040 再び、西へ
「何をしてるんだ?」
朝陽が柔らかく差し込む庭園のただ中、ぽつんと一人佇んでいたアルスに、ガウルが声をかけた。
カシムの邸宅に厄介になってから、早いもので数日が過ぎていた。ガウルの負った重傷は、彼の生命力と手厚い加療によって大分よくなり、今や再び過酷な旅路へと就けるまでに回復を果たしていたのだった。
ガウルの低い声に振り返ったアルスの掌の上には、いつも彼が灯している、あの清らかな光球が浮かんでいた。
「あ、おはようございます、ガウル。ちょっと、魔術の練習と言いますか……」
「練習、か」
アルスはそう言いながら、手の中の光球をまるで柔らかい粘土でも扱うかのように、細く引き伸ばしたり、丸め直したりして見せる。魔術にはいまだ疎いガウルであったが、形なきものをこれほど器用に操るものだな、と素直に感心せざるを得なかった。
「ええ。これからの旅で、何か二人の守りになるような術が、私にも出来ないかと思って」
「……お前にそこまで背負わせるのも、少々申し訳ない気がするがな」
「ふふ、いいんですよ。それに、自分に出来ることが増えていくというのは、純粋に嬉しいものですから」
ガウルがすまなそうに眉を下げると、アルスは年相応の瑞々しい笑顔を返した。
アルスにとって、精霊たちと語らい、清冽な光と戯れることは、霊峰にいた頃からの数少ない娯楽の一つであった。それに三人で旅をするようになって以来、かつてはただの照明としてしか使ってこなかった光が、これほどまでに自在に形を変え、仲間を助ける力になる。アルスはエーテルがもたらす日々の奇跡に、改めて深い感動を覚えてもいたのだ。
(出来ることが増えていく、か。……確かに、そうかもしれんな)
ガウルは顎に手をやりながら、得心のいったように呟いた。
かつては剣一本が己のすべてだと信じて疑わなかった自分も、今、未知なる魔術の概念に触れ、学ぼうとしている。ほんの僅かでも何かの機微を掴めたかもしれないという感触があるたびに、頑なだった胸の奥に、仄かな灯火のような温かみが生まれるのを、彼自身も確かに感じていた。
「やあ、二人とも。今日ここを発つんだったね」
朗らかな声に誘われて振り返ると、豪奢な上着の襟を正しながら、カシムが二人の方へと歩み寄ってくるところだった。その背後には、いつものように凛とした佇まいの女騎士ヴァレリアとエレナ、そして影のように付き従うザイドの姿もあった。数日前、街の存亡を賭けたあの凄絶な死闘を経験したというのに、カシムの纏う快活さは、そのような血の臭いを微塵も感じさせないほどに洗練されていた。
「カシムさん、本当にお世話になりました。何とお礼を言っていいか……」
「……俺の怪我のせいで長居をしてしまい、公務の邪魔をしてしまった。申し訳ない」
「はは、堅苦しい挨拶はよしてくれ。僕としてはね、君たちがこのまま我が家の食客として、ずっと居座ってくれても一向に構わないくらいさ」
神妙に滞在の礼を述べる二人に向かい、カシムは芝居がかった仕草で明るく笑ってみせた。
もっとも、ジグを含めた彼ら三人という破格の英傑が、自らの陣営に留まってくれることを、一人の領主として密かに激しく熱望していることだけは、紛れもない本心であったのだが。
「アルスさん、何してるんですか?」
カシムの後ろから、エレナが興味津々といった面持ちで弾むように話しかけた。ヴァレリアも言葉こそ発しないものの、その端正な眼差しはアルスの瑞々しい手元に注がれている。度重なる激戦を経て、いまや彼女たちにとって、このうら若き法術師は最大の関心事となりつつあるようだった。
「これはですね……。なんとかこの光をもっと大きく広げて、盾のように使えないかと、先程から練習していたところでして」
「光の盾、ですか。神聖王国の高名な魔術師たちは、押し寄せる軍勢を前にそのような防壁の技をお使いになると、噂に聞きますな」
アルスが光の球をこねるように扱う様を、深く得心のいったように眺めながら、ザイドが顎の髭をなぞった。
ザイドの口から「神聖王国」の名と、障壁の技の話題が出た瞬間、ガウルの脳裏にあの血煙に塗れた城塞都市の光景が過りかけた。だが、彼はそれを顔には微塵も出さず、記憶の暗い底へと静かに押し留めた。奇妙な縁で結ばれたこの仲間たちといる今ならば、いずれ、その過去とも真正面から向き合える日が来る――不思議と、今はそんな風に思えているのだ。
