043 望み望まぬ弟子入り街道 (後編)
「……あ! いましたぜ、旦那っ!!」
鬱蒼とした森林の中に野卑な怒声が木霊し、ジグは少年の日の淡い追憶から引き戻されるように身構えた。
「ム、先程の不届きな小僧ではないか」
「……あ、そういえば、緊縛したまま放置してきちまったな。仲間がいたのか」
いつもならば、幻獣を飛ばして速やかに街の衛兵を呼び寄せるのがジグの鉄則であった。だが、今日に限ってはガイストという男のあまりの嵐のような勢いに終始翻弄され、完全に失念していたのだった。今日はどうにも、朝から星の巡りが狂ってばかりだと、ジグは内心で小さく舌を打った。
二人の眼前に立ちはだかったのは、先ほどの野盗を含めて五人ほどの薄汚れた悪漢たちであった。その風体から察するに、おそらくは盗品を闇で買い付ける予定だった不義の輩だろう。
「テメエらか……俺たちがコイツから買い付けるはずだった極上の商品を、台無しにしやがった奴らは! おかげで俺たちが駆け付けた時には、巡回の衛兵どもが目と鼻の先まで来やがってて、命からがら逃げ延びるしかなかったんだぞ!!」
「知るか、そんなことは……。不平を漏らす暇があるなら、真っ当に額に汗して働け」
恨みの混じった罵声を浴びせてくる悪党どもに対し、ジグは心底呆れ果てた調子で言葉を返した。
約束の刻限になっても野盗が現れないことを不審に思い、合流地点へと駆け付け、事情を察した彼らは、怒りに任せてここまで追ってきたというわけだ。盗品はその場に遺棄せざるを得なかったのだろう。今頃は、巡回の衛兵によってすべて回収されているはずであった。
「へへ……こうなったら、お前らから身ぐるみを剥いで、金目のものをすべて叩き出してやる! 逃げられると思うなよ!!」
激しい怒気を孕んだ一人の男が、手にしていた松明に素早く火を灯すと、狂ったようにそれを森林の茂みへと投げ放った。続けざまに二本、三本と赤々と燃える炎が放たれ、周囲の渇いた草木にはじわじわと不吉な火の手が上がり始める。ボヤが立ち上り、黒煙が視界を遮り始めるのに呼応するかのように、悪漢どもは一斉に抜き身の武器を構え、色めき立った。
「ほう……。火攻めによって我らの退路を断つとは、中々に知恵の回る小細工よ」
「こんなもの、魔術師を相手にするには、何の意味もねえけどな……」
ガイストが妙に感心したように頷く横で、ジグは酷く気怠そうに手をかざした。
事実、魔術の門を叩いたばかりの初学者でもない限り、このような局所的な火災は、水や風の術理を僅かに駆使するだけで容易に鎮圧し、突破できてしまう性質のものだ。
「フフ、まあ良い。ジグ君、今日の授業の輝かしい仕上げといこうではないか。ワシという魔術師が到達した深淵の極みを、ここに披露してくれよう!」
「あ、おい! 一体何するつもり……」
立ち上る火の手を見て色めき立っていたのは、何も悪漢どもだけではなかった。
ガイストもまた、目の前の危機的な状況を、己が魔術の真骨頂を思いがけず出会った「一番弟子」の眼前に見せつける、またとない至高の機会であると捉えていたのだ。彼の肉体の周囲には、すでに大気のエーテルが猛烈な風となって渦巻いており、その露出の多い異様な服装も相まって、それはまるで極限の拳闘士が放つ、目に見えぬ闘気の如くであった。
「我が魔の神髄、その双眸にしかと焼き付けるがいいわ! 竜牙爆礫! 目覚めい! 水幻竜王 レヴィア・グラディス!!!」
もはや神聖な響きさえ帯びた術の名を、割れんばかりの大音声で森林に響かせながら、ガイストは極限まで高まった魔力によって白く輝く右腕の拳を、躊躇なく大地の底へと叩きつけた。
刹那、彼の拳から爆発的に放たれた魔力は、地を這う大蛇のように激しくうねりながら、木々の合間を縫って、近くにある広大な湖へと一直線に走っていく。湖水に彼の魔力が到達したその瞬間、水面は眩いばかりの発光を放って荒れ狂い、大地と大気を激しく震わせた。近くに潜んでいた鳥たちは一斉に悲鳴を上げて羽ばたき、周囲の巨木は吹き荒れる衝撃波に激しく身をよじった。
