目が覚めたのですね」
すぐ傍らで、静かな声がした。
濁った視界を向ければ、そこには先日、無骨な己の腕を治療して去っていったあの青年がいた。相変わらず深く被ったフードの陰で顔立ちは判然としないが、記憶にある通り、世俗の垢にまみれぬ清廉な気配を纏っている。
「あんだけの魔術をまともに喰らって、生きてるなんてなあ……」
もう一つの影が視界に割り込んできた。赤髪の魔術師だ。確か、この法術師の連れだった男。
建物の隙間を抜けてきた夜風が、ガウルの火照った身体をなぞり、死の淵から連れ戻された体温を少しずつ奪っていく。
(こいつらに、拾われたというのか……)
危うい足取りの二人を案じて地下へ降りたはずが、無様に返り討ちに遭い、あべこべに命を救われるとは。傭兵として修羅場を潜り抜けてきた自負があるだけに、苦い後悔と情けなさが、毒のように胸に回る。
「ようし、じゃあこれ、飲んでくれ」
赤髪の男が、何やら怪しげな煎じ薬を口元へ差し出してきた。
「……よ、せ……」
掠れた声で拒む。戦場という不確かな場所で生きてきた彼にとって、他者の施しは毒と同義だった。染み付いた警戒心が、弱り切った肉体を強張らせる。
「大丈夫ですよ。ただの気付け薬です」
法術師の青年が、諭すように穏やかに言った。
「そういうこと。助かりたかったら、大人しく飲むんだな」
有無を言わせぬ言葉に、ガウルは微かな溜息と共に口を開いた。抵抗しようにも、指一本動かす自由すら今の彼には残されていない。
流し込まれた液体が喉を通った瞬間、脳を突き抜けるような激烈な苦みが、満身創痍の五臓六腑を駆け巡った。ガウルは激しく咳き込み、涙の滲む目でようやくそれを飲み下す。
直後、強烈な薬効からか、あるいは安堵からか、意識が再びまどろみの淵へと沈んでいった。
「やっぱ苦すぎたか……これ」
「どうでしょうか……私は、それほどでもありませんでしたが……」
深い眠りに落ちる寸前、そんなとりとめのない会話が耳の奥で弾けた気がした。
夜の帳が一段と深まり、冷たい風が、戦いに疲れ果てた男の身体を、今はただ優しく包み込んでいた。
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二人が交代で眠り、静かに傭兵の様子を見守るうちに、時は緩やかに流れていった。
「……う、……うう……」
空の端が、夜の重みを脱ぎ捨てて朝焼けへと移ろおうとする頃。ガウルは呻きとともに、再び意識の淵から這い上がった。今度は、あの昏い悪夢に追い回されることはなかった。薬効が身体の隅々にまで行き渡ったのか、鉛のような倦怠感は残っているものの、どうにか四肢に力を込められるまでに回復していた。
「調子はどうだ?」
ゆっくりと上体を起こそうとするガウルに、傍らにいた赤髪の魔術師が声をかけた。
身じろぎするたび、未だに鋭い痛みが火花のように全身を走る。それ以上に、身体の芯――己の生命力そのものがごっそりと削り取られたような、得体の知れない不快感が澱のように沈んでいた。
「タチの悪い魔術を喰らったんだ。無理もねえよ」
赤髪の男が、言葉を選びながら短く告げる。魔導に疎い自分への、彼なりの不器用な気遣いなのだろう。
「……そうか」
ガウルは絞り出すように答えた。魔獣に不覚を取った苦い後悔が、乾いた喉の奥に凝り固まっている。地下遺跡の隙間からは、朝の光がまばらに差し込み、埃の舞う静寂を白く染め始めていた。
「慰めになるか分かんねえけどよ……」
赤髪の男が、視線を逸らしたままぽつりと零した。
「アレはどう見ても、ただの魔物じゃなかった。それをあそこまで追い詰めたんだ。……大したもんだぜ、あんた」
二十年という年月を、裏切りと剣戟の中で過ごしてきたガウルにとって、その真っ直ぐな言葉はどこか気恥ずかしく、こそばゆい。どう返すべきか迷い、言葉を呑み込んだ。
「起き上がれるようになったのですね」
逡巡するガウルの元へ、もう一人の法術師の青年が歩み寄ってきた。
その手には小さな器が握られ、柔らかな湯気がひと筋、朝の光に溶けていく。外套を深く被ったままであっても、差し込む陽光は彼の横顔に神秘的なまでの透明感を与えていた。
「どうぞ。……少しでも、お食事が摂れそうでしたら」
「薬膳だから、腹が膨れるほどじゃねえけどな」
手渡された器の中では、黄金色のスープが温かな香りを湛えていた。ガウルは器に落とした視線を上げぬまま、低く、呟くように問う。
「……なぜ、助けた」
「なぜ、って言われてもなあ……」
唐突な問いに、赤髪の男が当惑したように頭を掻いた。揺れるスープの表面が、朝の光を反射して眩しく煌めく。
「初めてお会いした時から、良い方だと思ったからですよ」
淀みのない、清らかな声が返ってきた。法術師の青年は、事も無げにそう微笑む。
「お前……誰にだってそう言うだろ」
「そうでしょうか?」
二人の交わす軽やかなやり取りを耳にしながら、ガウルは「そうか」とだけ、短く応じた。
未だ痺れの残る指先に力を込め、命の恩人たちが差し出してくれた器を、一気に飲み干す。
喉が鳴り、何度か激しくむせてしまったが、構わなかった。
ここしばらく、味わうことのなかった――。
胸の奥まで温もりが染み渡るような、滋味深いスープだった。