「……本来ならば、俺が大盾でも持ち出せば、一行の守りも少しは堅牢になるのだがな」
古い記憶を塗りつぶすように、ガウルは決まり悪そうに太い腕を組んで零した。
愛用の武器として身の丈程の大剣を選んだ彼にとって、片手を盾で塞がれることは死活問題であった。いかに他を圧倒する剛腕を誇っていようと、戦いの練度は落ち、いつも通りの剣技を振るうことは難しくなるだろう。
「そういえば、ガウルは何故直剣や槍ではなく、そんなに大きな大剣を選ばれたのですか?」
「あ、それ! 私もずっと気になってました!」
「世の騎士の多くは、直剣か騎槍を誉れといたしますからね」
「ん……むう……」
ガウルの些細な独り言に、アルスの無垢な問いかけが返ってきた。それに呼応するかのように、エレナとヴァレリアも以前から抱いていた疑問を晴らす絶好の機会とばかりに、色めき立って話題に乗ってくる。
ガウルは深く唸りながら、迂闊な口を利いてしまったな、と若干の、しかし取り返しのつかない後悔に襲われていた。アルスのあの純粋極まる視線の前にあっては、頑なな騎士の心の防壁など、波に洗われる砂の城に等しい。
「……その、格好いいから……だ」
いくらかの壮絶な葛藤と巡らせた逡巡の果てに、ガウルはすべてを諦めたように、ぽつりと白状した。
いつの間にか耳の裏が火がつくように熱くなり、太い首筋を流れる冷や汗が、通り抜ける風に当たって冷える感触が奇妙だった。彼は幼き日、王都の武闘会にて大地を鳴らし大剣を振るう老戦士の姿を見て以来、少年の胸に理屈ではない熱い憧れを抱いたのだった。
「あーっ! 分かります! 私も子供の頃に古本で読んだ英雄譚の弓使いに憧れて、絶対にこれを極めるんだって決めたんですよ!」
「私も、戦乙女の伝説に心を奪われたのが、剣を志したきっかけだったわね……」
頑強な戦士の思いがけない気恥ずかしそうな告白を聞き、エレナとヴァレリアが少女のころを懐かしむように声を弾ませた。彼女たちもまた、大陸の多くの子供たちと同じく、かつて物語の中で輝いていた英雄や、偉大な魔法使いの姿に、等しく心を躍らせた愛おしい日々があったのだ。
「僕も、きっかけは王国との親睦会で拝見した、一射で獲物を貫く弓の名手に目を奪われたことだったね」
「皆、始まりは同じなのかもしれませんな。私も、幼き日に帝国の旅劇団が演じた騎士劇を見て、夜通し木刀を振り回したものですから」
カシムとザイドもまた、自らの内に眠る少年時代の記憶に触れ、穏やかな笑みを滲ませて言葉を重ねた。カシムには両親の手に引かれて見たあの華やかな親睦会の光景が、ザイドには帝国劇場へと連れて行ってもらった時の胸の高鳴りが、鮮やかによみがえっていた。
言葉に出来ぬほどの憧れや想い。未知なる世界へと最初の一歩を踏み出すきっかけは、身分や生まれが違えど、皆同じなのかもしれない――アルスは皆の話を穏やかに聞きながら、胸を温かなもので満たしていた。
かく言うアルス自身も、自らが「神祖」の血を受け継いだ宿命の者であるなどという大層な事情とは無関係に、ただ、かつて霊峰の頂で光を自在に操ってみせた女神ノエマの、その息を呑むような美しさに深い感動を覚えたのが始まりだったのだから。
そして、おそらくは……と、アルスはまだ身支度を終えて庭園に現れていない、もう一人の仲間の姿を思い浮かべた。あの翠色の魔術師ジグもまた、かつてあの書物にその名を遺した、豪快に笑うグレイデンの後ろ姿に憧れて、魔術師としての第一歩を踏み出したのだろう、と。
静謐な庭園に流れる、それぞれの愛おしい思い出の欠片をなぞるように、朝の瑞々しい風が吹き抜けていく。冷厳な嵐の去った街を、昇り始めた太陽のやわらかな光が、旅立つ者たちの背中を祝福するように優しく照らし出していた。
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「……何やってんだ? あんたら」
一同が一箇所に集まり、何やら妙な温かさを孕んだ空気の中で話し込んでいるところへ、ジグが少し呆れたような声を漏らしながらやってきた。新緑の庭園に踏み込んできた彼の赤髪は、昇りきった陽の光を浴びて、まるで燃え盛る太陽そのもののように鮮烈に輝いている。
「おや、もう身支度はいいのかい?」
