006 出会いと賢者の石 ⑥
「……なら、お前たちは本当に、あの端金の依頼を受けてここまで来たのか」
休息を十分に摂り、スープを啜った傭兵の声には、次第に確かな力が漲り始めていた。
(近くで見ると、やっぱ威圧感がすげえな……)
ジグは傍らで男を観察しながら、内心で舌を巻いた。
陽に焼けた褐色の肌に、鋼を打ち出したような頑強な肉体。漆黒の瞳は、射すくめるような鋭い光を宿している。後ろに撫でつけた髪には、かつては輝かしい金糸であっただろう面影が残っていたが、長年の風雨と過酷な日差しに晒された今は、くすんだ砂の色に変色していた。
「なぜ、この仕事にこだわる?」
傭兵は重い口を開いた。命を懸けるには、あまりに報酬が渋すぎる依頼だ。彼自身、酒場の掲示板でそれを見かけた時は、鼻で笑って一顧だにしなかった。
「ここには何かが眠っている…、そんな気がするのです」
アルスの清らかな声が、朝の静寂に包まれた遺跡の奥へと染み渡っていく。
「まあ、なんつーか。こいつの勘は、妙に当たるんだよ」
ジグは努めて軽い口調で添えた。アルスが精霊の声を聞けるという事実は、念のため伏せておく。この男に悪意はなさそうだが、用心に越したことはない。
昨夜の魔獣との死闘が嘘のように、地下遺跡は静まり返っていた。襲撃者たちの残響も、今は遠い過去の出来事のように思える。
「あんな連中とやり合って、まだ奥へ行くつもりか」
傭兵が問う。言葉を紡ぐには、まだ相応の体力を要するようだった。あるいは、長く孤独に身を置いていたせいで、声の出し方を忘れかけていたのかもしれない。
「……まあ、そういう仕事だからな」
ジグは観念したように肩を竦めた。アルスという青年は、一見風に舞う木の葉のように頼りなげだが、その芯には一度決めたら動かぬ、ある種の頑固さが潜んでいることを、ジグは既に悟り始めていた。
「そうか……」
傭兵は短く応じると、何かを噛みしめるように沈黙した。やがて、決然とした面持ちで二人を見据える。
「なら、俺も行こう」
命を救われたからには、共に行くのが道理――男の中に辛うじて生き残っていた騎士の精神が、そう告げていた。
「あんた、ずっと一人でやってきたんじゃねえのか?」
ジグの問いに、男は自嘲気味に口角を上げた。その風貌には、長年独りで荒野を渡ってきた者だけが纏う、峻烈な孤独の匂いがあったからだ。
「いや……魔術師の二人組など、危なっかしくて見ていられんと思ってな。様子を見に来ただけだ。……返り討ちに遭って、この様だが。役に立つかは分からん」
「そんなことはありません。とても心強いです」
アルスがフードの陰から、真っ直ぐに男の瞳を射抜いた。
これほど真正面から見据えられたことが、かつてあっただろうか。誰もが避け、あるいは恐れたその眼光を、アルスは慈しむように受け入れている。男は一瞬、戸惑うように視線を彷徨わせた。
「そうだって。あんたがあの時、魔物の目にナイフを突き立ててなきゃ、今頃どうなってたか分からねえ」
ジグもまた、異常な魔物を土際まで追い詰めた男の実力を認め、率直に言葉を掛けた。
「……そうか。なら、よろしく頼む」
男は重い腰を上げ、立ち上がった。身体の節々に鈍い痛みは残るが、戦うには十分だった。
「では、改めて自己紹介を。私はアルスといいます」
アルスはそう言って、深く被っていたフードを外した。
露わになったその姿に、男は思わず息を呑んだ。朝の光を透かす銀の髪、そしてこの世のものとは思えぬほどに澄んだ美貌。それにこの黄金の瞳は、神の祝福をうけたという伝承がなかったか。
男は躊躇いがちに、差し出されたアルスの白い手を取った。
「俺はジグだ」
続けて差し出されたジグの手も、固く握りしめる。
「……ガウルだ」
男は久しぶりに、かつて父が愛着を込めて呼んでくれた名を名乗った。
