004 出会いと賢者の石 ④
薄暗い森林の街道を、一人の巨躯が圧するように進んでいた。
革で作り上げられた質実剛健な鎧。背には大剣、腰には短剣、そして胸のベルトには無数の投げナイフ。その全身から立ち昇る、幾多の戦場を血で洗ってきた戦士だけが持つ凄絶な覇気は、街道を行く旅人たちに一瞥もさせず道をあけさせていた。
二十年という月日は、ガウルを歴戦の傭兵へと変えていた。
父と別れたあの凄惨な夜以来、彼は国を捨て、名を伏せ、ただ剣一本で生を繋いできた。商隊の護衛、賞金首の追跡、野盗の討伐、災害救助――。その足跡は大陸中に刻まれたが、ただ一点、故郷である神聖王国の土だけは、二度と踏むことはなかった。
一度だけ、国境を望む場所まで足を進めたことがあった。だが、そこで彼を待っていたのは、かつての城塞都市を混乱に陥れた大罪人としての指名手配書であった。
自分が生きていると知れれば、首都に残した母や弟の身に何が及ぶか分からない。
悔しさに拳を血の出るほど握りしめ、彼は身を隠すのに適した、自由と欲望の国・貿易連合国へと潜ったのである。
(父上……)
不意に立ち止まり、焦点の合わぬ瞳で遠景を見やる。
鏡を見るまでもなく、自らの顔があの日の父の年齢に近づいていることを悟る。精悍に引き締まった頬、数知れぬ死線を越えて寡黙になった口元。今の彼を見て、かつての「騎士」の面影を見出す者など皆無だろう。
それでも――父と交わした「ここから生き残り、新たな生き方で道を拓け」という約束の答えは、未だ霧の向こう側であった。
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「おい、そこのお前!」
野卑な声が、郷愁の底にいたガウルの意識を強制的に引き戻した。
気がつけば、数人の男たちが獲物を取り囲むハイエナのように陣を敷いている。柄にもなく過去に浸っていたせいで、野盗の接近を許した己の慢心を、ガウルは心中で小さく呪った。
「何だ」
短く、地を這うような低音。
「へっへへ……用件なんて分かんだろぉ? 金目のもん全部置いてくんだな」
「断る」
その一言に込められた、絶対零度の威圧感。
「おいおい、この人数だぜ? でけえ図体が自慢かもしれねえが、大人しく言う事聞いた方がいいぜ、おっさん」
「……おっさん、だと?」
ガウルの耳が、ピクリと反応した。
年齢を揶揄されるたび、彼は自分が「約束」を果たせぬまま歳月だけを浪費している現実を突きつけられるのだ。その苛立ちが、眠れる獅子の尾を踏み抜いた。
「やめておけ。相手にならん」
「うるせえんだよ、ジジイ!!」
背後から、しびれを切らした一人が大剣を振りかざして襲いかかる。
ガウルは振り返ることさえせず、気配だけで最小限の身をかわすと、反転する勢いのまま男のみぞおちに鋼のような拳を叩き込んだ。
「ガフ……ッ!」
肺から全ての空気が搾り出される濁った音とともに、男は白目を剥いて気絶した。
「チッ……! こっちが下手に出てりゃ、この野郎!」
リーダー格の男が剣を抜くと、呼応するように残りの四人が一斉に刃を向けた。
「殺っちまって構わねえぜ! こんだけ図体がありゃ、臓物から何まで売り放題だ!」
「やってみるといい……。出来るものならな」
気絶した男を無造作に脇へ放り投げ、ガウルは腰を落とし、戦いの構えをとる。
相手は五人。こちらは一人。
だが、ガウルの瞳に宿るのは、数多の軍勢を一人で受け止めてきた王家の戦士の誇りと、傭兵として積み上げた冷徹な計算であった。
「戦いはいつも、フェアじゃないな」
自嘲気味に笑い、ガウルは一歩を踏み出す。
その重圧に、野盗たちの表情が驚愕と後悔に歪んでゆく。
運命は、かつての公子を、再び血と鉄の螺旋へと引き戻そうとしていた。
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「うらあ!」
先陣を切った男の太刀筋を、ガウルは冷徹な眼差しで切り捨てた。
(……芸がない。宝の持ち腐れだな)
男が握る剣は業物だったが、振るう主の魂が伴っていない。ガウルは吸い付くような動作で切っ先を掌でいなし、空いた懐へ岩石のような肘打ちを叩き込んだ。