魔術の素養を持たぬ悪党どもの肉眼にさえ、はっきりと視認できるほど、エーテルの赤い燐光が圧倒的な密度で周囲を埋め尽くしたかと思うと、次の瞬間、湖の水が突如として巨大な塊となって盛り上がり、そのまま天空へと浮かび上がった。それはやがて、遠い神聖王国でしか見掛けぬという、見事な、そしてあまりにも巨大な水の竜の姿へと形を変えていった。
完全に呆気に取られ、腰を抜かしている野盗たちを余所に、顕現した水竜は天を衝く神々しき咆哮を上げると、その巨大な水の翼を激しくはためかせた。翼の一閃から生まれた力強い奔流は、瞬く間に野盗たちを一人残らず押し流し、突如として襲いかかった圧倒的な質量を前に、彼らはなすすべもなく泥のように意識を失っていった。
その後、水竜は大きく首をのけぞらせると、天から大地へ向けて、一条の清冽な水のブレスを吐き出した。それは森に燃え広がりつつあった火の手を、一瞬にしてすべて完全に消し去ったのである。
すべての事が終わりを告げた後、水竜はもう一度、静かに咆哮を上げると、そのまま大空の彼方へと舞い上がり、やがて一筋の眩い輝きとなって、虚空へと消え去っていった。
(す……げえ……)
ジグは一連の不条理な出来事を、ただ信じられない思いで、口を開けたまま凝視していた。
かつて自分が少年の頃に、夜の帳の中で何度も夢見た大魔導士の姿を、ガイストという男はまさしくその身をもって到達してみせていたのだ。この男が持つ、魔術師としての絶対的な自負の高さの前にあっては、術に大仰な名を付け、それを戦場で絶叫することが恥ずかしいなどという矮小な価値観は、もはや何一つ問題ですらなかったのである。
顕現させた水竜の完璧な出来栄えに満足し、天を仰いで豪快に笑うガイストを呆然と眺めながら、ジグはこの時――己の敗北を、静かに悟っていたのだった。
「ところでジグ君、このあたりに魔術師を広く募集しておる街はないかね?」
「街……?」
一仕事を終えたような、万感の達成感を瞳に宿して問いかけてくるガイストに対し、ジグは心ここにあらずといった様子で言葉をオウム返しにするしかなかった。
かつての、少年の日の淡き夢。もしも周囲の冷ややかな目や常識など一切気に留めず、ただ愚直にあの頃の憧憬を貫き通していたとしたら、自分も今頃は、あのように大自然の理を平然と捻じ曲げる魔術を行使できていたのだろうか……。ジグの心は、遠い日の夢と、冷徹な現実の狭間を深く彷徨っていた。
「ワシも長く放浪し、修行を続けておるのでな。ここらで一つの街に腰を落ち着けてみるのも、そう悪くはない。出来れば、引き続き魔道の研究に没頭できるような場所が良いのじゃが」
「ああ……それなら……カシムの街がいいんじゃねえかな……」
ジグは半ば虚脱したような、魂の抜けた状態で、自分たちが滞在している都市の名を教えた。今日一日、あまりにも目まぐるしく変化した不条理な出来事の数々に、彼の身体からは文字通り精気が霧散していきそうであった。
「なるほど! 噂に聞く、知の集積たる図書館の街か、悪くないな! では、ワシはもう少しこの界隈で研鑽を積んだ後、その街へ向かうとしよう」
そう言い放つや否や、ガイストはジグの身体を、その巨躯のなかに思い切り抱擁した。
それは、偉大なる先達が、未来ある一番弟子を新たな旅路へと送り出す時の如き、至高の情愛に満ちた、しかしあまりにも力強いものであった。無論、ガイストの岩石の如き鋼の肉体によって、文字通り容赦なく、全力で締め付けられたジグは、肺の空気をすべて搾り取られ、危うく息が絶え絶えになるところであったが。
「ジグ君、お主はワシが今まで数多の地で出会ってきた若者の中で、最も無限の可能性を秘めておる! 己の魔道に、大いなる自信を持つのだ! ガハハハハ!!」
ガイストは豪快に笑い飛ばしながら、ジグの背中を、激励の意を込めてバシバシと何度も激しく叩いた。大陸の各地、数々の死線を巡る過酷な修行の旅路の果てに、これほどまでに有望な、己の理を継ぐべき弟子に巡り合えるとは、長く生きてみるものだと、ガイストは独りいたく感動していたのだった。
もっとも、二人の間に結ばれた奇妙な師弟関係など、時間にして半日程度に過ぎなかったのだが……。大魔術師ガイストにとっては、時の長さなどという瑣末な問題は、それこそ塵芥の如き些細なものでしかなかった。