ジグはガウルの手を握りながら、ふと、胸に燻っていた疑問を口にする。
「あんた……俺を見て、何とも思わねえのか?」
翠色の肌、天を指す尖った耳、そして燃えるような赤髪。
長い放浪の末、ジグは心のどこかで、他者が自分を拒絶することを半ば期待してさえいた。それがよくある反応だったからだ。
「何がだ?」
ガウルは、心底不思議そうに問い返した。まるで、その質問の意図すら理解できないというように。
「ふーん……。まあ、いいわ」
ジグは苦笑いして、固く交わしていた手を解いた。アルスと出会ってからというもの、どうにも調子が狂ってばかりだ。
「……一人だけ年長者が混じると、やりづらいかもしれんがな」
ガウルが自嘲混じりに漏らすと、ジグは少し気恥ずかしそうに鼻先を擦った。
「あー……。年長者は、たぶん俺だな」
「そうなのですか?」
アルスが驚いたようにジグを顧みる。自分と同じ年頃だと思っていたのだろう。
「まあ、その……長生きする種族なんだよ。今年で大体……七十歳くらいか」
「……なら、年功序列でリーダーはお前だな」
ガウルが淡々と言い放つ。
「はあ!? 嫌だよ、そんな面倒なこと」
「でも、ジグは向いていると思いますよ」
アルスの言葉に、ガウルから不意に笑みが漏れた。
誰かを嘲笑うのではない、腹の底から湧き上がるような笑い。こんな風に笑ったのは、一体いつ以来のことだろうか。
遺跡の隙間からこぼれる朝陽が、三人の影を長く、等しく床に描いていた。
どこからか吹き抜けてきた風が、新しい旅路を祝福するように、三人の間を軽やかに通り抜けていった。
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三人は互いの気配を意識しながら、地下二階の広間を散開して調べていった。
昨夜の激闘の名残か、壁のあちこちに亀裂が走り、剥落した石材が床に散らばっている。かすかに舞い続ける砂埃の匂いが、古びた遺跡の死臭と混じり合って鼻をついた。
「ここから、さらに下へ降りていけそうです」
あの魔獣は、本当にただの迷い込みだったのか――ジグが疑念を抱き始めた時、静寂を破ってアルスの声が響いた。
ジグとガウルが駆けつけると、そこには暗い口を開けた、さらなる深淵へと続く階段が横たわっていた。
「ふむ……厳重なことだな」
ガウルが目を細め、階段の先を凝視する。階下からはもはや、陽の光の欠片さえも届かぬ、濃密な闇がせり上がってきていた。
「金持ちが道楽でいたずらに迷宮を築いたか、あるいは、本当に隠すべき何かがあるのか……だな」
ジグの言葉に、ガウルは無言で頷くと、「俺が先に行こう」と一歩を踏み出した。その頼もしい背を追うように、二人が続く。
地下三階は、完全な闇が支配する領域だった。
不意の襲撃を警戒し、アルスは照明の魔法光を極限まで絞り、淡い真珠色の光球を周囲に漂わせる。
そのとき、奥の暗がりから、喉を潰したような耳障りな鳴き声が漏れてきた。
刹那、ジグとガウルは流れるような動作で戦いの構えを取る。ジグが顎で合図を送ると、アルスは一点を射抜くように光球を奥へと放った。
白光に照らし出されたのは、二匹の異形であった。
元は小型の獣だったのだろう。だが、その口は耳まで裂け、身体は急激な変異に耐えかねたように醜く膨張している。呼吸を繰り返すたびに、喉の奥から「ギャア、ギャア」と、呪いのような音が漏れ出していた。
獣たちが光に怯むより早く、ジグの放った紫電が空間を裂き、一匹を貫く。同時にガウルが放った投げナイフが、もう一匹の喉元を正確に捉えた。
急造の三人組とは思えぬ、鮮やかなまでの連携だった。
「魔物になりかけてた……って感じだな」