鼻梁が砕ける鈍い音とともに、鮮血が舞う。男がもんどり打って沈むのと同時に、ガウルは残る四人の間合いを測った。
「ちっきしょう、舐めやがって!」
次なる二人は、呼吸を合わせていた。大柄な男が力任せに縦に割り、回避した先を小柄な男が鋭く突く。
「……少しは知恵が回るか」
ガウルは巨躯に似合わぬ俊敏さで大振りを紙一理でかわすと、その勢いを殺さず、軸足を支点に大柄な男の首筋へ強烈な蹴りを見舞った。
さらに、驚愕に目を見開いた小柄な男の顎を、反転の勢いのまま蹴り上げる。脳を揺さぶられた男たちは、悲鳴を上げる暇もなく意識の闇へと突き落とされた。
パニックに陥り、喚きながら剣を振り回す四人目。ガウルはその無様な突進を柳のように受け流して足を払い、仰向けに倒れた悶絶の胸元を靴で踏み抜いた。
「……ふん」
最後の一人――リーダー格の男は、仲間の惨状を見るや否や、誇りも仲間の絆も捨てて背を向けた。
(……逃げ足だけは一流か)
鼻を鳴らしたガウルは、胸のベルトから一本の投げナイフを抜き放った。放たれた鋼の閃光は、逃走する男の右腕を正確に射抜く。
「が……っ!!」
地面を転がる男に歩み寄り、ガウルは無造作にナイフを引き抜いた。
「安心しろ。刃に塗ってあるのは睡眠薬だ。止血はしてやる」
のたうち回る男の罵倒を、ガウルは聞き流した。六人の野盗を一箇所にまとめ、街道の目立たぬ茂みへと隠す。その一連の動作には、戦場を渡り歩いてきた者特有の、無駄のない冷徹な手際が宿っていた。
(さて……これからどうするか)
売られた喧嘩とはいえ、このまま街道を歩けば仲間の残党に付きまとわれる可能性もある。
どこか適当な身隠しを探そうと思案した刹那、木々の合間から不浄な唸り声が響いた。
ガウルは咄嗟に大樹の影へと身を隠す。
現れたのは、飢えた獣の群れと、不機嫌そうに鼻を鳴らす数匹の小鬼だった。奴らは何かに追い立てられるように、森林の奥へと消えていく。
ガウルは、奴らが這い出してきた方向へと視線を転じた。
そこには、崩落した石造りの廃墟が口を開けていた。
「……調査依頼が出ていた地下遺跡か」
報酬と労力が見合わぬとして、ギルドの掲示板で埃を被っていた案件。だが、ガウルの記憶には、あの奇妙な二人組の姿が焼き付いていた。
魔術師二人だけで前衛も置かぬ危うい組み合わせ。自分の腕を癒した、世間知らずな銀髪の青年と、あの燃えるような瞳の男。
「……ふむ」
少しの思案の後、ガウルは静かに地下への階段を降り始めた。
野盗から身を隠すには格好の場所であり、そして何より――あの二人を放っておくには、ガウルの胸に宿る騎士の残照が、それを許さなかったのだ。
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地下へと降り立ったガウルを、肌を刺すような冷気が迎えた。
迷宮の回廊を進む彼の眼前に現れたのは、美しくも禍々しい、分厚い氷の壁だった。背後の気配を完全に遮断するかのように聳え立つその氷壁は、向こう側の景色さえ歪め、寄せ付けぬ拒絶の意思を放っている。
「魔術か……」
ガウルは警戒を解かぬまま背中の大剣を抜き、慎重にその先端で氷を突いた。
神聖王国という、祈りと魔導の国に生まれながら、彼には魔導の才が欠片もなかった。精霊の囁きも、エーテルの脈動も、彼にとっては無縁の概念だ。かつて宮廷の重鎮たちが「魔力をすべて筋肉に変えてしまった」と嘲笑った言葉は、今の彼にとっては歴戦を生き抜くための勲章でしかなかった。
(これほどの氷を作り上げるとは。あの二人、見た目以上に食えん連中らしい)
罠がないことを確認したガウルは剣を収め、氷壁を避けて別の探索路を探し始めた。
崩落の激しい場所を避け、床に穿たれた真新しい穴から、ガウルは鉤爪付きのロープを伝って階下へと降りた。下層は驚くほどに保存状態が良く、石造りの壁面には往時の威容が今なお色濃く残っている。
だが、ある大部屋へ足を踏み入れた瞬間、ガウルは喉の奥を凍りつかせた。
視界を埋め尽くす大量の瓦礫。砂煙が舞うその下に、数人の旅人たちが無残な骸となって横たわっていた。
(……あの二人ではないな。だが……)