ジグはもはや、抗う気力すら失ってガイストにされるがままになりながら、森林の奥へと消えゆく彼の豪快な笑い声を、いつまでも、いつまでも耳の奥で聴いていたのだった。
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「これで……どうだ?」
「ええ、充分よく出来ていると思います」
カシムの邸宅の一角では、ガウルとアルスが、いまだ机に向かって薬草の調合を続けていた。
天頂にあった陽の光もようやく傾き始め、公務から戻る邸宅の者たちの気配が周囲に増えてきたため、二人は世話になっている静かな私室へと引き返し、そこで続きの作業に没頭していたのだ。どうせ作るのであるならば、これからの旅の備えとして、あるいは路銀を稼ぐための分まで作ってしまおうということになり、彼らはせっせと出来上がった薬を小さな硝子瓶へと詰め直していた。
ガウルは不慣れな指先の作業に苦労しながらも、戦いとは無縁の、このような静かな営みも中々に愉しいものだな……と、いつの間にか時間を忘れて夢中になっていたのである。
「帰ったぜ……」
「あ、おかえりなさい、ジグ。一人で大丈夫でしたか?」
「結構、遅かったな。大変だったんじゃないか?」
不意に部屋の入り口の扉が開き、そこから掠れたジグの声が聞こえたため、二人は同時にそちらへと声をかけた。
見れば、ジグは心なしか己の身体を引きずるようにして、足取りも危うくフラフラと歩いており、視線は真っ直ぐに寝台へと向けられていた。彼の肉体はまるで鉛の塊のように重く、今にもその場に崩れ落ちそうな様子であった。
「悪い……、ちょっと……寝かせてくれ……うう」
ジグはそれだけを辛うじて絞り出すと、寝台へと倒れ込むようにその身を沈め、瞬く間に深い微睡みの世界へと逃げ込んでしまった。眠りに落ちた彼の背中や、弛緩した全身からは、何か決定的な敗北感のようなものが、絶えず霧のように滲み出ているような気がしてならない――アルスとガウルは、その異様な気配を敏感に感じ取っていた。
「どうしたのでしょう……?」
「さあな……。仕事をしくじったわけでは、なさそうだが」
二人は互いに顔を見合わせ、困惑の混じった声を漏らした。
朝、ジグの姿を見掛けた時には、彼は大量の依頼書を手に、万能感に満ちた足取りで出かけていったはずだ。あの膨大な依頼のすべてを独りでこなしたがゆえに、ここまで疲労困憊しているのだろうかと、二人はそれぞれに想像を巡らせるのだった。
「……でしたら、ジグが目を覚ましたときに元気になるような、活力の法薬を作ってみますか?」
「ああ……、そいつはいいな。やってみよう」
アルスの優しい提案に、ガウルは不器用ながらも口角を上げて応じた。
今日という一日の中で、新たなる技を学び、それが少しずつ己の指先で形になっていくという体験が、ガウルにとっては新鮮でたまらなかったのだ。今度、街の商人から手頃な書物でも買い求め、料理でも覚えてみるのも悪くないな……と、彼はぼんやりと次なる知識への渇望を抱き始めてすらいた。
こうして、戦士と魔術師、それぞれの思いがけぬ「弟子入り」の一日は静かに幕を閉じた。
西の空へと傾いた太陽は、彼らの不条理で温かな一日を労うかのように穏やかにその輪郭を沈ませ、冷厳たる銀の月へと、天空の座を静かに引き渡していった。その日の夜、ジグは久しぶりに、己がまだ何者でもなかった子供の頃の、遠い夢を見たのだった。
それからしばらくの時が流れた後、本当にこの街に大魔術師ガイストは姿を現し、彼はその圧倒的な術理をもって、街を守護する特別な魔術師としてカシムに迎え入れられたらしいのだが――。その頃には既に街を旅立っていたジグがその顛末を知るのは、ずっと後の事であった。
そしてその日を境に、ジグが自らの魔術を行使する際、呪文の詠唱とは異なる「何か」を、酷く小さな声音で呟いているような雰囲気が見受けられるようになったのだが……。
隣を歩むアルスもガウルも、ジグが一体何を口にしているのかを聞き取ることも、そもそも彼が何事かを呟いているという事実にさえ、気づくことは無かったのだった。