ジグが、力なく横たわる獣の骸を足先で小突く。魔物のなり損ないたちは、最期の息とともに、禍々しい赤色を帯びたエーテルの欠片を吐き出した。それはかつて目にしたものと同様、空気に触れた途端、砂のように脆く崩れて消えていった。
「偶然ではありませんね……」
アルスが沈痛な面持ちでその様子を見つめる。この階に降りてからというもの、あれほど親密だった精霊たちの声が、薄い膜の向こう側へ消えてしまったかのように、何も感じられなくなっていた。
「……! 二人とも、こっちだ。何かあるぞ」
周囲を警戒していたガウルの声が、闇の奥から響いた。
二人が駆けつけた先には、重厚な石の扉を備えた大きな部屋があった。
扉は、誘うようにわずかに開いている。誰かが閉め忘れたのか、あるいは――。
その隙間からは、夜の冷気とは明らかに異質な、肌を粟立たせるような「嫌な空気」が絶えず漏れ出していた。
三人は視線を交わし、一言も発さずに深く頷き合う。
そして、運命の重みを押し開くように、慎重にその扉を開いた。
地上では既に朝陽が万物を照らしているはずだというのに、そこにはただ、漆黒の静寂だけが横たわっていた。
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「こいつは……」
「想像以上ってやつだな……」
アルスの放った光球が室内の闇を追い払った瞬間、ジグとガウルは同時に息を呑んだ。
広大な部屋の床一面を埋め尽くしていたのは、執念すら感じさせる緻密さで描かれた巨大な魔法陣だった。周囲には、未知の実験や儀式に用いられたであろう不気味な器具、そして古びた書物が足の踏み場もないほどに散乱している。
「金持ちの道楽、などという言葉では片付かんな」
ガウルが警戒を露わにしながら一歩を踏み出そうとした、その時だ。
「……っ! ガウル、待ってください。この魔術、まだ生きています!」
鋭い制止の声とともに、ガウルは腕を強く引かれた。細身のアルスからは想像もつかないその膂力に、歴戦の傭兵であるガウルさえも一瞬、驚きに目を見開く。
「案外、力あるだろ? アルは」
ジグがどこか誇らしげに口角を上げた。彼は腰に提げた短剣を抜き放つと、魔力を注ぎ込んで刃を赤く白熱させる。そのまま迷いのない動作で、床に描かれた陣の「脈」を断ち切るように深々と突き立てた。
秩序を失った魔法陣は、断末魔のような光を一瞬だけ放ち、そのまま冷たい沈黙へと沈んだ。
「まさか……これって……」
安全を確認して部屋の中央へ進んだ三人の前に、それは鎮座していた。魔法陣の核として置かれていた、禍々しい輝きを放つ赤い石。
「聖堂の宝玉……か? 砕け散ったはずだが」
ガウルが、絞り出すような声で呟く。二十年前、彼の運命を、そして世界を狂わせた惨劇の象徴。その忌まわしい記憶が、苦い嫌悪感となって喉の奥にせり上がってきた。
「いや、あれは確かに砕けたはずだ。それに……」
「ジグ、これを見てください」
宝玉などという神の領域の産物が、一個人の手に負えるはずがない――。ジグがそう言いかけたのを遮り、アルスが一冊の書物を差し出した。
「『賢者の石』……? 御大層な名を付けやがって」
「一体、何のためのものなのでしょうか」
二人の会話を背中で聞きながら、ガウルは辺りを鋭く見回す。石の精製に使われたであろう道具の数々……中には帝国の魔導具と思われるものまで混じっている。単なる貿易連合国の富豪が揃えられる規模を、遥かに凌駕していた。
「ええっと……『若返り』、『体内組織の強化』、『万病の治療に蘇生』……果ては『不老不死』、か」
ジグが淡々と、だが吐き捨てるように記された目的を読み上げる。
「そんなことが、本当に可能なのか?」
傍らで覗き込んだガウルが、信じがたいといった面持ちで問う。魔術の深淵は、剣一本で生きてきた彼にはあまりに不透明で、空恐ろしいものに感じられた。