かつての青年時代、目の前で失われていった多くの命を思い出し、ガウルの胸に鋭い痛みが走る。一人で掘り起こすにはあまりに巨大な瓦礫の山を前に、彼はただ静かに立ち尽くし、無念に散った者たちへ哀悼の祈りを捧げた。
ガウルがその場を立ち去ろうとした、その時だった。
背後で、瓦礫の山が意思を持ったかのように唸り声を上げ、隆起し始めた。
石を噛み砕くような不快な音を立てて瓦礫を振り払い、そのおぞましい影がガウルの前に姿を晒す。
「魔獣……! こいつに襲われたというわけか……!」
それは、地下の毒気に当てられ、理性を失った破壊の化身。瓦礫に痛めつけられたことで興奮は頂点に達しており、爛々と光る眼球がガウルを獲物と定めた。
戦いは避けられない。ガウルは瞬時に周囲を索敵し、崩落の恐れがある狭い部屋を捨てて、通路の先にある開けた広間へと駆け出した。
背後からは、重戦車のような足音と、石壁を削る爪の音が迫る。
広間の中央で、ガウルは反転した。
「……来い」
地を這うような低い声とともに、背中から引き抜かれた大剣が、地下の僅かな光を反射して冷たく煌めく。
一人は歴戦の傭兵。一頭は狂乱の魔獣。
二つの殺気が激突し、地下の静寂は無慈悲な闘争の声によって切り裂かれた。
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魔獣の放つ力任せの薙ぎ払いを、ガウルは最小限の動きで回避した。翻る大剣が魔獣の脇腹を裂くが、手応えは石像を叩いたかのように硬い。表皮を僅かに削ったに過ぎないその感触に、ガウルは短く呼気を吐いた。
「やはり硬いな」
魔獣の次なる猛攻を跳躍して避ける。これまでこなしてきた数多の魔物討伐の経験から、こいつは狼が変異した個体だとガウルは断定していた。この種は筋力の膨張こそ脅威だが、魔術を操る知能はない。
(俺と同じようにな……)
己の無骨な力と、目の前の獣を重ね、ガウルは自嘲気味に笑った。
(本体はいい! 足元を狙え!)
脳裏を過ったのは、かつての城主が飛ばした怒号。戦場での教訓は、今も彼の血肉となっている。
ガウルは魔獣の叩きつけるような一撃をかわし、その着地際を狙って右足の腱を正確に断ち切った。
いかに強靭な皮膚を誇ろうと、支えを失った魔獣は悲鳴を上げて片膝をつく。その隙を逃さず、胸のベルトから引き抜いた投げナイフが魔獣の眼球を射抜いた。
「おおおお!!」
視界と機動力を奪われ狂奔する魔獣の腹へ、ガウルは全霊を込めた一撃を叩き込んだ。衝撃波が広間を揺らし、巨躯は大の字になって吹き飛ばされる。
もはや勝敗は決した。ガウルは止めを刺すべく、鈍い音を立てて軍靴を踏み出した。
この貿易連合国でこれほど巨大化した個体は珍しいが、所詮は獣。口中へ剣を突き立てれば終わるはずだった。
ガウルが剣を上段に構えた、その時。
魔獣の四肢から、不吉な青白い光が溢れ出した。次の瞬間、音もなく噴き出した「真っ白な炎」が、逃げる間もなくガウルの全身を包み込んだのだ。
「ぐ……! がああ!!」
喉を引き裂くような絶叫が漏れる。鎧も肌も焼けてはいない。だが、その炎は肉体を通り抜け、ガウルの精神そのものを内側から焼き尽くそうとする熾烈な痛みを伴っていた。
それは、自然界の魔物には有り得ぬ「不自然な力」の奔流。
猛烈な衝撃に意識を飛ばされかけ、膝をつくガウル。そこへ、立ち上がった魔獣の横薙ぎが襲いかかった。咄嗟に剣で防御したものの、その膂力は先ほどまでとは比較にならず、ガウルは木の葉のように吹き飛ばされて石壁に激突した。
崩落した壁の破片が、ガウルの無力な身体に降りかかる。
(油断した……か……)
相手をこれまでの経験則に当てはめた驕りか、それとも郷愁に魂を引かれ、戦士としての牙が鈍っていたのか。
魔獣は勝ち誇ったような唸りを上げ、死の審判を下すべく一歩ずつ近づいてくる。
「ぐ……っ、う……!」
だが、ガウルは指先に力を込めた。まだ死ねぬ。あの日、父と交わした約束の、その入り口にさえ自分は立っていないのだ。
視界は鮮血と混濁に染まり、身体は鉛のように重い。
けれど、消えゆく意識の向こう側――。
砕けた天井の穴から降り注ぐ光の中に、二つの影を見た気がした。
絶望の底で、ガウルは今、二十年前に自らが守れなかった「何か」が、再び目の前に現れたような錯覚に陥っていた。