カシムがジグへ振り返りながら、親しげに声をかけた。その響きには、生死を共にした長年の友人に投げかけるような、無二の親密さが込められていた。
「あ、うん……。まあな」
「ジグ、何か作っていたみたいですが、一体何をされていたのですか?」
朝陽がまだ地平の端でか細く、頼りなげだった早朝のことだ。アルスが魔術の練習のために外へ出ようとした折、ふと開いた部屋の隙間から、何事か唸りながら机に向かい、異様なほど没頭しているジグの姿を目撃していたのだ。邪魔をしては悪いと、その時は声をかけずに通り過ぎたのだが、アルスはそれが気になって仕方がなかったのである。
「ん、んん~……。その……ほら、これ、一応渡しておこうかと思ってな」
「おや、これは……魔石かい? それにしては、ずいぶんと純度が高そうだ。これほど見事な結晶を、僕が貰ってしまってもいいのかい?」
ジグはどこか言い淀むように視線を泳がせながら、無造作にカシムへと片手を差し出した。
促されるままにカシムが受け取った掌の上には、内側から透き通った物質的な輝きを放つ、一粒の美しい宝石のような結晶が鎮座していた。朝の光の角度によって多様に色味を変え、万華鏡のように妖艶な煌めきをみせるその魔石は、魔術に疎いカシムでさえ、肌を刺すような魔力の脈動をありありと感じ取れるほどであった。魔石の周囲には丁寧に銀の細工が施され、首から下げられるよう紐が通されている。
「装飾品ですか? 凄く綺麗……」
「これはまた……なんとも息を呑むほどに見事な細工ですな」
カシムの掌で静かに拍動する輝きに、エレナとザイドが、驚きに目を見張って感嘆の声を漏らした。彼らの後ろで、ガウルとヴァレリアも言葉こそ発しなかったものの、付け焼き刃の作業でよくぞこれほどの工芸品を作り上げるものだと、感心したようにその指先を眺めていた。
「ジグ、これは?」
「そいつは、まあ……遠くに離れていても、互いに連絡が取れるって代物だ。……対になるやつが、ここにもある」
ジグはそう言って、自らの道具袋から、カシムに渡したものと寸分違わぬ意匠の魔石をもう一つ取り出してみせた。こちらも同様に慎ましやかな装飾が施され、いつでも身に付けられるようになっている。
「あんたら、賢者の石とか、この前のあのヤバい化け物の件とか……これから独自に調べるつもりなんだろ? もし、また手に負えないような何かが起きたなら、そいつで俺を呼んでくれりゃあ……。まあ、駆け付けてやらねえこともない、かな、って……な」
ジグは自分で言葉にしておきながら、段々と猛烈な気恥ずかしさに襲われてきたのか、最後の方は言葉の歯切れがすこぶる悪くなり、決まり悪そうに顔を背けてしまった。
実際のところ、旅立ちの間際の急な思いつきとはいえ、魔石の精製や術式の固定化など、ジグにとっては最も不得手とする地道な分野であったのだ。彼は早朝から、不器用な指先で何度も魔力の臨界を失敗しては最初からやり直し、我慢の限界が来て部屋ごと爆破しそうになる衝動を必死に抑え込みながら、ようやく執念で形にしたのである。
作り終えた頃には、柄にもない真似をしたものだと、脳髄を焦がすような気怠い疲労感の中でぼんやりと思ったもので、それこそが彼の身支度を大幅に遅れさせた最大の理由であった。
「……なるほど。これを僕に、ね」
手の中の魔石の重みと、そこに込められた翠色の魔術師の不器用な「情」の温度を感じ取り、カシムは至極嬉しそうに、そしてどこか悪戯っぽく微笑むのだった。
「なら、これは親愛の贈り物という事でいいのかな?」
「うーん……、まあ……好きに受け取ってくれよ……」
ジグから贈られた首飾りをさっそく首へとかけながら、カシムはどこか悪戯っぽい笑顔を浮かべて声をかけた。極上の結晶が放つ複雑な光彩を胸元に宿した彼の佇まいは、まさしくこの街を統べる若き領主としての風格に満ちており、いずれこの貿易連合国において、歴史を動かす有力諸侯の一人にのし上がるであろう不敵な未来を予感させた。
ジグはカシムのからかうような軽口にはもう半ば呆れ、慣れてしまったようで、抵抗するのを諦めたように溜息混じりの返事を返すだけだった。
(相変わらず、口の悪さに似合わず面倒見のいい男だな……)
ガウルは彼らのそんなやり取りを傍らで眺めながら、不器用な魔術師の気性を愛おしく思い、人知れず口角を上げるのだった。
「だけど、俺達の分の首飾りはどうすっかな……。俺もガウルも、戦いの中でこういう細々とした道具をすぐ無くしちまいそうだしな」