「聞いたこともねえな……」
「宝玉に似せて、造ろうとしたのでしょうか」
アルスが沈痛な面持ちで石を見つめる。女神の息吹であり、世界の調和を保つはずのエーテルが、人間の浅ましい欲望のために歪められ、結晶させられている。その事実に、彼の胸は締め付けられるように痛んだ。
「……ま、何にせよ。こいつはどうにかしねえとな」
ジグは深く、重いため息をつくと、石の前に腰を据えた。慎重に指先を動かし、その構造を、そして「欠陥」を探るべく観察を始める。
(先生……。過ちってのは本当に、繰り返されるものですね……)
胸の内で、幼き日の自分に語りかけるような声を響かせながら、ジグは「赤き贋作」へと意識を集中させていった。
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「なんか見えそうで……見えねえ……」
「代わりましょうか、ジグ?」
「いや……いい。もう少しで……掴める……」
「あんまり目を使いすぎて倒れたら、俺が担いでやる。安心しろ」
「……だな。そいつは、助かるぜ……」
石の深淵に潜む「何か」を暴こうと、ジグは割れるような頭痛に耐えながら、その瞳を極限まで凝視していた。
石を覗き込んで間もなく、その内部に極小の魔法陣が刻まれていることに気づいた。おそらく、適当な鉱石か宝石に強引にエーテルを蓄積させ、飽和した瞬間に陣を刻んで無理やり結晶化させたのだろう。床一面の魔法陣は、そのためのエーテルを呼び込む「漏斗」の役割を果たしていたに違いない。
(そんな芸当ができる時点で、並の術者じゃねえがな……)
ジグは奥歯を噛み締めながら、さらに視界を研ぎ澄ませていく。
「……っ! こいつは……死霊術か!」
ようやく確信を掴んだジグが、忌々しげに声を上げた。
「死霊術だと?」
「高位魔術の一つです…。死者を操り、あるいは呪いを振り撒く……一般には呪術、と呼ばれる禁忌の術ですよ」
聞き慣れぬ言葉に眉をひそめるガウルへ、アルスが静かに、だが重苦しく答えた。かつて、自分には才がないからと魔導の学問を疎かにしていたガウルは、己の無知を少しだけ恥じた。この地下で起きていることは、武力だけでは測りきれない闇に満ちている。
「悪趣味な石だと思ったら、その根底が呪術とはな。吐き気がしてくるぜ」
ジグは石を調べ続けたまま、毒を吐くように言葉を吐き捨てた。
「ジグ……。もしそれが本当に呪術なのだとしたら、使われた触媒は……」
「ああ、趣味の悪さじゃ天下一品だ」
アルスの沈痛な響きを拾い上げ、ジグが鼻を鳴らす。
「おそらく、血液を使ったんだろうな。どこの誰のものかは知らねえが……。このおぞましい赤さは、エーテルの色だけじゃねえってことだ」
ガウルにも分かるように告げられたその事実は、部屋の空気を一気に凍りつかせた。死霊術という言葉がもたらす薄ら寒い戦慄が、肌を刺す。
「まあ、いい。……壊すかね」
「平気なのか? 迂闊に手を出して、爆発でもされては堪らんぞ」
「こいつは宝玉じゃねえ。ただの石っころだ。こんなに小さきゃ、派手に弾けることもねえだろ」
「怪我だけはしないでくださいね、ジグ」
「まーかせておけっての」
軽口を叩きながらも、ジグの指先に遊びはなかった。再び短剣を抜き放ち、魔力を注いだ刃の切っ先を、石の中の「核」へと慎重に滑り込ませていく。赤く熱した刃は、まるで柔らかな絹を断つかのように、石の硬度を無視して中心部へと切り進んでいった。
刹那――刃が魔法陣の「理」を断ち切った。
カチリ、と硬質な音が響いたかと思うと、先ほどまで不気味な光を放っていた結晶は、跡形もなく崩れ去った。
残ったのは、ただの昏い色の液体。かつては誰かの命を巡っていたであろう血液が、どろりと床に広がり、冷たい染みを作った。




