036 最初の火 終
「なるほど、時間をかけるほど人知を超えた魔物になってしまうというやつかな」
「そんなの……インチキそのものですけどね!」
カシムとエレナは、絶え間なく矢を放ちながらジグの言葉を咀嚼した。
魔石の矢は、ジグの氷槍が穿った傷口へと正確に吸い込まれ、内側から肉を爆ぜさせる。魔物には確実に痛打を与えているはずなのだが、倒れる気配は微塵もない。
「……常に変異を繰り返している所も厄介ですな。与えた傷すら、傍から再生しているようです、若」
「変化が打ち止めになるまで耐える、という選択肢はなさそうね……」
守備の陣形を崩さぬまま、ザイドとヴァレリアが低く応じる。
狂乱する魔物の爪が建物を削り、広場には瓦礫が散乱してゆく。何より恐るべきは、この異形が市民の籠る避難所を嗅ぎつけることだ。それだけは、何としてもこの場で食い止めねばならない。
「全身が核だとしたら……あの魔物ごと、一気に焼き払うしかねえのか。けど、こんな街中で上級魔術なんて使うわけにはな……」
ジグが周囲の惨状を見やり、苦渋の表情で独り言ちた。
この土地に満ちる豊かなエーテルは、大規模な術式を編むには申し分ない。だが、その強大な魔力は諸刃の剣だ。解き放てば、魔物もろとも街の中枢を壊滅させかねない。
アルスもまた、突破口を探して精霊たちの声に耳を澄ませるが、混沌とする大気の中で、救いの糸口は見えてこなかった。
「……ジグ、俺の大剣に『風』を纏わせることはできるか?」
ジグの葛藤を読み取ったかのように、ガウルが獲物から目を逸らさずに問いかけた。
「そりゃあ可能だが……。そんなことして、どうするつもりだ?」
「はは。俺が風の助けを借りて、あいつを空へ打ち上げてやるさ。思い切りな。……そうすれば、お前も遠慮なく、最大の一撃をぶち込めるだろ?」
虚を突かれたジグに対し、ガウルは不敵な笑みを向ける。
「けれど、ガウル! その怪我で風を纏う刃を制御するなんて、あまりに無茶です」
アルスが心配そうに声をかける。応急処置で傷は塞がっているとはいえ、一振りのたびに激痛がガウルの五体を苛んでいるのは明白だった。
「……心配いらん。これを使う」
ガウルは迷うことなく、胸のベルトから一本の投げナイフを引き抜いた。月光を浴びて鈍く光る刃には、彼が常に愛用している特殊な液体が塗り込まれている。
ガウルはその刃を、自らの腹の傷跡へと突き立てた。治りかけた肉が裂け、鮮やかな鮮血が滲み出す。
「お前、何を――!」
「こいつに塗った痺れ薬で、一時的に痛みを遮断する。長くは持たんが、一気に畳みかけるには充分だ。……行くぞ、ジグ。アルスはあいつの動きを止めてくれ。一瞬でいい」
「……わかりました。くれぐれも、気をつけて。ガウル」
アルスは覚悟を決め、せめて傷口だけでもとガウルの腹に触れて法術で塞ぐ。ジグもまた、ガウルが命を懸けて切り拓こうとする活路を無駄にすまいと、深く、長く息を吸う。
(狂戦士に片足突っ込んでるな……)
極限の戦場において、より鋭く、より残酷なまでに研ぎ澄まされていく戦士の光。仲間への絶対的な信頼がなければ成立しない、無謀なまでの賭け。
ジグはガウルの差し出した大剣の刃に触れ、濁流のような魔力を注ぎ込んだ。
「よし……。やるぞ。アル、準備はいいか?」
「はい、いつでも!」
ジグの指先から放たれた不可視の突風が、大剣の刃を包み込み、咆哮を上げる。その荒ぶる振動はガウルの腕を通じ、全身の血流を沸騰させるかのように伝わった。一瞬の油断が死を招く、魔術と武力の融合。
(これが、魔術の脈動か……)
ガウルは背筋に走る戦慄を、心地よい高揚感として受け入れた。未知の強敵、理外の力。やはり自分は、戦いの中でしか己の生を実感できない傭兵なのかもしれぬと自嘲し、漆黒の瞳に獲物を捉える。薬が回り、痛みは冷徹な闘志へと変わっていた。