「それならば、アルスが持っていたらどうだ? 前線で刃を交える俺達よりは、遥かに大事に扱ってくれるだろう」
ジグが大きな掌の中で困ったように銀の鎖を弄んでいると、ガウルがもっともな提案を隣から投げかけた。実際、過酷な白兵戦を本領とする二人にとって、装飾品の類はいつの間にか千切れ飛んで紛失してしまうのが常だったが、後方から援護するアルスならばそういった懸念はないだろう。
「んん……まあ、それもそうだな。頼めるか? アル」
「ええ、私でよければ。大切に預かりますね」
アルスは快く頷くと、対となる魔石の首飾りをジグから恭しく受け取り、自らの細い首へと掛けた。
身に付けた瞬間、アルスの纏う空気が一変する。カシムの放つ世俗の権力者の輝きとはまったく異なる、理そのものを体現したかのような一層神秘的な静謐さに、その場にいた誰もが思わず息を呑んだのだった。
「では、そろそろ刻限のようですな」
ザイドが周囲の気配を見やりながら、静かに促した。
見上げる晴天からは、どこまでも柔らかな陽光が降り注ぎ、肌を撫でる風も穏やかそのものだ。新たな旅路へと就くには、これ以上ない佳き日であった。
「まあ、ここから首都アル・ハミドまではさして遠い距離じゃない。遮二無二急がずとも、すぐにまた再会出来るだろうね」
カシムが街の西門の先へと視線を送りながら、不敵に呟いた。彼の双眸は、さらにその遥か先にある連合国の首都アル・ハミドの喧騒を捉えている。彼の推理が正しければ、おそらくあの広大な迷宮都市のどこかに潜んでいるはずなのだ。今、この国を底から揺るがそうとしている、あの不穏な暗雲の中心にいる黒幕が――。
「カシム、お前たちも近いうちに首都へ向かうのか?」
ガウルが、数日分の干し肉や旅道具を詰め込んだ頑丈な袋を肩に担ぎ直しながら問いかける。
「はい。もうすぐ、各都市の諸侯を集めた大がかりな会合がまた開かれますから」
「私達も、護衛として当然お供いたしますわ」
エレナとヴァレリアが、先ほどまでの少女のような表情を一変させ、厳格な騎士の顔となって答えた。彼女たちの任務に対する凛とした誠実さ、そして領主への忠誠は、もはや疑う余地などどこにもなかった。
「それにね……。先日の、魔王の手下を名乗る不届き者が次なる策略を企てて潜伏するとしたら、やはりあの首都をおいて他にないだろう。大きな陰謀を企てるにしても、あの過密な人の海が最も都合がいいからね」
カシムの脳裏にはすでにいくつか具体的な不穏分子の影が思い当たっていたが、あの巨大な都市のどこから手をつけて探りを入れるか、それが目下の難題であった。まずは手始めに、自らの優秀な「影」どもを街に放つか、と思案を巡らせているところだった。
「ううん……それを聞くと、また先が思いやられるな。まあ、俺達はいつも通り、街道をフラフラしながら気ままに行くさ」
「我々のような大所帯が揃って移動しては、敵に警戒の隙を与えるだけで元も子もないからな。別行動が上策だろう」
「もし、何かあれば、いつでも私たちを呼んでくださいね」
三人はそれぞれにカシムたちへ最後の言葉を遺し、別れの挨拶を交わすと、カシムの治める瀟洒な街の門をくぐり抜けた。そして、再び果てなき放浪の旅路へと、確かな足取りで戻っていくのだった。
「旅人の友人か……。悪くない響きだね」
遠ざかってゆく三人の、どこか頼もしい背中を見送るカシムの唇から、誰に聞かせるでもない、独り言のような呟きが零れ落ちた。
これまで彼の周囲にいた「友人」と呼べる存在は、同じ貴族階級の、互いの利害や権謀術数を孕んだ者たちばかりであった。それが、まさかこのような、風と共に気まぐれに生きる風来坊たちと、打算のない友誼を結ぶことになるとは。どこか掴みどころのない、しかし奇妙に温かい友情というのも悪くはないな、とカシムは深く思うのだった。
三人の姿が街道の曲がり角の彼方へと完全に見えなくなるその刹那、彼らの新たな門出を祝福し、背中を押し上げるかのように、瑞々しい風がやわらかに吹き抜けていった。
この風と共に歩む彼らならば、首都を暗く覆っているであろう、あの邪悪な暗雲をも容易く晴らしてみせるに違いない。
若き諸侯カシムは、胸元で静かに脈動する翠色の魔石をそっと指先でなぞりながら、確信に満ちた予感をその胸に抱くのだった。