「……行くぞッ!」
ガウルの叫びが広場に響き渡る。
一陣の暴風と化した戦士は、夜闇を切り裂き、巨獣の懐へと突き進んだ。
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駆けだしたガウルの背を追うように、ジグは両手をかざし、意識を極限まで尖らせた。
掌の先にあるのは、自身の内側にある魔力だけではない。大気に偏在し、この街の礎を流れる膨大なエーテルに語りかけ、それを一つの強大な術式へと凝縮していく。
「どうやら作戦は決まったようですね……加勢しましょう、ザイド殿!」
「ええ、参りましょう。若とエレナ殿は我らの後ろに!」
ヴァレリアとザイドが、示し合わせたように盾を並べて前進した。
魔物が振り下ろす、建物を粉砕するほどの剛腕を交互に受け止め、火花を散らす。二人の戦士が死力を尽くして注意を逸らすことで、ガウルの前方に、迷いのない一筋の道が切り拓かれた。
追いつめられた魔物が、空へ向けて断末魔のような咆哮を上げた。その歪な口内に、溢れんばかりの「白い炎」が収束していく。かつて地下遺跡でガウルを死の淵に追いやった、精神をも焼き尽くす不浄の劫火。
「おっと、それが噂の白炎かい? 悪いが、邪魔をさせてもらうよ。エレナ、合わせろ!」
「はいッ!」
カシムの放った一矢に、エレナの魔石矢が重なる。
二つの光芒は魔物の大きく開かれた口内へ正確に飛び込み、激しい爆炎を巻き起こした。衝撃に喉を焼かれた魔物は態勢を崩し、放たれる直前だった白炎は霧散して夜闇に溶けてゆく。
ガウルは、その光景すら視界の端に追いやり、ただ標的へと突き進んだ。
普通の兵士ならば、かつて自らを追い詰めた白炎の輝きを見ただけで足が竦むだろう。だが、今のガウルにとって、舞い散る瓦礫も、死の予感も、すべては目的を果たすための雑音に過ぎない。
「これは、エーテルの燐光……。こんなにはっきりと見えるなんて」
ジグの傍らに立つアルスが、感嘆の声を漏らした。
いつの間にか広場には、ジグの魔力に呼応したエーテルが赤い燐光となって可視化され、幻想的な光を放っていた。それは、アルスが女神と最後に別れた時のような、神聖でいて、どこか切ない輝きだった。
「アルス! 頼むッ!」
「はい!」
ガウルの合図を受け、アルスが全霊を込めて光の針を放った。針は魔物の巨大な影を地面に縫い付け、一瞬の、だが決定的な停滞を生み出す。
異形が強引に術を破ろうとしたその刹那、ガウルはすでにその懐へと滑り込んでいた。漆黒の瞳は、獲物を屠る獣のように冷徹に研ぎ澄まされている。
「行くぞ……ジグッ!!」
ガウルが吠え、風を纏った大剣を魔物の胴体めがけて跳ね上げた。
刃が肉に触れた瞬間、封じ込められていた暴風がうねりとなって解放される。全身を駆け巡る凄まじい衝撃。薬で麻痺させていたはずの傷から、神経を逆なでするような激痛が噴き出すが、ガウルは奥歯が砕けるほどに噛み締め、大剣を握る手に己の魂を込めた。
唸りを上げる大剣。
風の奔流に押し上げられ、もはやレッサーデーモンの名残りさえ残さぬ魔物の巨躯が重力に抗うように夜空へと吹き飛ばされた。
「無理やり変異させられちまったのは不憫だが……恨まねえでくれよ!」
天空へと打ち上げられた魔物を見上げ、ジグが叫ぶ。
その両手から放たれたのは、眩いばかりの熱線。
それは魔物の体を貫通することなく、底なしの器に注がれる水のように、その内側へと激しい奔流となって吸い込まれていった。
――次の瞬間。
空中で魔物の全身が、内側から太陽のように白熱した。
轟音とともに、夜空を埋め尽くすほどの大爆発が巻き起こる。
真昼のような光が街を隅々まで照らし、異形の肉体も、それを縛っていた魔王の血も、すべてが等しく灼熱の炎に焼かれ、塵となって霧散していった。
上空から吹き抜ける爆風が、街に停滞していた澱んだ空気をすべて押し流してゆく。
「これは中々、見事だね……。旅人にしておくのが勿体ないくらいだ」
空に残った光の余韻を見つめながら、カシムが誰に言うでもなく呟いた。
若き諸侯として街を背負う彼にとって、これほどの力を持ち、命を預け合える者たちの存在はあまりに眩しい。だが、風とともに生き、一つの場所に留まらぬ彼らの気高さもまた、カシムは深く理解していた。
「……やった、な……」
大剣を地面に突き立て、辛うじて体を支えながらガウルがジグへ視線を投げた。
腹部の重傷に加え、無理やり打ち込んだ痺れ薬が切れ始めているのだろう。額や首筋からは大粒の汗が滴り、呼吸は肺が焼けるような音を立てて荒い。
「ああ。ガウルの大博打のおかげだ」
「体は平気ですか、ガウル」
アルスがガウルへ声をかけて駆け寄る。
法術による応急処置を何度も踏み越え、さらには自ら傷口を広げてまで戦ったガウルの腹部は、今や不気味に腫れ上がり、鮮血が滲み出していた。ガウルはアルスを安心させるように唇の端を上げたが、その笑みも微かに震え、限界が近いことを示していた。
「……いや。そろそろ、立ってるのもキツくなってきたな。悪いが、運ぶのは、任せた……」
「任せとけって。今回も最高に助かったぜ」
「お疲れさまでした。ゆっくり休んでくださいね……」
支えにしていた大剣から力が抜け、ガウルの巨躯が重力に従ってジグへともたれかかる。
ジグは、死線を共にした仲間の、命の熱量そのもののような重みを全身で受け止めた。そこには、激戦を潜り抜けた戦士にしか宿らぬ誇りと、深い安堵が混ざり合っていた。
「う、お……。相変わらず重てえ……。この体格でよくあんなに素早く動けるよな、お前」
「手伝いますよ、ジグ」
「ん、ああ。じゃあ両脇から支えて運ぶか」
ジグが右側に、アルスが左側に立ち、ガウルの太い腕をそれぞれの肩に回す。
身長差ゆえにガウルの足は若干引きずられる形になったが、今はそれが最善だった。それにしても、とジグは隣を見る。これだけの巨躯を支えてもなお、いつもと変わらぬ足取りで歩くアルスの強靭さに、改めて感心するのだった。二人で支えているとはいえ、一体彼の細い体のどこにそんな力があるというのか……。
「若、私は休息のための部屋を用意してきましょう」
「私とエレナも一足早く行って、手当ての準備を。湯も沸かしておかなければ」
「予備の聖水も持ってきてこの辺りの浄化もした方が良さそうですよね……」
ザイドたちがそれぞれの役割を果たすべく、足早に闇の中へ消えてゆく。
彼らの背負った傷だらけの盾が、月光に照らされて鈍く光っていた。
「では、僕はガウル殿の武器を運ばせてもらうよ。皆のおかげで最悪の事態は免れた。礼を言わせてくれ」
カシムが地面に突き刺さっていたガウルの大剣を抜き放つ。しかし、その瞬間、カシムの眉が驚きで跳ね上がった。腕に伝わるのは、到底人間一人が振るうものとは思えぬ、地を這うような鋼の重量。
「へへ……。何もかも重てえだろ? 俺たちの仲間は」
「はは。確かに、あらゆるところが規格外らしいね」
生還した喜びを分かち合うように、彼らは互いに笑みを交わした。体に蓄積した疲労を噛み締めながら、かつての戦場をゆっくりと後にする。
壊れた噴水から流れ続ける水は、もはや澄み渡り、天上の月を鏡のように映し出していた。
不浄な魔物の咆哮も、肺を刺すような穢れた空気も、戦士たちが放った熱気すらも。
今はすべてが夜の静寂へと溶け込み、そこにはただ、清らかな水音だけが響いていた。




